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2008.09.07
世界大師の出現
シェア・インターナショナル代表ベンジャミン・クレーム氏は、
30年にもわたって世界中で精力的に講演活動を続けておられます。
来るべきニューエイジ時代、
彼の待ち望む大救世主マイトレーヤは、いつ我々の前に姿を表すのでしょうか?
キリスト教徒はイエスの再臨を待っていますが、それがいつなのか、誰も知りません。
イスラム教徒はイマム・マーデイと呼ぶ偉大なるイマムを待っています。
ユダヤ教徒はメシアを待っています。イエスが2000年前に、
彼らのメシアとしてやって来られたのですが、認知されませんでした。
ヒンドゥー教徒はクリシュナ、またはカルキアバターを待望しています。
仏教徒はマイトレーヤ仏(日本では弥勒菩薩として知られていますが)、
の到来を待望していますが、それがいつのことか全く分かりません。
仏陀はゴータマ王子を通してこう言われたと仏典に書かれています―この時代には、
つまり、カリユガの終わりの時に、もう一人の偉大なる教師が、
彼と同様の仏陀がやって来る、そして彼の名をマイトレーヤという。
彼はその途方もない霊力によって人類を鼓舞し、
正義と真理に基づいた輝かしい黄金の文明を築くだろう、と。
今日、それが起こりつつあるのです。
世界のすべての大宗教は、
未来の師よリ一層大きな啓示がもたらされるという考えを示している。
キリスト教徒はキリストの再臨を、
仏教徒は次の仏陀・マイトレーヤ仏(弥勒苦薩)の到来を、
回教徒はイマム・マーディを,、ヒンドゥ教徒はクリシュナの生まれ変わりを、
ユダヤ教徒はメシアの到来を待ち望んでいる。
しかし密教徒は、 これらすべての異なる名前は皆同一人物をさし、
世界大師、即ちハイアラキーの覚者方の長である方だと理解しており、
この時代、今にも戻られるものと待ち望んでいる。
「シェア・インターナショナル」
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30年にもわたって世界中で精力的に講演活動を続けておられます。
来るべきニューエイジ時代、
彼の待ち望む大救世主マイトレーヤは、いつ我々の前に姿を表すのでしょうか?
キリスト教徒はイエスの再臨を待っていますが、それがいつなのか、誰も知りません。
イスラム教徒はイマム・マーデイと呼ぶ偉大なるイマムを待っています。
ユダヤ教徒はメシアを待っています。イエスが2000年前に、
彼らのメシアとしてやって来られたのですが、認知されませんでした。
ヒンドゥー教徒はクリシュナ、またはカルキアバターを待望しています。
仏教徒はマイトレーヤ仏(日本では弥勒菩薩として知られていますが)、
の到来を待望していますが、それがいつのことか全く分かりません。
仏陀はゴータマ王子を通してこう言われたと仏典に書かれています―この時代には、
つまり、カリユガの終わりの時に、もう一人の偉大なる教師が、
彼と同様の仏陀がやって来る、そして彼の名をマイトレーヤという。
彼はその途方もない霊力によって人類を鼓舞し、
正義と真理に基づいた輝かしい黄金の文明を築くだろう、と。
今日、それが起こりつつあるのです。
世界のすべての大宗教は、
未来の師よリ一層大きな啓示がもたらされるという考えを示している。
キリスト教徒はキリストの再臨を、
仏教徒は次の仏陀・マイトレーヤ仏(弥勒苦薩)の到来を、
回教徒はイマム・マーディを,、ヒンドゥ教徒はクリシュナの生まれ変わりを、
ユダヤ教徒はメシアの到来を待ち望んでいる。
しかし密教徒は、 これらすべての異なる名前は皆同一人物をさし、
世界大師、即ちハイアラキーの覚者方の長である方だと理解しており、
この時代、今にも戻られるものと待ち望んでいる。
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2008.09.07
次期首相
ローゼン閣下の過去世だそうです。(改訂版)
コピペ
真田昌幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。
信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。
晴信時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立。
後北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において大名化する。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退し、
後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され、
講談や小説などでも知られるようになる。
武田家臣時代
天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として生まれる。
天文22年(1553年)、武田氏への人質として7歳で甲斐へ下り、
武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。
信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、
「我が眼」と称して寵愛したと伝えられている。
永禄12年(1569年)、後北条氏との三増峠の戦いでは使番を務める。
元亀3年(1572年)からの信玄の上洛作戦に参陣し、
12月の三方ヶ原の戦いにも参加している。
元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。
天正2年(1574年)には父の幸隆が死去する。
このとき既に真田氏の家督は嫡男・信綱が継いでいたが、
天正3年(1575年)の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、
昌幸は真田姓に復して真田氏の家督を相続した。
武田家の勢力が三河、遠江から大きく後退し、
昌幸の岳父尾藤頼忠は兄が羽柴秀吉の家臣となっていたのを頼って、
近江に行き秀吉の弟秀長の家臣となっている。
天正6年(1578年)、越後の上杉謙信死後に甲越同盟が成立すると昌幸は、
北条氏の所領であった東上野の沼田領へ侵攻し、沼田城や名胡桃城などを奪取する。
天正7年(1580年)に従五位下、安房守を叙任する。
天正9年(1581年)、勝頼の命令で新たに韮崎へ築城された新府城の作事奉行を務めた。
天正10年(1582年)3月、織田信長による武田征伐が開始される。
すでに長篠の戦いで衰退し、団結力も崩壊していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、
織田軍に次々と領土を侵食されてゆく。
なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は勝頼に甲斐を捨てて、
上野吾妻に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが、
勝頼は小山田信茂の居城・郡内岩殿城を目指して落ち、
その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。
武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵され、
織田家の重臣・滝川一益の与力武将となった。
豊臣大名化から九度山蟄居
織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、
本能寺の変で織田信長が横死すると、
旧武田領の織田勢力は衰微し甲斐・信濃・上野の空白地帯をめぐって徳川家康、
北条氏直、上杉景勝らが争う(天正壬午の乱)。
昌幸は一益の配下として神流川の戦いに敗れると氏直に臣従し、
北条家の信濃侵攻の先手を務める。
与力分の依田氏も北条に引き込み、信濃の北条支配を実現するかの動きであった。
しかし、一転して家康の懐柔に乗り北条を裏切る。
これが契機となって、若神子で徳川と対陣する北条は和睦の途を選択する。
しかし、北条との大同団結を選択した家康は氏直に和睦の条件として、
上野の沼田領を譲渡するという条件を出した。
昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発、
徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。
これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴ブロックへの参加に他ならない。
天正13年(1585年)、真田氏の制圧を狙った家康と氏直は鳥居元忠、
大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵力を昌幸の居城・上田城に、
北条氏邦を沼田城に侵攻させた(上田合戦)。
昌幸はわずか2000の兵力で徳川軍に1300人もの死傷者を出させる、
という大勝をおさめている。
この第一次上田合戦を契機に真田氏は、
武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。
同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも二度以上あったとされる。
秀吉死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強める。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、
在京していた昌幸もこれに従っている。
家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、
諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。
昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇田氏を通じて三成と姻戚にあった関係から、
次男・信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。
東軍先鋒・徳川秀忠の部隊およそ3万8000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、
9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。
昌幸は僅か2000の兵力で篭城して迎え撃ち、
関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦が行われる。
秀忠軍は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦める。
上田合戦は悪天候の影響もあり、結果的に秀忠軍を9月15日(10月21日)の本戦へ遅らせた。
関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、
戦後処理における処分は『上田軍記』などに拠れば昌幸と信繁(幸村)は、
上田領没収と死罪が下されるが東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で赦免され、
上田領は信幸に与えられたという。
12月には紀伊高野山山麓の九度山に蟄居する。
九度山では、国許から援助を受けつつ真田庵で暮らす。
後世に便利物と名高い真田紐を作成して販売したという。
晩年には赦免を願っているが病を得て、慶長16年(1611年)に病没。享年65。
人物
昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある。
これは天正14年(1586年)の景勝上洛を秀吉が労う内容の文書で、
同日付で豊臣家奉行の三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。
これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、
家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は、
現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが、
「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。
これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら、
勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては、
大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を、合わせて評したものである。
実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。
江戸時代の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定『真武内伝』などをはじめ、
現在でも歴史小説などにおいて昌幸は謀将として評され描かれる傾向にある。
『真武内伝』をはじめ江戸期に成立した戦記物に拠れば、
徳川家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると、
「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。
これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。
また、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、
その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯)で、
徳川軍を迎撃する策などを画していたと言う。
これらの伝承は昌幸が2度も徳川の大軍を寡兵をもって撃退したことを踏まえ、
「大坂の陣に昌幸がいたら、豊臣と徳川の運命は大きく変わっていたかも」、
とする憶測が生んだものとされ今もなお同じように考える人は少なからず存在する。
関ヶ原の折、三成の挙兵に際して三成に、
「なぜ前もって知らせてくれなかったのか」と宛てた手紙が残されている。
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真田昌幸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

真田 昌幸(さなだ まさゆき)は戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名である。
信濃先方衆として甲斐武田氏家臣となった信濃の地域領主・真田氏の出自。
晴信時代の武田家に仕え、武田氏滅亡後に自立。
後北条氏や徳川氏との折衝を経て豊臣政権下において大名化する。
上田合戦で2度にわたって徳川軍を撃退し、
後世には戦国時代きっての知将、謀将としての人物像が付加され、
講談や小説などでも知られるようになる。
武田家臣時代
天文16年(1547年)、真田幸隆の三男として生まれる。
天文22年(1553年)、武田氏への人質として7歳で甲斐へ下り、
武田晴信(武田信玄)の奥近習衆に加わった。
信玄は昌幸の父・幸隆にも劣らぬ才能を早くから見抜いて、
「我が眼」と称して寵愛したと伝えられている。
永禄12年(1569年)、後北条氏との三増峠の戦いでは使番を務める。
元亀3年(1572年)からの信玄の上洛作戦に参陣し、
12月の三方ヶ原の戦いにも参加している。
元亀4年(1573年)4月、信玄が病死すると家督を継いだ武田勝頼に仕えた。
天正2年(1574年)には父の幸隆が死去する。
このとき既に真田氏の家督は嫡男・信綱が継いでいたが、
天正3年(1575年)の長篠の戦いで信綱と次兄・昌輝が討死したため、
昌幸は真田姓に復して真田氏の家督を相続した。
武田家の勢力が三河、遠江から大きく後退し、
昌幸の岳父尾藤頼忠は兄が羽柴秀吉の家臣となっていたのを頼って、
近江に行き秀吉の弟秀長の家臣となっている。
天正6年(1578年)、越後の上杉謙信死後に甲越同盟が成立すると昌幸は、
北条氏の所領であった東上野の沼田領へ侵攻し、沼田城や名胡桃城などを奪取する。
天正7年(1580年)に従五位下、安房守を叙任する。
天正9年(1581年)、勝頼の命令で新たに韮崎へ築城された新府城の作事奉行を務めた。
天正10年(1582年)3月、織田信長による武田征伐が開始される。
すでに長篠の戦いで衰退し、団結力も崩壊していた武田軍には組織的な抵抗力が無く、
織田軍に次々と領土を侵食されてゆく。
なお江戸期編纂の文書に拠れば、このとき昌幸は勝頼に甲斐を捨てて、
上野吾妻に逃亡するように進言し岩櫃城へ迎える準備をしていたが、
勝頼は小山田信茂の居城・郡内岩殿城を目指して落ち、
その結果途中で信茂の裏切りに遭って最期を遂げることになったと言われている。
武田氏滅亡後、昌幸は織田信長の家臣となって本領を安堵され、
織田家の重臣・滝川一益の与力武将となった。
豊臣大名化から九度山蟄居
織田氏に従属してから僅か3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、
本能寺の変で織田信長が横死すると、
旧武田領の織田勢力は衰微し甲斐・信濃・上野の空白地帯をめぐって徳川家康、
北条氏直、上杉景勝らが争う(天正壬午の乱)。
昌幸は一益の配下として神流川の戦いに敗れると氏直に臣従し、
北条家の信濃侵攻の先手を務める。
与力分の依田氏も北条に引き込み、信濃の北条支配を実現するかの動きであった。
しかし、一転して家康の懐柔に乗り北条を裏切る。
これが契機となって、若神子で徳川と対陣する北条は和睦の途を選択する。
しかし、北条との大同団結を選択した家康は氏直に和睦の条件として、
上野の沼田領を譲渡するという条件を出した。
昌幸は自力で獲得した沼田割譲について代替地が不明瞭だったことに反発、
徳川・北条と敵対していた越後の上杉景勝に臣従する。
これは徳川・北条連合と対立する上杉・羽柴ブロックへの参加に他ならない。
天正13年(1585年)、真田氏の制圧を狙った家康と氏直は鳥居元忠、
大久保忠世、平岩親吉ら約7000の兵力を昌幸の居城・上田城に、
北条氏邦を沼田城に侵攻させた(上田合戦)。
昌幸はわずか2000の兵力で徳川軍に1300人もの死傷者を出させる、
という大勝をおさめている。
この第一次上田合戦を契機に真田氏は、
武田の旧臣から信濃の独立勢力(大名)として豊臣系大名の間で認知されることになった。
同様の構図による戦いは幾度か再戦があり、少なくとも二度以上あったとされる。
秀吉死後の豊臣政権においては五大老筆頭の家康が台頭し、影響力を強める。
慶長5年(1600年)7月、家康は出仕を拒否する上杉景勝に討伐軍を起こして関東へ下り、
在京していた昌幸もこれに従っている。
家康の留守中に五奉行の石田三成が挙兵し、
諸大名に家康弾劾の書状を送り多数派工作を始める。
昌幸は下野国犬伏で書状を受け取ったと言われ宇田氏を通じて三成と姻戚にあった関係から、
次男・信繁(幸村)と共に西軍に与し、上田城へ引き返す。
東軍先鋒・徳川秀忠の部隊およそ3万8000の大軍は江戸を発して中仙道を下り、
9月6日(10月12日)には上田城攻略を開始する。
昌幸は僅か2000の兵力で篭城して迎え撃ち、
関ヶ原の戦いの前哨戦である第二次上田合戦が行われる。
秀忠軍は美濃への着陣を促され、上田攻略を諦める。
上田合戦は悪天候の影響もあり、結果的に秀忠軍を9月15日(10月21日)の本戦へ遅らせた。
関ヶ原の戦いでは西軍が敗れ、
戦後処理における処分は『上田軍記』などに拠れば昌幸と信繁(幸村)は、
上田領没収と死罪が下されるが東軍に属した長男の信幸(後の信之)の助命嘆願で赦免され、
上田領は信幸に与えられたという。
12月には紀伊高野山山麓の九度山に蟄居する。
九度山では、国許から援助を受けつつ真田庵で暮らす。
後世に便利物と名高い真田紐を作成して販売したという。
晩年には赦免を願っているが病を得て、慶長16年(1611年)に病没。享年65。
人物
昌幸を「表裏比興の者」と評した文書がある。
これは天正14年(1586年)の景勝上洛を秀吉が労う内容の文書で、
同日付で豊臣家奉行の三成・増田長盛が景勝へ宛てている添書条に記されている。
これは家康上洛に際して家康と敵対していた昌幸の扱いが問題となり、
家康の真田攻めで景勝が昌幸を後援することを禁じた際の表現で「比興」は、
現在では「卑怯」の当て字で用いられる言葉だが、
「くわせもの」あるいは「老獪」といった意味で使われ、武将としては褒め言葉である。
これは地方の小勢力に過ぎない昌幸が、周囲の大勢力間を渡り歩きながら、
勢力を拡大させていった手腕(知謀・策略)と場合によっては、
大勢力との衝突(徳川との上田合戦等)も辞さない手強さ(武勇)を、合わせて評したものである。
実際、昌幸を「比興の者」と評したと目される三成は、真田家と縁を結んでいる。
江戸時代の享保16年(1731年)に成立した松代藩士・竹内軌定『真武内伝』などをはじめ、
現在でも歴史小説などにおいて昌幸は謀将として評され描かれる傾向にある。
『真武内伝』をはじめ江戸期に成立した戦記物に拠れば、
徳川家康は大坂冬の陣において真田が大坂城に入城した知らせを受けると、
「親の方か?子の方か?」と訊ねたと言われる。
これは「謀将」昌幸の病死を家康を始め当時の武将達が半ば疑っていたことを示唆している。
また、昌幸は九度山幽閉中に家康が近い将来豊臣氏を滅ぼすことを予期していたと言われ、
その際には青野ヶ原(大垣市を中心とする西美濃一帯)で、
徳川軍を迎撃する策などを画していたと言う。
これらの伝承は昌幸が2度も徳川の大軍を寡兵をもって撃退したことを踏まえ、
「大坂の陣に昌幸がいたら、豊臣と徳川の運命は大きく変わっていたかも」、
とする憶測が生んだものとされ今もなお同じように考える人は少なからず存在する。
関ヶ原の折、三成の挙兵に際して三成に、
「なぜ前もって知らせてくれなかったのか」と宛てた手紙が残されている。



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