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2008.09.08
梵天バカへの説法
お釈迦さまは、神霊に対しても説法しました。
神々の師と言われる所以です。
お釈迦さまの説く法は、創造神をも凌ぐスケールであったのです。
「梵天よ、わたしは知っている。
もし、わたしが地に執着すれば、
わたしはあなたの近くに住むものとなるであろう。
もし水に、火に、風に、生じたものに、天に、創造主に、梵天に執着すれば、
わたしはあなたの近くに住むものとなるであろう。
さらに梵天よ、わたしは、梵天バカはこのように大きな超自然力をもっており、
梵天バカはこのような大きな威力をもっており、
梵天バカはこのような大きな力をもっている、とあなたの達成を知り、威光を知っている。
月と太陽とが運行し、四方に光が輝く限りの、その千の世界にあなたの力ははたらく。
あなたは貴きと卑しきとを知り、貧者と離貧者とを、
ここの存在と他所の存在とを、生ける者たちのやって来るもとと、おもむく先とを知る。
梵天よ、このようにわたしはあなたの達成を知り、威光を知っている。
梵天バカはこのように大きな超自然力をもっており、
梵天バカはこのような大きな威力をもっており、
梵天バカはこのような大きな力をもっている、と。
梵天よ、他にも神々の衆がある。
それについてあなたは知らず見ないが、わたしは知り見る。
梵天よ。光音天という名前の神々の集まりがある。
あなたはそこからここへ再生したのだ。
しかし、あなたはここにあまりに長く住んでいるので、
それについての記憶がなくなってしまった。
それゆえにあなたはそれを知らず見ないのだ。しかしわたしは知り見る。
梵天よ、このように勝れた智慧についてはあなたと等しくはない。
どこが劣っていようか。それゆえわたしはあなたよりすぐれている。
梵天よ、わたしは一切を一切として了知し、
一切のもつ一切の性質として経験されないものがあれば、それを了知し、
一切であると考えず、一切のなかにあるものであると考えず、
一切より生じたものであると考えず、
一切はわたしのものであると考えず、一切を尊重しない。
梵天よ、このようにすぐれた智慧についてはあなたと等しくはない。
どこが劣っていようか。それゆえわたしはあなたよりすぐれている。
霊威は眼には見えず、無限であり、あらゆる場所に輝いている。
それは、地のもつ地の性質として経験されず、水のもつ水の性質として経験されず、
火のもつ火の性質として経験されず、風のもつ風の性質として経験されず、
生じたもののもつ生じたものの性質として経験されず、
天のもつ天の性質として経験されず、
創造主のもつ創造主としての性質として経験されず、
梵天のもつ梵天としての性質として経験されず、
光音天のもつ光音天としての性質として経験されない。」
「世尊よ、わたしはあなたの前から姿を消してみせよう。」
「梵天よ、もしできるなら、あなたはわたしの前から姿を消してみせなさい。」
しかし比丘たちよ、梵天バカは、
『わたしは沙門ゴータマの前から姿を消してみせよう。』といいながら、
わたしの前から姿を消すことができなかった。
比丘たちよ、このようにいわれて、わたしは梵天バカに次のようにいった。
「梵天よ、わたしがあなたの前から姿を消してみせよう。」
比丘たちよ、そこでわたしは、
梵天にはその間はわたしの声は聞こえるが、
わたしの姿は見えないという神変を行ない、姿を消したままで次の詩偈を語った。
「生存のうちの恐怖と、生存から離脱することを求める人々の生存とを見て、
わたしは生存を尊重せず、いかなる喜びにも執着しない。」
すると比丘たちよ、梵天には、
『希有のことだ、いまだかつてなかったことだ』という思いが生じ、
『沙門ゴータマの大きな超自然力と大きな威力とのことです。
じつにいまだかつてなかったことです。
シャカ族の子であり、シャカ族から出家した沙門ゴータマのような、
このような大きな超自然力のある、このような大きな威力のある沙門、
またはバラモンを以前に他に見たこともなく聞いたこともありません。
生存を喜び、生存を楽しみ、生存を喜悦している人々のなかにあって、
あなたは生存を、その根元と一緒に、除去しました。』といった。
パーリ原始仏典中部第49経「梵天招待経」
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神々の師と言われる所以です。
お釈迦さまの説く法は、創造神をも凌ぐスケールであったのです。
「梵天よ、わたしは知っている。
もし、わたしが地に執着すれば、
わたしはあなたの近くに住むものとなるであろう。
もし水に、火に、風に、生じたものに、天に、創造主に、梵天に執着すれば、
わたしはあなたの近くに住むものとなるであろう。
さらに梵天よ、わたしは、梵天バカはこのように大きな超自然力をもっており、
梵天バカはこのような大きな威力をもっており、
梵天バカはこのような大きな力をもっている、とあなたの達成を知り、威光を知っている。
月と太陽とが運行し、四方に光が輝く限りの、その千の世界にあなたの力ははたらく。
あなたは貴きと卑しきとを知り、貧者と離貧者とを、
ここの存在と他所の存在とを、生ける者たちのやって来るもとと、おもむく先とを知る。
梵天よ、このようにわたしはあなたの達成を知り、威光を知っている。
梵天バカはこのように大きな超自然力をもっており、
梵天バカはこのような大きな威力をもっており、
梵天バカはこのような大きな力をもっている、と。
梵天よ、他にも神々の衆がある。
それについてあなたは知らず見ないが、わたしは知り見る。
梵天よ。光音天という名前の神々の集まりがある。
あなたはそこからここへ再生したのだ。
しかし、あなたはここにあまりに長く住んでいるので、
それについての記憶がなくなってしまった。
それゆえにあなたはそれを知らず見ないのだ。しかしわたしは知り見る。
梵天よ、このように勝れた智慧についてはあなたと等しくはない。
どこが劣っていようか。それゆえわたしはあなたよりすぐれている。
梵天よ、わたしは一切を一切として了知し、
一切のもつ一切の性質として経験されないものがあれば、それを了知し、
一切であると考えず、一切のなかにあるものであると考えず、
一切より生じたものであると考えず、
一切はわたしのものであると考えず、一切を尊重しない。
梵天よ、このようにすぐれた智慧についてはあなたと等しくはない。
どこが劣っていようか。それゆえわたしはあなたよりすぐれている。
霊威は眼には見えず、無限であり、あらゆる場所に輝いている。
それは、地のもつ地の性質として経験されず、水のもつ水の性質として経験されず、
火のもつ火の性質として経験されず、風のもつ風の性質として経験されず、
生じたもののもつ生じたものの性質として経験されず、
天のもつ天の性質として経験されず、
創造主のもつ創造主としての性質として経験されず、
梵天のもつ梵天としての性質として経験されず、
光音天のもつ光音天としての性質として経験されない。」
「世尊よ、わたしはあなたの前から姿を消してみせよう。」
「梵天よ、もしできるなら、あなたはわたしの前から姿を消してみせなさい。」
しかし比丘たちよ、梵天バカは、
『わたしは沙門ゴータマの前から姿を消してみせよう。』といいながら、
わたしの前から姿を消すことができなかった。
比丘たちよ、このようにいわれて、わたしは梵天バカに次のようにいった。
「梵天よ、わたしがあなたの前から姿を消してみせよう。」
比丘たちよ、そこでわたしは、
梵天にはその間はわたしの声は聞こえるが、
わたしの姿は見えないという神変を行ない、姿を消したままで次の詩偈を語った。
「生存のうちの恐怖と、生存から離脱することを求める人々の生存とを見て、
わたしは生存を尊重せず、いかなる喜びにも執着しない。」
すると比丘たちよ、梵天には、
『希有のことだ、いまだかつてなかったことだ』という思いが生じ、
『沙門ゴータマの大きな超自然力と大きな威力とのことです。
じつにいまだかつてなかったことです。
シャカ族の子であり、シャカ族から出家した沙門ゴータマのような、
このような大きな超自然力のある、このような大きな威力のある沙門、
またはバラモンを以前に他に見たこともなく聞いたこともありません。
生存を喜び、生存を楽しみ、生存を喜悦している人々のなかにあって、
あなたは生存を、その根元と一緒に、除去しました。』といった。
パーリ原始仏典中部第49経「梵天招待経」



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2008.09.08
目覚めの時
誰にでも、目覚めの時は訪れます。
その為にも、常にオープンマインドでいましょう。
奇跡など自分には起こらないだろう、と思うべきではないのです。
あらゆる霊の道の教えは、希望を呼び覚ましてくれる。
それはまた、神の力と慈しみ、それに奇跡という次元を垣間見ることを可能にしてくれる。
普遍的な真理は、生命が永遠の流れであり、
無限の力をもっているということを教えてくれる。
心身と同様に、霊が癒されるためにも滋養が必要だ。
自ら行動を起こし、魂の闇夜へと恐れずに足を踏み入れ、
人生を永遠に変えてしまった人々の物語や叡智に心を動かされ、
ひらめきを受けることで、自分も行動を起こす勇気を蓄えよう。
あまりなじみのない教えが語る叡智にもふれてみる。
厳格なユダヤ教を求めたハシディームの物語を読み、ユダヤ秘教「カバラ」を探る。
スーフィの教えの寓話や、イランの神秘家詩人ルーミーの詩を楽しもう。
仏陀の説話や、ティク・ナット・ハンの単純明快な教えを学ぶのもよい。
キリスト教の神秘家である「砂漠の父たち」から、
「ウパニシャッド」の文献まで、広く探ってみよう。どれも驚くほど読みやすいものだ。
ここにあげたような教えに出てくる話には、
論理的に考えると意味をなさないものもある。実は、そのほうが効果的なのだ。
論理思考を超越した本質的な美と、内に秘められた力がそこにはあるからである。
霊に滋養を与えてくれるような物語や真理を吸収していくと、
内面から気が解き放たれるのを感じることだろう。
それは普遍的な真理と共鳴する気であり、
自分のいる世界とひとつになる道へと導いてくれる。
このエネルギーは、まさに「恩寵」と呼ぶしかないものだ。
この波動の力は強烈で、一瞬の間であっても、人をまわりの状況から離し、
ひとつ高いレベルヘと引き上げる。自分で対処できないものは何もなく、
結果がどうあろうとも、すべてはうまくいくのだという気持ちで満たしてくれるのである。
恩寵とは、もちろんいつも明らかにわかる力として現れるわけではない。
かすかにしかわからないもの、凡庸なもの、あるいは、
人のあり方まで変えてしまうほど強力なものなど、さまざまなかたちでやってくる。
恩寵は「共時性」として現れることもある。
いちばん必要としているとき、そしてまったく予想していなかったときに、
安らぎをもたらしたり、必要な助けを提供したり、あるいは劇的とも思えるようなかたちで、
このエネルギーがさまざまな人々の出会いをつくったり、
いろいろな出来事を起こしたりするケースだ。あるいは、あたかも光が差したように、
突然の理解をもたらす力となり、それまでどうしてもつかめなかったことが見えたりする。
意識を覚醒時とは異なる状態へと誘い、
あまりなじみのないエネルギーで満たしてくれることもある。
それは、愛情と希望、そして何をも恐れぬという気持ちが組み合わさった、
何ともいえない精神状態だ。また、恩寵は保護する力でもあり、
何らかのかたちで存在が脅かされるような状況では、私たちを囲む盾となる。
あなたの人生で起きるすべての出来事は、この恩寵のエネルギーがつくり出したものだ。
驚異的な瞬間と同じように、ごくふつうの状況にも注意を払い、
その出来事の裏に神なる存在のエネルギーが隠されていることに気づこう。
キャロライン・メイス「チャクラで生きる」
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その為にも、常にオープンマインドでいましょう。
奇跡など自分には起こらないだろう、と思うべきではないのです。
あらゆる霊の道の教えは、希望を呼び覚ましてくれる。
それはまた、神の力と慈しみ、それに奇跡という次元を垣間見ることを可能にしてくれる。
普遍的な真理は、生命が永遠の流れであり、
無限の力をもっているということを教えてくれる。
心身と同様に、霊が癒されるためにも滋養が必要だ。
自ら行動を起こし、魂の闇夜へと恐れずに足を踏み入れ、
人生を永遠に変えてしまった人々の物語や叡智に心を動かされ、
ひらめきを受けることで、自分も行動を起こす勇気を蓄えよう。
あまりなじみのない教えが語る叡智にもふれてみる。
厳格なユダヤ教を求めたハシディームの物語を読み、ユダヤ秘教「カバラ」を探る。
スーフィの教えの寓話や、イランの神秘家詩人ルーミーの詩を楽しもう。
仏陀の説話や、ティク・ナット・ハンの単純明快な教えを学ぶのもよい。
キリスト教の神秘家である「砂漠の父たち」から、
「ウパニシャッド」の文献まで、広く探ってみよう。どれも驚くほど読みやすいものだ。
ここにあげたような教えに出てくる話には、
論理的に考えると意味をなさないものもある。実は、そのほうが効果的なのだ。
論理思考を超越した本質的な美と、内に秘められた力がそこにはあるからである。
霊に滋養を与えてくれるような物語や真理を吸収していくと、
内面から気が解き放たれるのを感じることだろう。
それは普遍的な真理と共鳴する気であり、
自分のいる世界とひとつになる道へと導いてくれる。
このエネルギーは、まさに「恩寵」と呼ぶしかないものだ。
この波動の力は強烈で、一瞬の間であっても、人をまわりの状況から離し、
ひとつ高いレベルヘと引き上げる。自分で対処できないものは何もなく、
結果がどうあろうとも、すべてはうまくいくのだという気持ちで満たしてくれるのである。
恩寵とは、もちろんいつも明らかにわかる力として現れるわけではない。
かすかにしかわからないもの、凡庸なもの、あるいは、
人のあり方まで変えてしまうほど強力なものなど、さまざまなかたちでやってくる。
恩寵は「共時性」として現れることもある。
いちばん必要としているとき、そしてまったく予想していなかったときに、
安らぎをもたらしたり、必要な助けを提供したり、あるいは劇的とも思えるようなかたちで、
このエネルギーがさまざまな人々の出会いをつくったり、
いろいろな出来事を起こしたりするケースだ。あるいは、あたかも光が差したように、
突然の理解をもたらす力となり、それまでどうしてもつかめなかったことが見えたりする。
意識を覚醒時とは異なる状態へと誘い、
あまりなじみのないエネルギーで満たしてくれることもある。
それは、愛情と希望、そして何をも恐れぬという気持ちが組み合わさった、
何ともいえない精神状態だ。また、恩寵は保護する力でもあり、
何らかのかたちで存在が脅かされるような状況では、私たちを囲む盾となる。
あなたの人生で起きるすべての出来事は、この恩寵のエネルギーがつくり出したものだ。
驚異的な瞬間と同じように、ごくふつうの状況にも注意を払い、
その出来事の裏に神なる存在のエネルギーが隠されていることに気づこう。
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