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2008.09.11
不思議映像
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2008.09.11
毒矢のたとえ
お釈迦さまは「無記」によって霊魂や死後の世界を否定したのだ、とよく言われます。
しかし、これは意図的に捻じ曲げられた解釈なのです。
有名な「毒矢のたとえ」を見てみましょう。
尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、
こころに次のような思考が起こった。
「これらの見解を世尊は説いておらず、捨てておかれ、無視されている。すなわち、
『世界は永遠である』とも、『世界は永遠でない』とも、
『世界は有限である』とも、『世界は無限である』とも、
『生命と身体とは同一である』とも、『生命と身体とは別異である』とも、
『如来は死後存在する』とも、『如来は死後存在しない』とも、
『如来は死後存在しながらしかも存在しない』とも、
『如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない』とも。
こういうこれらのさまざまな見解を世尊はわたしに説かなかった。
世尊がわたしに説かなかったということは、わたしにはうれしいことではない。
わたしには堪えられることではない。
わたしは世尊のもとへ行って、その意味を尋ねよう。
もし世尊が、答えて下さるなら、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しよう。
もし世尊が、答えて下さらないなら、
わたしは修学を放棄して、世俗の生活に戻ることにしよう。」
そこでマールンキャープッタは、
夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やってきて世尊にあいさつしてかたわらにすわった。
かたわらにすわったマールンキャープッタは世尊にいった。
「尊師よ、もし世尊が、『世界は永遠であるかないか』、『世界は有限か無限か』、
『生命と身体とは同じか別か』、『如来は死後存在するかしないか』、
ということについて知っているなら、世尊はわたしに説いてください。
もし世尊が知らないなら、知らない者、わからない者にとり、
『わたしは知らない、わたしはわからない』というのが正しいことです。」
「マールンキャープッタよ、
たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、
または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったり、またもしかれが、
『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、
動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、
キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、
ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、
あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、
シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、
水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、
ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、
カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、これとまったく同様に、
『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、
『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、
『生命と身体とは同一である』とか、『生命と身体とは別異である』とか、
『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、
という人がおれば、マールンキャープッタよ、
世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『それらの答えがあれば、清らかな行ないを実修するであろう』というのは正しくない。
それらの答えがあっても、
しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に現世においてこれらを制圧することを説く。
マールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
マールンキャープッタよ、『これは苦である』とわたしは説く。
『これは苦の生起する原因である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅に導く道(実践)である』とわたしは説く。
マールンキャープッタよ、なぜにそれをわたしは説くのか。
なぜならこのことは目的にかない、清らかな行ないの初歩であり、
世俗的なものを厭離すること、情欲から離れること、煩悩を消滅すること、
こころの平静、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役に立つ。
それゆえわたしはそれを説いたのである。
それゆえマールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。」
世尊は以上のように説いた。
尊者マールンキャープッタは歓喜し、世尊の教説を信受した。
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
このマールンキャープッタの問いは、
「霊魂の有無」や「死後の世界の有無」に関するものではありません。
問いは、「肉体といのちの同異」や「如来の死後の状態」に関するものなのです。
しかも、お釈迦さまの答えは、
それらの答えがどうであろうとも、現に生老病死の苦がある、
その解決が先である、というものです。
お釈迦さまは、現世において現実の苦しみを解決をしないと、
また来世で苦の輪廻を受けることになるというカルマの法則を示しておられるのです。
「無記」というのは、霊魂や死後の世界を否定したものではありません。
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しかし、これは意図的に捻じ曲げられた解釈なのです。
有名な「毒矢のたとえ」を見てみましょう。
尊者マールンキャープッタは人影のないところへ行って静思していたが、
こころに次のような思考が起こった。
「これらの見解を世尊は説いておらず、捨てておかれ、無視されている。すなわち、
『世界は永遠である』とも、『世界は永遠でない』とも、
『世界は有限である』とも、『世界は無限である』とも、
『生命と身体とは同一である』とも、『生命と身体とは別異である』とも、
『如来は死後存在する』とも、『如来は死後存在しない』とも、
『如来は死後存在しながらしかも存在しない』とも、
『如来は死後存在するのでもなく存在しないのでもない』とも。
こういうこれらのさまざまな見解を世尊はわたしに説かなかった。
世尊がわたしに説かなかったということは、わたしにはうれしいことではない。
わたしには堪えられることではない。
わたしは世尊のもとへ行って、その意味を尋ねよう。
もし世尊が、答えて下さるなら、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しよう。
もし世尊が、答えて下さらないなら、
わたしは修学を放棄して、世俗の生活に戻ることにしよう。」
そこでマールンキャープッタは、
夕方、静思の座から立ち上がって、世尊のところへやってきた。
やってきて世尊にあいさつしてかたわらにすわった。
かたわらにすわったマールンキャープッタは世尊にいった。
「尊師よ、もし世尊が、『世界は永遠であるかないか』、『世界は有限か無限か』、
『生命と身体とは同じか別か』、『如来は死後存在するかしないか』、
ということについて知っているなら、世尊はわたしに説いてください。
もし世尊が知らないなら、知らない者、わからない者にとり、
『わたしは知らない、わたしはわからない』というのが正しいことです。」
「マールンキャープッタよ、
たとえばある人が毒を厚く塗った矢で射られたとしよう。
かれの友人や同僚や親戚の者たちが内科医や外科医に手当をさせようとしたとしよう。
もしかれが、『わたしを射た者がクシャトリヤ階級の者か、バラモン階級の者か、
ヴァイシャ階級の者か、シュードラ階級の者かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者の名前はこれこれであり、姓はこれこれであると知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は背が高いか背が低いか中くらいか知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者は黒いか褐色か金色の肌をしているかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た者はこれこれの村に、または町に、
または都市に住んでいると知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た弓は普通の弓か石弓かが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったり、またもしかれが、
『わたしを射た弓の弦がアッカ草でつくったものか、サンタ草でつくったものか、
動物の腱でつくったものか、マルヴァー麻でつくったものか、
キーラパンニンでつくったものかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
わたしを射た矢の矢柄がカッチャ葦であるか、
ローピマ葦であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、『わたしを射た矢の矢柄につけられた羽は鷲の羽であるか、
あおさぎの羽であるか、鷹の羽であるか、孔雀の羽であるか、
シティラハヌの羽であるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
またもしかれが、わたしを射た矢の矢柄に巻いてある腱は牛のものであるか、
水牛のものであるか、鹿のものであるか、猿のものであるかが知られないうちは、
わたしはこの矢を抜かない』といったら、またもしかれが、
『わたしを射た矢は普通の矢であるか、クラッパであるか、ヴェーカンダであるか、
ナーラーチャであるか、ヴァッチャダンタであるか、
カラヴィーラパッタであるかが知られないうちは、わたしはこの矢を抜かない』といったら、
マールンキャープッタよ、その者はそれを知らないうちに死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、これとまったく同様に、
『世界は永遠である』とか、『世界は永遠でない』とか、
『世界は有限である』とか、『世界は無限である』とか、
『生命と身体とは同一である』とか、『生命と身体とは別異である』とか、
『如来は死後存在する』とか、『如来は死後存在しない』とか、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』とか、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』とかを、
世尊がわたしに説かないうちは、わたしは世尊のもとで清らかな行ないを実践しない、
という人がおれば、マールンキャープッタよ、
世尊によって説かれないままに、その人は死んでしまうであろう。
マールンキャープッタよ、
『それらの答えがあれば、清らかな行ないを実修するであろう』というのは正しくない。
それらの答えがあっても、
しかも生があり、老いることがあり、死があり、憂い、苦痛、嘆き、悩み、悶えがある。
わたしは現実に現世においてこれらを制圧することを説く。
マールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。
では、マールンキャープッタよ、わたしは何を説かなかったか。
『世界は永遠である』、『世界は永遠でない』、『世界は無限である」、
『生命と身体とは同一である』、『生命と身体とは別異である』、
『如来は死後存在する』、『如来は死後存在しない』、
『如来は死後存在しながら、しかも存在しない』、
『如来は死後存在するのでもなく、存在しないのでもない』、とわたしは説かなかった。
マールンキャープッタよ、なにゆえにわたしはこのことを説かなかったのか。
マールンキャープッタよ、なぜならこのことは目的にかなわず、
清らかな行ないの基礎とならず、世俗的なものを厭離すること、
情欲から離れること、煩悩を消滅すること、こころの平静、すぐれた智慧、
正しいさとり、涅槃のために役に立たない。
それゆえわたしはそれを説かなかったのである。
マールンキャープッタよ、『これは苦である』とわたしは説く。
『これは苦の生起する原因である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅である』とわたしは説く。
『これは苦の消滅に導く道(実践)である』とわたしは説く。
マールンキャープッタよ、なぜにそれをわたしは説くのか。
なぜならこのことは目的にかない、清らかな行ないの初歩であり、
世俗的なものを厭離すること、情欲から離れること、煩悩を消滅すること、
こころの平静、すぐれた智慧、正しいさとり、涅槃のために役に立つ。
それゆえわたしはそれを説いたのである。
それゆえマールンキャープッタよ、
わたしが説かなかったことは説かなかったこととして了解しなさい。
わたしが説いたことは説いたこととして解しなさい。」
世尊は以上のように説いた。
尊者マールンキャープッタは歓喜し、世尊の教説を信受した。
パーリ原始仏典中部第63経「箭喩経」
このマールンキャープッタの問いは、
「霊魂の有無」や「死後の世界の有無」に関するものではありません。
問いは、「肉体といのちの同異」や「如来の死後の状態」に関するものなのです。
しかも、お釈迦さまの答えは、
それらの答えがどうであろうとも、現に生老病死の苦がある、
その解決が先である、というものです。
お釈迦さまは、現世において現実の苦しみを解決をしないと、
また来世で苦の輪廻を受けることになるというカルマの法則を示しておられるのです。
「無記」というのは、霊魂や死後の世界を否定したものではありません。



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2008.09.11
躓きの石
仏教を専門的に学ぶと、
どうしても「霊魂」の問題に悩まされることになります。
無我とは「霊魂」を否定しているということなのか?
輪廻する主体は「何」なのか?
「何」が生天するのか?
そして、多くの仏教徒がここで躓き、
近代的世界観とも合致する唯物論へと誘導されていくのです。
仏教の霊魂観がややこしく感じられる点について、
東北大学名誉教授の仏教学者、村上真完氏が的確に示しておられます。
インド思想史において、仏教の無我観の位置づけを試みてみたい。
第一に、仏教において輪廻転生を説きながらも、
「霊魂」の観念がない、ということは、思想史上では、
いまだ「霊魂」の観念が明確になる以前の、
古い生命観の延長において考えられるのか。
そして名色の再結合、または五蘊の相続という形で輪廻転生を説明するのも、
「霊魂」観念が明確でない思考法の延長上において理解できるのか。
これは検討を要する問題である。
第二には、仏教においても、心または識(vinnana)が、
霊魂の観念に近づいていくと考えられるが、その場合には、
その「こころ(霊魂)」が転変変化し、生滅しつつ、
いわば不連続の連続(即ち相続)をするだけではなく、
また『倶舎論』等に見るように、その「こころ」も、
諸の心理作用・心理状態(心所法)を伴なう複合体であるという点において、
他学派の「霊魂」観(アートマン、プルシャ、ジーヴァの観念)と著しい相違点がある。
「仏教の考え方」
「霊魂」という言葉に惑わされる必要はありません。
結局、「霊魂」というものも、独立不変のものではなく、
転変する複合体であって、本質的には神の光が分化したエネルギーなのです。
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どうしても「霊魂」の問題に悩まされることになります。
無我とは「霊魂」を否定しているということなのか?
輪廻する主体は「何」なのか?
「何」が生天するのか?
そして、多くの仏教徒がここで躓き、
近代的世界観とも合致する唯物論へと誘導されていくのです。
仏教の霊魂観がややこしく感じられる点について、
東北大学名誉教授の仏教学者、村上真完氏が的確に示しておられます。
インド思想史において、仏教の無我観の位置づけを試みてみたい。
第一に、仏教において輪廻転生を説きながらも、
「霊魂」の観念がない、ということは、思想史上では、
いまだ「霊魂」の観念が明確になる以前の、
古い生命観の延長において考えられるのか。
そして名色の再結合、または五蘊の相続という形で輪廻転生を説明するのも、
「霊魂」観念が明確でない思考法の延長上において理解できるのか。
これは検討を要する問題である。
第二には、仏教においても、心または識(vinnana)が、
霊魂の観念に近づいていくと考えられるが、その場合には、
その「こころ(霊魂)」が転変変化し、生滅しつつ、
いわば不連続の連続(即ち相続)をするだけではなく、
また『倶舎論』等に見るように、その「こころ」も、
諸の心理作用・心理状態(心所法)を伴なう複合体であるという点において、
他学派の「霊魂」観(アートマン、プルシャ、ジーヴァの観念)と著しい相違点がある。
「仏教の考え方」
「霊魂」という言葉に惑わされる必要はありません。
結局、「霊魂」というものも、独立不変のものではなく、
転変する複合体であって、本質的には神の光が分化したエネルギーなのです。



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