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2008.09.13
持続する喜び
楽しいことはこの世にたくさんあります。
美味しいものを食べる、地位の獲得、SEX、ドラッグ、
宴会やパーティー、スポーツ、ギャンブル、ゲームなどなど。
でも、それらの楽しみや喜びは、決して持続しません。
例えば、
病気や怪我などで肉体にダメージを受け、生命の危機を感じると、
あっという間に、いままでの楽しみが色あせてしまいます。
もし健康であったとしても、その楽しさは一時的なものです。
収穫逓減の法則によって、どんな刺激にも慣れてしまうのです。
ところが、例外があります。
それは、宗教体験と言われるところの法悦に伴う喜びです。
これは、
永遠性への自覚であり、
無限の愛への没入であるため、肉体上の制約を受けないのです。
神の愛には限界などありません。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
美味しいものを食べる、地位の獲得、SEX、ドラッグ、
宴会やパーティー、スポーツ、ギャンブル、ゲームなどなど。
でも、それらの楽しみや喜びは、決して持続しません。
例えば、
病気や怪我などで肉体にダメージを受け、生命の危機を感じると、
あっという間に、いままでの楽しみが色あせてしまいます。
もし健康であったとしても、その楽しさは一時的なものです。
収穫逓減の法則によって、どんな刺激にも慣れてしまうのです。
ところが、例外があります。
それは、宗教体験と言われるところの法悦に伴う喜びです。
これは、
永遠性への自覚であり、
無限の愛への没入であるため、肉体上の制約を受けないのです。
神の愛には限界などありません。



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2008.09.13
僧侶への問い
西洋では、神学者と科学者の戦いという図式は昔から定着しています。
それを考えると、現代の日本の仏教僧侶はどういう存在なのでしょうか?
伝統芸能継承者?哲学者?宗教者?拝み屋?
きわめて曖昧な存在なのです。
しかも、僧侶を兼業(二足のわらじを履く)したり出来るのですから、
ますます、どうでもいいような存在になってしまっています。
その僧侶は、科学を語ることもあれば、宗教を語ることもあります。
それでは、
現代の僧侶は、以下の問題に関してどこまでの眼力を持っているでしょうか?
それは「境界線問題」です。
疑似科学と科学、オカルトと宗教、迷信と信仰、神秘主義と合理主義。
今、その見識が、厳しく問われはじめているのです。
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それを考えると、現代の日本の仏教僧侶はどういう存在なのでしょうか?
伝統芸能継承者?哲学者?宗教者?拝み屋?
きわめて曖昧な存在なのです。
しかも、僧侶を兼業(二足のわらじを履く)したり出来るのですから、
ますます、どうでもいいような存在になってしまっています。
その僧侶は、科学を語ることもあれば、宗教を語ることもあります。
それでは、
現代の僧侶は、以下の問題に関してどこまでの眼力を持っているでしょうか?
それは「境界線問題」です。
疑似科学と科学、オカルトと宗教、迷信と信仰、神秘主義と合理主義。
今、その見識が、厳しく問われはじめているのです。



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2008.09.13
無我の教え
お釈迦さまは、無我を説きました。
これは、「肉体」も「霊体」も、我では無いという認識の勧めで、
我がものという執れを捨て去ることによって、
神仏と一体となる「入我我入」の涅槃の悟りを得るためなのです。
よく言われるように、無我とは霊魂が無いということではありません。
お釈迦さまは、非物質領域や形而上を認めた上で無我を説かれたのです。
肉体(物質)のみを認めて、
霊的世界を認めないということであれば、それは単なる唯物論です。
しかも、
お釈迦さまの説かれる断見(肉体の死によっていのちは終わり無になる)、
定見(死後には固定された自分がそのまま存続する)を離れた、
「中道」からも反れてしまうのです。
真実は、肉体も霊体も無常であり、無我であり、空であるということなのです。
そのとき世尊は早朝に衣を身につけ、
衣鉢をもってサーヴァッティヘ行乞のために入って行った。
尊者ラーフラ(世尊の実子)も早朝に衣を身につけ、衣鉢をもって、世尊の後に従った。
そのとき世尊は後ろを振り向いて尊者ラーフラに話しかけた。
「ラーフラよ、
過去・未来・現在の物質であり、内にあるもの、または外にあるもの、
粗大なもの、または微細なもの、卑しいもの、または貴いもの、
遠くにあるもの、または近くにあるもの、すべての物質は、
『それはわたしのものではない。
わたしはそれではない。それはわたしの自我ではない』と、
このように正しい智慧であるがままに見られるべきである。」
「世尊よ、物質だけですか。幸いな人よ、物質だけですか。」
「ラーフラよ、感受作用もである。ラーフラよ、想念もである。
ラーフラよ、意による形成力もである。ラーフラよ、精神もである。」
パーリ原始仏典中部第62経「大ラーフラ教誡経」
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これは、「肉体」も「霊体」も、我では無いという認識の勧めで、
我がものという執れを捨て去ることによって、
神仏と一体となる「入我我入」の涅槃の悟りを得るためなのです。
よく言われるように、無我とは霊魂が無いということではありません。
お釈迦さまは、非物質領域や形而上を認めた上で無我を説かれたのです。
肉体(物質)のみを認めて、
霊的世界を認めないということであれば、それは単なる唯物論です。
しかも、
お釈迦さまの説かれる断見(肉体の死によっていのちは終わり無になる)、
定見(死後には固定された自分がそのまま存続する)を離れた、
「中道」からも反れてしまうのです。
真実は、肉体も霊体も無常であり、無我であり、空であるということなのです。
そのとき世尊は早朝に衣を身につけ、
衣鉢をもってサーヴァッティヘ行乞のために入って行った。
尊者ラーフラ(世尊の実子)も早朝に衣を身につけ、衣鉢をもって、世尊の後に従った。
そのとき世尊は後ろを振り向いて尊者ラーフラに話しかけた。
「ラーフラよ、
過去・未来・現在の物質であり、内にあるもの、または外にあるもの、
粗大なもの、または微細なもの、卑しいもの、または貴いもの、
遠くにあるもの、または近くにあるもの、すべての物質は、
『それはわたしのものではない。
わたしはそれではない。それはわたしの自我ではない』と、
このように正しい智慧であるがままに見られるべきである。」
「世尊よ、物質だけですか。幸いな人よ、物質だけですか。」
「ラーフラよ、感受作用もである。ラーフラよ、想念もである。
ラーフラよ、意による形成力もである。ラーフラよ、精神もである。」
パーリ原始仏典中部第62経「大ラーフラ教誡経」



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