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2008.09.23
三大誤導思想
人類が迷妄、無明から目覚めるためには、
過てる思想、常識を捨て、白紙の状態にしてから、
真理の光に照らして世界を見ていかなければなりません。
そろそろ、20世紀の退廃的な思想から脱却するべき時に来ています。
マルクスやエンゲルスがダーウィンを救世主のごとく大歓迎したのはよく知られている。
ダーウィン自身は、その書いたものを読んでみればわかる通り、
絶対の自信があるわけではなく、自説の難点をよく承知していて、
むしろ蛮勇をふるってものを言っているようなところがある。
これを絶対の「科学」として祭り上げたのは、
利用価値をそこに見出だした追随者たちである。
たとえばエンゲルスは次のように書く。
自然は弁証法の検証である、そして近代の自然科学のためにいうならば、
自然科学は極めて豊富にして日々目撃する材料を提供して次のことを検証している。
すなわち、自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである、
それは不断の循環運動をいつも同じように繰り返さない一つの現実の歴史なのである。
この点で誰よりも先にあげられるべき名はダーウィンである。
彼は、今日の一切の有機的自然、すなわち植物も動物も、したがってまた人間も、
幾百万年にわたるたえまない進化の過程の産物であることを証明し、
それによって自然についての形而上学的見方に強烈な打撃を与えた。
同様に、フロイトもダーウィンを大歓迎した。
ダーウィニズム、マルクシズム、フロイディズム、この三者が類縁者、というより、
むしろ兄弟であることは、今ようやく目覚めつつあるわれわれからみれば明らかである。
闘争、反抗、排除、自己主張、
そういったものがこの三つの思想に共通するキーワードである。
そういった性質はすべて物質、あるいはせいぜい下等動物の属性であり、
これは世界を物質あるいは機械として捉える世界観からしか出てこないものである。
人間に対する侮辱ではないか、という非難に対しては、
どんなにつらかろうとこれがこの世の法則なのだから仕方なかろう、
と答える点でも三者は同じである。
自己中心的に(すなわち「煩悩」を中心として)世界を見る者には、
世界は見る人間に合わせた小さな姿をしか現さない。
この世の実相は結局、色と欲と喧嘩なのだと思い込んだ人間は、
世界のすべての事象を、色と欲と喧嘩として実証する、
非の打ちどころのない大論文をいくらでも書くことができよう。
私はこの三つの思想を現代の三大誤導思想であったと言ってよいと思う。
仮にもっぱらこの三つの思想によって子供を教育することを考えてみよう。
この子が不良にならなければ奇蹟である。
その子にはこう教える、―人間は何ら自らの根拠というものをもたぬ存在で、
「原始スープ」ないし下等動物から(ちょうど泥沼からメタンガスが発生するように)、
発生してきたにすぎず、歴史はもっぱら生存闘争と階級闘争によってつくられるもので、
暴力革命によらなければ前進も改善もできないのであり、
宗教は幻想、芸術は性欲の変形、
良心は「超自我」という黙契による社会の自動安全装置にすぎない・・・。
渡辺久義「意識の再編」
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過てる思想、常識を捨て、白紙の状態にしてから、
真理の光に照らして世界を見ていかなければなりません。
そろそろ、20世紀の退廃的な思想から脱却するべき時に来ています。
マルクスやエンゲルスがダーウィンを救世主のごとく大歓迎したのはよく知られている。
ダーウィン自身は、その書いたものを読んでみればわかる通り、
絶対の自信があるわけではなく、自説の難点をよく承知していて、
むしろ蛮勇をふるってものを言っているようなところがある。
これを絶対の「科学」として祭り上げたのは、
利用価値をそこに見出だした追随者たちである。
たとえばエンゲルスは次のように書く。
自然は弁証法の検証である、そして近代の自然科学のためにいうならば、
自然科学は極めて豊富にして日々目撃する材料を提供して次のことを検証している。
すなわち、自然は結局においては形而上学的にではなく、弁証法的に動くものである、
それは不断の循環運動をいつも同じように繰り返さない一つの現実の歴史なのである。
この点で誰よりも先にあげられるべき名はダーウィンである。
彼は、今日の一切の有機的自然、すなわち植物も動物も、したがってまた人間も、
幾百万年にわたるたえまない進化の過程の産物であることを証明し、
それによって自然についての形而上学的見方に強烈な打撃を与えた。
同様に、フロイトもダーウィンを大歓迎した。
ダーウィニズム、マルクシズム、フロイディズム、この三者が類縁者、というより、
むしろ兄弟であることは、今ようやく目覚めつつあるわれわれからみれば明らかである。
闘争、反抗、排除、自己主張、
そういったものがこの三つの思想に共通するキーワードである。
そういった性質はすべて物質、あるいはせいぜい下等動物の属性であり、
これは世界を物質あるいは機械として捉える世界観からしか出てこないものである。
人間に対する侮辱ではないか、という非難に対しては、
どんなにつらかろうとこれがこの世の法則なのだから仕方なかろう、
と答える点でも三者は同じである。
自己中心的に(すなわち「煩悩」を中心として)世界を見る者には、
世界は見る人間に合わせた小さな姿をしか現さない。
この世の実相は結局、色と欲と喧嘩なのだと思い込んだ人間は、
世界のすべての事象を、色と欲と喧嘩として実証する、
非の打ちどころのない大論文をいくらでも書くことができよう。
私はこの三つの思想を現代の三大誤導思想であったと言ってよいと思う。
仮にもっぱらこの三つの思想によって子供を教育することを考えてみよう。
この子が不良にならなければ奇蹟である。
その子にはこう教える、―人間は何ら自らの根拠というものをもたぬ存在で、
「原始スープ」ないし下等動物から(ちょうど泥沼からメタンガスが発生するように)、
発生してきたにすぎず、歴史はもっぱら生存闘争と階級闘争によってつくられるもので、
暴力革命によらなければ前進も改善もできないのであり、
宗教は幻想、芸術は性欲の変形、
良心は「超自我」という黙契による社会の自動安全装置にすぎない・・・。
渡辺久義「意識の再編」



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2008.09.23
不合理な哲学
あまりにも当たり前で、
自明であると思っていることなので、夢にも、それが間違っていることに気づかない。
その思想的態度こそ、
最も知性的、科学的で揺るぎのない事実であると思っている。
このような状態に集団で陥っているのが現代の特徴です。
まるで、重苦しい空気のようなものに支配されているかのようです。
この態度に異をとなえると、
憎悪、侮蔑の対象と成り、即刻、非科学的というレッテルを貼られてしまう。
多くの人々が、無自覚に唯物論的世界観を受け入れています。
一刻も早く、宇宙から意思・意味・目的、すなわち神を取り戻す必要があります。
京都大学名誉教授の渡辺久義氏は、このような風潮を痛烈に批判しています。
もし、われわれが共産圏の失敗を嗤うとすれば、
それは目クソ鼻クソをわらうというものである。
共産圏では唯物論・無神論は上から押しつけられたものである。
押しつけられれば反発するだろう。
心の中でそんなものを信じない多数のものたちは、かえって逆の信念を固めるだろう。
けれども自由主義世界の唯物論者・無神論者は、自分でこれを選び取ったのであり、
それが自由の証だと思っている。
それは自らを自由と思っている暴君が、
実は恐怖と猜疑のなかに拘束されて生きているのに似ている。
そのことが明瞭に意識されてはいなくとも、
ともかくも自覚を持った唯物論者・無神論者は救いようがある。
ドストエフスキーの小説にでてくる無神論者たちは、すべて自覚を持った、
自分の選び取ったものが何であるかを知っている人々である。
われわれの周囲にそのような唯物論者を見つけることはまずあるまい。
われわれの時代、われわれの世界の悲劇は、
考えることをやめた無自覚の唯物論者というものが大量に生み出されたことである。
生まれ落ちるとともに最初から「科学」の思考枠を、すなわち唯物論的世界観を、
唯一の住みかとして、これを空気のように呼吸して生きるということ、
このことはわれわれにとって、どれほどの不幸であることか。
われわれのこのような状況が出来するにいたった経緯を見極めるためには、
実は、長大な歴史的パースペクティヴを必要とする。
(「科学」のパラダイムは世界共通であるから、歴史は一つしかなく、
わが国の特殊相といったものはとりあえず捨象してよいだろう。)
自然界を、生物も無生物も人間をも含めて、機械仕掛けとしてみるということ、
これが多少の修正や留保はあるにせよ、デカルト=ニュートンに始まり、
われわれの時代に至る「科学主義」の基本をなす考え方である。
これはもともと機械の側面を持つということであった。
これが時代を経るにつれて機械であるということになってしまった。
このとき神は放逐される。
ところで人類の文明史上、そういう考え方はきわめて特殊なものである。
この間の事情を把握するためには、ホワイトヘッドが言ったように、近代科学の始まりを、
かえって不合理の時代の始まりと捉える観点がなければならない。
こんな「不合理」な哲学を持った文明は、人類史上おそらく他に例がないであろう。
周知のように、中世までの西欧を支配した自然学は、
アリストテレスを基調とするものであった。
アリストテレスは原因というものが四種類あると考えた。
形相因、質料因、作用因、目的因、この四原因は自然物にも人工物にも適用される。
そのこと自体、近代人から失われた洞察というべきである。
チューリップの球根がチューリップに変化するという場合、
形相因は球根が自らのなかに持っている完成したチューリップのイメージであり、
質料因は水や養分や日光であり、
作用因は人が球根を植え水をやり世話をすることであり、
目的因は人の目を楽しませ心を和ませ自然に美を添えることである。
(花はすべて人が愛することができるように設計されているではないか。
人の目から見えぬ位置に好んで咲く花はない。)
このような原因の考え方が中世まで主流を占めたのであった。
何という健全で豊かな考え方であろう。これが近代科学ではどうなったか。
原因といえばもっぱら作用因と質料因だけを指すことになった。
花が咲いたり卵から鳥が現れたりするのは、
物理化学的な機械的な作用によってである。
アリストテレスの自然観は目的論的パラダイムと呼ばれ、
近代科学のそれは機械論的パラダイムと呼ばれる。
C・U・M・スミスという人によれば、これは「パラダイムの突然変異」である。
近代科学が自然界から切り落とした目的という概念の何と大きいことであろうか。
われわれの不幸が始まったのは実はこのときである。
この世の中のすべては機械的因果関係だけで動いているのであり、
目的などなく、また目的をそこへ読み込むのも間違いである、という考え方によって、
われわれは徐々に、しかし否応なく「洗脳」されてしまったのである。
一切のものに目的の欠落した世界観―これは考えてみれば、
ずいぶん気持ちの悪い世界観のはずである。
ところがわれわれは、ちょうどお尻の濡れたままほっておかれたために、
何とも思わなくなった子供のように、その状態に慣らされてしまったのである。
実は、このパラダイム・シフトの代表者として名を借りているデカルトとニュートンは、
決してわれわれのように、宇宙から目的も意志も意味も切り落として、
ケロリとしていたわけでなく、かなり「気持ちの悪い」思いがしていたのだということは、
少し調べればわかる。彼らは悩む人たちであった。
彼らはアリストテレスと同様に、宇宙はその全体性において摑まえられるべきだ、
と考えたのであり(ニュートンは神秘思想家であった)、ただ科学には、
数理的明証性が要求されるということ、数理的明証性だけで、
世界を記述する学問があってもよいではないか、ということを言っただけである。
彼らは宇宙の一つの側面のことを言っていたのである。
有名なニュートンの「私は仮説を作らない」という言葉は、
神の意志や目的は私の関知するところではない、
私はただ宇宙の運動についての事実をそのまま述べているだけだ、という意味であろう。
彼は万有引力の「なに」であるか「なぜ」であるかを問わず、
「いかに」それがあるかということに、おのれを限定したのである。
パスカルから見れば、デカルトは神を始動力に使っただけであるがゆえに、
「許すことができない」存在であった。
けれどもデカルトの書いたものを読んでみれば、
彼の頭のなかには常に神があることがわかる。
彼は神の存在と偉大さを片時も疑ったことはなかった。
ところが歴史上よく起こる出来事がここでも起こった。
ある画期的な考え方が現れると、
その中の新しい要素だけが誇張されて暴走するのである。
デカルトの示唆からド・ラ・メトリの人間機械論のような、
極端なものを引き出すのに、人々はそう悩まなかった。
そこにはニーチェのいう不特定多数の人間の「底意」のようなものが働いていた、
と見るべきであろう。こうして西欧人は、ニーチェの言ったように「神を殺した」。
神を殺すのに刃物はいらなかった。
ただ、方法としての科学を実体のように思わせること、
科学の誇大宣伝と自然征服、それに人間の驕慢、この三つ四つがあればよかった。
われわれの時代、われわれの周囲に満ちあふれる、
もっとも始末の悪い存在である無自覚の唯物論者、
「洗脳」と自堕落の相乗効果から生まれた無宗教者というものが、こうして出現した。
それは社会の一人ひとりは少しも罪の意識を持つことのない体制的神殺し、
一人ひとりは傲慢でないどころか謙虚でさえあるかも知れぬ構造的傲慢である。
神の敵というものがいるならば、ほくそ笑むに違いない風景なのである。
「意識の再編」
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自明であると思っていることなので、夢にも、それが間違っていることに気づかない。
その思想的態度こそ、
最も知性的、科学的で揺るぎのない事実であると思っている。
このような状態に集団で陥っているのが現代の特徴です。
まるで、重苦しい空気のようなものに支配されているかのようです。
この態度に異をとなえると、
憎悪、侮蔑の対象と成り、即刻、非科学的というレッテルを貼られてしまう。
多くの人々が、無自覚に唯物論的世界観を受け入れています。
一刻も早く、宇宙から意思・意味・目的、すなわち神を取り戻す必要があります。
京都大学名誉教授の渡辺久義氏は、このような風潮を痛烈に批判しています。
もし、われわれが共産圏の失敗を嗤うとすれば、
それは目クソ鼻クソをわらうというものである。
共産圏では唯物論・無神論は上から押しつけられたものである。
押しつけられれば反発するだろう。
心の中でそんなものを信じない多数のものたちは、かえって逆の信念を固めるだろう。
けれども自由主義世界の唯物論者・無神論者は、自分でこれを選び取ったのであり、
それが自由の証だと思っている。
それは自らを自由と思っている暴君が、
実は恐怖と猜疑のなかに拘束されて生きているのに似ている。
そのことが明瞭に意識されてはいなくとも、
ともかくも自覚を持った唯物論者・無神論者は救いようがある。
ドストエフスキーの小説にでてくる無神論者たちは、すべて自覚を持った、
自分の選び取ったものが何であるかを知っている人々である。
われわれの周囲にそのような唯物論者を見つけることはまずあるまい。
われわれの時代、われわれの世界の悲劇は、
考えることをやめた無自覚の唯物論者というものが大量に生み出されたことである。
生まれ落ちるとともに最初から「科学」の思考枠を、すなわち唯物論的世界観を、
唯一の住みかとして、これを空気のように呼吸して生きるということ、
このことはわれわれにとって、どれほどの不幸であることか。
われわれのこのような状況が出来するにいたった経緯を見極めるためには、
実は、長大な歴史的パースペクティヴを必要とする。
(「科学」のパラダイムは世界共通であるから、歴史は一つしかなく、
わが国の特殊相といったものはとりあえず捨象してよいだろう。)
自然界を、生物も無生物も人間をも含めて、機械仕掛けとしてみるということ、
これが多少の修正や留保はあるにせよ、デカルト=ニュートンに始まり、
われわれの時代に至る「科学主義」の基本をなす考え方である。
これはもともと機械の側面を持つということであった。
これが時代を経るにつれて機械であるということになってしまった。
このとき神は放逐される。
ところで人類の文明史上、そういう考え方はきわめて特殊なものである。
この間の事情を把握するためには、ホワイトヘッドが言ったように、近代科学の始まりを、
かえって不合理の時代の始まりと捉える観点がなければならない。
こんな「不合理」な哲学を持った文明は、人類史上おそらく他に例がないであろう。
周知のように、中世までの西欧を支配した自然学は、
アリストテレスを基調とするものであった。
アリストテレスは原因というものが四種類あると考えた。
形相因、質料因、作用因、目的因、この四原因は自然物にも人工物にも適用される。
そのこと自体、近代人から失われた洞察というべきである。
チューリップの球根がチューリップに変化するという場合、
形相因は球根が自らのなかに持っている完成したチューリップのイメージであり、
質料因は水や養分や日光であり、
作用因は人が球根を植え水をやり世話をすることであり、
目的因は人の目を楽しませ心を和ませ自然に美を添えることである。
(花はすべて人が愛することができるように設計されているではないか。
人の目から見えぬ位置に好んで咲く花はない。)
このような原因の考え方が中世まで主流を占めたのであった。
何という健全で豊かな考え方であろう。これが近代科学ではどうなったか。
原因といえばもっぱら作用因と質料因だけを指すことになった。
花が咲いたり卵から鳥が現れたりするのは、
物理化学的な機械的な作用によってである。
アリストテレスの自然観は目的論的パラダイムと呼ばれ、
近代科学のそれは機械論的パラダイムと呼ばれる。
C・U・M・スミスという人によれば、これは「パラダイムの突然変異」である。
近代科学が自然界から切り落とした目的という概念の何と大きいことであろうか。
われわれの不幸が始まったのは実はこのときである。
この世の中のすべては機械的因果関係だけで動いているのであり、
目的などなく、また目的をそこへ読み込むのも間違いである、という考え方によって、
われわれは徐々に、しかし否応なく「洗脳」されてしまったのである。
一切のものに目的の欠落した世界観―これは考えてみれば、
ずいぶん気持ちの悪い世界観のはずである。
ところがわれわれは、ちょうどお尻の濡れたままほっておかれたために、
何とも思わなくなった子供のように、その状態に慣らされてしまったのである。
実は、このパラダイム・シフトの代表者として名を借りているデカルトとニュートンは、
決してわれわれのように、宇宙から目的も意志も意味も切り落として、
ケロリとしていたわけでなく、かなり「気持ちの悪い」思いがしていたのだということは、
少し調べればわかる。彼らは悩む人たちであった。
彼らはアリストテレスと同様に、宇宙はその全体性において摑まえられるべきだ、
と考えたのであり(ニュートンは神秘思想家であった)、ただ科学には、
数理的明証性が要求されるということ、数理的明証性だけで、
世界を記述する学問があってもよいではないか、ということを言っただけである。
彼らは宇宙の一つの側面のことを言っていたのである。
有名なニュートンの「私は仮説を作らない」という言葉は、
神の意志や目的は私の関知するところではない、
私はただ宇宙の運動についての事実をそのまま述べているだけだ、という意味であろう。
彼は万有引力の「なに」であるか「なぜ」であるかを問わず、
「いかに」それがあるかということに、おのれを限定したのである。
パスカルから見れば、デカルトは神を始動力に使っただけであるがゆえに、
「許すことができない」存在であった。
けれどもデカルトの書いたものを読んでみれば、
彼の頭のなかには常に神があることがわかる。
彼は神の存在と偉大さを片時も疑ったことはなかった。
ところが歴史上よく起こる出来事がここでも起こった。
ある画期的な考え方が現れると、
その中の新しい要素だけが誇張されて暴走するのである。
デカルトの示唆からド・ラ・メトリの人間機械論のような、
極端なものを引き出すのに、人々はそう悩まなかった。
そこにはニーチェのいう不特定多数の人間の「底意」のようなものが働いていた、
と見るべきであろう。こうして西欧人は、ニーチェの言ったように「神を殺した」。
神を殺すのに刃物はいらなかった。
ただ、方法としての科学を実体のように思わせること、
科学の誇大宣伝と自然征服、それに人間の驕慢、この三つ四つがあればよかった。
われわれの時代、われわれの周囲に満ちあふれる、
もっとも始末の悪い存在である無自覚の唯物論者、
「洗脳」と自堕落の相乗効果から生まれた無宗教者というものが、こうして出現した。
それは社会の一人ひとりは少しも罪の意識を持つことのない体制的神殺し、
一人ひとりは傲慢でないどころか謙虚でさえあるかも知れぬ構造的傲慢である。
神の敵というものがいるならば、ほくそ笑むに違いない風景なのである。
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