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2008.09.26
神経学から見た神
「21世紀は心の時代」と言われて久しいですが、
新しいパラダイムにおいては、科学と宗教は再び握手をしようとしています。
僅かであっても、科学の方から、神秘への歩み寄りがみられるのです。
医学者であるアンドリュー・ニューバーグ氏とユージン・ダギリ氏の共著では、
このように結論づけられています。
超越体験の神経学には、少なく見積もっても、
あらゆる宗教を融和に導く生物学的な枠組みを提供する力がある。
さらに、ヒトが合一状態を経験するときに、
実在する高次のリアリティーを垣間見ているのだとしたら、
宗教は、神経学的合一のみならず、より深遠な、
絶対的なリアリティーも反映していることになる。
神経学はまた、科学と宗教の両方が、同じ究極のリアリティーに向かう、
強力だが不完全な道にすぎないことを示して、両者の間の溝を埋めることもできる。
この溝を作ったのは、科学の時代の無数の偉大な発見だった。
最初の亀裂は、ガリレオ・ガリレイが、観測によって、
コペルニクスの大陽系の理論の正しさを立証したときに生じたと言ってよいだろう。
彼の発見は、「地球は、創造主たる神の愛ゆえに、宇宙の中心に配置された」という、
当時のカトリック教会の教義に真っ向から反していたのだ。
この発見に対する教会側の態度が、亀裂を広げた。
彼らがガリレイを異端審問にかけて自説を撤回させるという方法で、
この対立を解決しようとしたことで、科学的な人々の多くが、
「宗教は真実よりもドグマを重視する」という印象を持つようになってしまったのだ。
以後、数世紀の時が流れた。
科学と哲学は、従来は神の名のもとに納得するしかなかったような謎を、
次々と合理的な方法で説明してのけ、
神への信仰を持ち続けることを少しずつ困難にしていった。
そして、19世紀の中頃に誕生した二つの革命的な理論により、
神は、科学の時代とは相容れない存在になった。
一つは、チャールズ・ライエルが1830年に『地質学原理』の中で発表した、
「自然の風景の輪郭は、神の手ではなく地質学的な力によって刻まれたもので、
地球の年齢は聖書の記述よりはるかに古い」という理論だった。
もう一つは、その29年後に、
チャールズ・ダーウインが『種の起源』の中で発表した進化論で、
「生命は神によって一瞬にして創造されたのではなく、数百万年にわたる厳正な、
生物学的適応の過程を経て進化してきた」という彼の主張は、全世界に衝撃を与えた。
科学によるこうした暴露の真っ只中で、ニーチェは、「神は死んだ」と宣言した。
けれども、科学によって殺されたとニーチェが考えた神、
もはや合理的な思考とは相容れなくなってしまった神が、
聖書の中の創造主たる人格神に限定されていることは重要だ。
われわれはまだ、高次の神秘的なリアリティーの概念を否定する根拠を、
科学や理性の中に見出すには至っていないのだ。
とはいえ、主流派の科学が、
神秘的に発見されたリアリティーの可能性を受け入れたというわけでもない。
結局のところ、科学の権威は、
「物質的なリアリティーが最も高い形態のリアリティーである」という仮定、
言い換えれば、「宇宙の中で、物理的・物質的なものよりリアルなものなど何もない」、
という仮定に根ざしているからだ。
けれども、科学者の中にも、物質的なリアリティーの本質は、
常識が示唆するほど確かなものではないのかもしれないと考える人はいる。
アルバート・アインシュタインも、その一人だった。
1938年に、彼は、科学による物理的世界の解釈は、合理的唯物論者が、
信じたがっているほど確かなものではないのかもしれないという考えを表明した。
スピリチュアルな超越体験が神経生物学的過程に起源を持っているのなら、
神秘家たちが経験する絶対的一者は、それなりに妥当性があり、
ひょっとすると、実在すらしているのかもしれない。
われわれの理論からは、数々の驚くべき帰結が導かれた。
すなわち、神話が、生物学的過程によって強制的に作られてくるということ。
儀式が、神秘的な合一状態に入るために直観的に考案された動作であるということ。
神秘家が、必ずしも狂気に陥っているわけではないということ。
すべての宗教が、
一つのスピリチュアルな木から突き出している枝であるということなどである。
われわれが最も興味深く感じたのは、
この究極の合一状態を合理的に支持できるという事実だった。
絶対的一者のリアルさは、より高次の神が存在することの、
決定的な証明になるわけではないが、人間の存在には、
単なる物質的な存在を超えた何かがあることを強く示唆している。
われわれの心は、すべての苦しみが消え、
すべての欲望から自由になれる深遠なリアリティー、
完全な一体感があるという直感に駆り立てられている。
ヒトの脳が今ある構造を持ち続け、心がこの深遠なリアリティーを探知し続けるかぎり、
スピリチュアルな体験はなくならず、神がわれわれの傍を離れることもないのである。
「脳はいかにして神を見るか」
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新しいパラダイムにおいては、科学と宗教は再び握手をしようとしています。
僅かであっても、科学の方から、神秘への歩み寄りがみられるのです。
医学者であるアンドリュー・ニューバーグ氏とユージン・ダギリ氏の共著では、
このように結論づけられています。
超越体験の神経学には、少なく見積もっても、
あらゆる宗教を融和に導く生物学的な枠組みを提供する力がある。
さらに、ヒトが合一状態を経験するときに、
実在する高次のリアリティーを垣間見ているのだとしたら、
宗教は、神経学的合一のみならず、より深遠な、
絶対的なリアリティーも反映していることになる。
神経学はまた、科学と宗教の両方が、同じ究極のリアリティーに向かう、
強力だが不完全な道にすぎないことを示して、両者の間の溝を埋めることもできる。
この溝を作ったのは、科学の時代の無数の偉大な発見だった。
最初の亀裂は、ガリレオ・ガリレイが、観測によって、
コペルニクスの大陽系の理論の正しさを立証したときに生じたと言ってよいだろう。
彼の発見は、「地球は、創造主たる神の愛ゆえに、宇宙の中心に配置された」という、
当時のカトリック教会の教義に真っ向から反していたのだ。
この発見に対する教会側の態度が、亀裂を広げた。
彼らがガリレイを異端審問にかけて自説を撤回させるという方法で、
この対立を解決しようとしたことで、科学的な人々の多くが、
「宗教は真実よりもドグマを重視する」という印象を持つようになってしまったのだ。
以後、数世紀の時が流れた。
科学と哲学は、従来は神の名のもとに納得するしかなかったような謎を、
次々と合理的な方法で説明してのけ、
神への信仰を持ち続けることを少しずつ困難にしていった。
そして、19世紀の中頃に誕生した二つの革命的な理論により、
神は、科学の時代とは相容れない存在になった。
一つは、チャールズ・ライエルが1830年に『地質学原理』の中で発表した、
「自然の風景の輪郭は、神の手ではなく地質学的な力によって刻まれたもので、
地球の年齢は聖書の記述よりはるかに古い」という理論だった。
もう一つは、その29年後に、
チャールズ・ダーウインが『種の起源』の中で発表した進化論で、
「生命は神によって一瞬にして創造されたのではなく、数百万年にわたる厳正な、
生物学的適応の過程を経て進化してきた」という彼の主張は、全世界に衝撃を与えた。
科学によるこうした暴露の真っ只中で、ニーチェは、「神は死んだ」と宣言した。
けれども、科学によって殺されたとニーチェが考えた神、
もはや合理的な思考とは相容れなくなってしまった神が、
聖書の中の創造主たる人格神に限定されていることは重要だ。
われわれはまだ、高次の神秘的なリアリティーの概念を否定する根拠を、
科学や理性の中に見出すには至っていないのだ。
とはいえ、主流派の科学が、
神秘的に発見されたリアリティーの可能性を受け入れたというわけでもない。
結局のところ、科学の権威は、
「物質的なリアリティーが最も高い形態のリアリティーである」という仮定、
言い換えれば、「宇宙の中で、物理的・物質的なものよりリアルなものなど何もない」、
という仮定に根ざしているからだ。
けれども、科学者の中にも、物質的なリアリティーの本質は、
常識が示唆するほど確かなものではないのかもしれないと考える人はいる。
アルバート・アインシュタインも、その一人だった。
1938年に、彼は、科学による物理的世界の解釈は、合理的唯物論者が、
信じたがっているほど確かなものではないのかもしれないという考えを表明した。
スピリチュアルな超越体験が神経生物学的過程に起源を持っているのなら、
神秘家たちが経験する絶対的一者は、それなりに妥当性があり、
ひょっとすると、実在すらしているのかもしれない。
われわれの理論からは、数々の驚くべき帰結が導かれた。
すなわち、神話が、生物学的過程によって強制的に作られてくるということ。
儀式が、神秘的な合一状態に入るために直観的に考案された動作であるということ。
神秘家が、必ずしも狂気に陥っているわけではないということ。
すべての宗教が、
一つのスピリチュアルな木から突き出している枝であるということなどである。
われわれが最も興味深く感じたのは、
この究極の合一状態を合理的に支持できるという事実だった。
絶対的一者のリアルさは、より高次の神が存在することの、
決定的な証明になるわけではないが、人間の存在には、
単なる物質的な存在を超えた何かがあることを強く示唆している。
われわれの心は、すべての苦しみが消え、
すべての欲望から自由になれる深遠なリアリティー、
完全な一体感があるという直感に駆り立てられている。
ヒトの脳が今ある構造を持ち続け、心がこの深遠なリアリティーを探知し続けるかぎり、
スピリチュアルな体験はなくならず、神がわれわれの傍を離れることもないのである。
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2008.09.26
地球神
現代の仏陀が、地球神の実在について明らかにされています。
未だかつてない貴重な情報であります。
(九次元霊の上位にある三体の意識体のうちの)大日意識というものがあって、
これは私が今までに説いた文献から見ると、
人格を持たない意識であるという説明になっていたはずであります。
しかし、ここでは、その次のことを記しておきたいと思います。
大日意識はもちろん地上で肉体を持ったことがありません。
そういう意味で通常の人間のような意識でないことは事実であります。
しかしながら、大日意識の一部分が人格化して現われてくることはありうるのです。
十次元の意識体の一部が人格化して現われてくるのです。
なぜ十次元意識が人格化して現われてくるかというと、
(十体の九次元霊のうちの、釈迦、イエス、孔子、エンリル、モーゼの)五人の、
上段階意識の意見の統一をするためなのです。
通常は出てきませんが、必要なときに出てきて人格化した形でこの統制をつけるのです。
この大日意識の中で人格化する部分を何というかというと、
この名前はいままでだれにも知られていない名前でありますが、
聖アントニウスといいます。
そのように、九次元霊は呼んでいるのです。
この聖アントニウスという名は、地上ではいまだかつて知られたことがありません。
これが、いわゆる地球神なのです。
地球神というのは、私たちが聖アントニウスと呼んでいる、この方のことをいうのです。
私たちが父とも神とも呼んでいた部分はここなのです。
大日意識という、この地球系霊団全体へ霊光線を発している大きな光です。
これももちろん神といえば神ですが、私たちが従来、神として認識していたのは、
ある程度人格的な姿があった方であるわけです。
そして、それがある意味で大日信仰といわれたりしていたわけですが、それらは、
何らかの人間的意識を持っている部分を指していたことが多かったと考えられます。
それが、実はこの聖アントニウスと呼ばれる方なのです。
これまで明確には説かれてはいませんでしたが、この方が実在するのです。
このことがこれまで明らかにされることがなかったのは、
この方は九次元の上段階霊の五人以外に絶対に会わないからです。
これ以外と意思を交換することは絶対にありません。
もっとはっきり言うならば、この聖アントニウス意識と対話ができるのは、
この五人の上段階霊の本体だけであって、これ以外では話はできないのです。
このようなしくみになっているのです。したがって、わからないのです。
ただ、そうした存在があるということは、いろいろな形で過去推定はされておりました。
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未だかつてない貴重な情報であります。
(九次元霊の上位にある三体の意識体のうちの)大日意識というものがあって、
これは私が今までに説いた文献から見ると、
人格を持たない意識であるという説明になっていたはずであります。
しかし、ここでは、その次のことを記しておきたいと思います。
大日意識はもちろん地上で肉体を持ったことがありません。
そういう意味で通常の人間のような意識でないことは事実であります。
しかしながら、大日意識の一部分が人格化して現われてくることはありうるのです。
十次元の意識体の一部が人格化して現われてくるのです。
なぜ十次元意識が人格化して現われてくるかというと、
(十体の九次元霊のうちの、釈迦、イエス、孔子、エンリル、モーゼの)五人の、
上段階意識の意見の統一をするためなのです。
通常は出てきませんが、必要なときに出てきて人格化した形でこの統制をつけるのです。
この大日意識の中で人格化する部分を何というかというと、
この名前はいままでだれにも知られていない名前でありますが、
聖アントニウスといいます。
そのように、九次元霊は呼んでいるのです。
この聖アントニウスという名は、地上ではいまだかつて知られたことがありません。
これが、いわゆる地球神なのです。
地球神というのは、私たちが聖アントニウスと呼んでいる、この方のことをいうのです。
私たちが父とも神とも呼んでいた部分はここなのです。
大日意識という、この地球系霊団全体へ霊光線を発している大きな光です。
これももちろん神といえば神ですが、私たちが従来、神として認識していたのは、
ある程度人格的な姿があった方であるわけです。
そして、それがある意味で大日信仰といわれたりしていたわけですが、それらは、
何らかの人間的意識を持っている部分を指していたことが多かったと考えられます。
それが、実はこの聖アントニウスと呼ばれる方なのです。
これまで明確には説かれてはいませんでしたが、この方が実在するのです。
このことがこれまで明らかにされることがなかったのは、
この方は九次元の上段階霊の五人以外に絶対に会わないからです。
これ以外と意思を交換することは絶対にありません。
もっとはっきり言うならば、この聖アントニウス意識と対話ができるのは、
この五人の上段階霊の本体だけであって、これ以外では話はできないのです。
このようなしくみになっているのです。したがって、わからないのです。
ただ、そうした存在があるということは、いろいろな形で過去推定はされておりました。



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