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瞑想の意義は、高次なる世界との交流にあります。

高次なる世界と交流するためには、反省によって心の曇りを取り去る必要があります。

瞑想の習慣のない僧侶は、祈りをしないクリスチャンのようなものです。

漢文の経典を唯物論的に解釈してみても、何にもなりません。

仏法は、探求してみて、知って、実践してはじめて腑に落ちるものです。

仏法は自他の幸福のために説かれました。

どうすれば、幸福になれるのでしょうか?

反省瞑想によって自我の執着を捨て去り、
与える愛に生きることで、神仏の加護を得ることが出来るのです。

昔から、
もろもろの悪をなすこと無く、もろもろの善行愛行をなし、
自らのこころを浄くせよ、これがもろもろの仏の教えである、と言われてきました。

現代仏教は最も大切なものを失ってしまいました。

仏教の失われた叡智を再認識するべく、このブログを続けてまいります。

ここを見てくださる皆様に、より一層の幸福がありますように。

日々、精進します。




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信仰を持てるものには、絶望はありません。

つねに魂の最深部に明かりが灯っているからです。

信仰とは、永遠のいのちを掴み取ることです。

われわれは、選択を迫られています。

希望や向上の道か、絶望や虚無の道かを。

真実は、神やあの世が、実在するかしないかのどちらかしかありえません。

どちらを選ぶ方が、幸福になることができるでしょうか?


ヒューマニズムは私の見るところ、
「ヒューマン」という言葉の詐術にきわめて大きく依存している。
そしておおむね、ありもしない明確な哲学的概念が、
そこに含まれているようにみせることに依存している。
私が反対するのは、ヒューマニストが「人間」を「自然」から区別するときに、
彼が否定するあの「超自然」を利用することである。
というのは、もしこの「超自然」が抑圧されるならば、
たちどころに人間と自然の二元性は崩れてしまう、というのが私の確信だからである。
人間が人間であるのは、彼が超自然的現実を認識することができるからであって、
それを作り出すことができるからではない。
人間の中のすべてが、下から発達してきたものとして跡付けられるか、
あるいは、何ものかが上から来なければならないか、のいずれかなのである。
そのジレンマを避けることはできない。
人は自然主義者か超自然主義者かのどちらかを選ばなければならない。
もし「人間」という言葉から、超自然的なものに対する信仰が人間に与えたものの、
すべてを取り去ってしまうならば、結局は人間を、きわめて賢い、
適応力を持つ、かつ狡い小さな動物と見做すほかはなくなる。

T・S・エリオット「ヒューマニズム再考」




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2008.09.27 早くも大仕事
やはり乱世には人物が現れるようです。
胸が熱くなる演説です。







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