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ルーマニアの天才宗教学者ヨアン・P・クリアーノ氏は、
この世界での歴史上の事象における神の介入を知覚していて、
その観点から、近代の科学合理主義偏重を鋭く批判しました。

しかし、その志半ばにして、何者かによって暗殺されてしまいました。

彼の研究者はこう論じます。

クリアーノのような存在は、現実の社会の動きに対する直接参加など行わなくとも、
研究生活に沈潜し作品を世に問うことによってはるかに大きな影響を世に与え得たはずである。
それでもなお行動に参加してこのような結果を招いたことは、祖国への思いを捨て切れず、
血の気の多い性格も手伝ってやむにやまれぬ気持があったのであろう。
魔術師は自己の感情に左右されてはならないはずであるが、
元来が感情のヴォルテージの高い存在だけに足もとをすくわれる危険があるのであろう。
クリアーノの婚約者や友人の語るところによれば、彼は温和な人物で、
人々に敬愛されており、アメリカの自由な生活に心酔していたという。
第二次大戦前からナチス・ドイツに支配され、戦後共産主義に編入されて四十余年、
全体主義の軛につながれた東欧・パルカン圏の人々の自由への希求には、
われわれの知りえぬ切実さがあるのであろう。
いずれにしても異貌の天才クリアーノは41歳という若さで世を去った。
クリアーノの思想は、今後どれだけの展開を見せるか、
想像もつかないくらいであっただけに、惜しみてもあまりあるものがある。
2000年紀という名実ともに大きな歴史の転換点において、
われわれの思想的な先駆の一人となりうる人物を、
このようなかたちで葬り去るとは、現代文明とはいかなる存在なのだろうか。
訳者には、ブルーノ、三島由紀夫、クリアーノ、
の三人の人物像が重なりあって見えて来てしかたがなかった。
ともに彗星のごとく現われて、若くして非業の死を遂げたこと。
ともに死を恐れず、死を生の完成と見たこと。
冷徹な理性と火のような情熱を兼ね備えていたこと。 
一種の精神的社会革命を企図したこと。
作家は百パーセントの理性、百パーセントの情熱を備えていなければならない、
という三島のテーゼは、ブルーノやクリアーノの魔術師の定義そのものであろう。
クリアーノの歿後数か月にしてソヴィエト・ロシアの崩壊が始まったが、
クリアーノがこの歴史的大事件を見たらいかなる感懐を抱いたであろうか。
科学的社会主義と称する二十世紀最大のドグマは崩壊したが、
西洋精神史の最大のドグマたる科学的合理主義の超剋は途なかばなのである。



日本の宗教学は、
単に宗教を批判的に調査、分析するだけで、全く実がありません。

しかし、近年では、
宗教学会自らが、宗教学の社会に対する役割を問いはじめています。

クリアーノ氏は、こう言っています。

われわれは魔術をたんに原始的、非科学的自然観から生ずる、
愚劣な秘儀や方法の集積にすぎないと見なしがちである。
不幸なことに、この領域をあえて探究しようという少数の「専門家」らも、
研究の前提として同じ偏見を曳きずっているのである。
この紋切り型の思考を脱した作品は、おそらく五指に満たないであろう。
むろん、魔術の方法が現代自然科学の方法と何らかの関係がある、
と主張することは困難であろう。
物質の構造は完全に無視され、物理化学的現象は、
隠秘な宇宙的な力に帰されているからである。
にもかかわらず魔術は、方法は異るが同じ目的を達成することを期するという点で、
現代の科学技術と共通点をもつのである。
すなわち遠隔通信、高速輸送、天体間旅行などは魔術師にとっては、
常識的な「出しもの」だったのである。
しかし魔術が存在し続け、
とうの昔にそのようなものが消滅したと思っている人を挑発しているのは、
このような次元のものだけではない。
今日の心理学、社会科学はすべて直接に魔術に由来するのである。
われわれが今日なお魔術から受けている恩恵を理解するために、
魔術の本質と方法論の正確な見取図を描くことが、
何をおいてもまず必要な所以はこの点にある。



これからの宗教学には、
人類の幸福のために、パラダイムシフトを加速させ、
魔術すなわち、心の諸力を開放するという役割があるのです。




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2008.10.30 支持率UP↑
総理、GJ!
いつもしつこくてすいません。(今は反省している)







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2008.10.30 仏陀の神変
奇跡を起こせば、霊を目の前に見せれば、
言うことを信じようとせまる人がいるのは、今も昔も変わりありません。

仏教はキリスト教のような奇跡を説かない合理的な宗教であるという説も、
そのような懐疑論者による捏造です。

仏典は、あらゆる偏見を捨て、素直に読む必要があるのです。




世尊は、次第に遊行しながら、ウルヴェーラーに至りたもうた。
その時、ウルヴェーラーには、ウルヴェーラ・カッサパ、ナディー・カッサパ、
ガヤー・カッサパという、三人の結髪(髪を巻き貝のように結い上げた)行者たちが住んでいた。
そのうち、ウルヴェーラ・カッサパという結髪行者は、五百人の結髪行者たちの指導者であり、
統率者であり、頭目であり、上首であり、最上者であった。
ナディー・カッサパという結髪行者は、三百人の結髪行者たちの指導者であり、統率者であり、
頭目であり、上首であり、最上者であった。
ガヤー・カッサパという結髪行者は、ニ百人の結髪行者たちの指導者であり、
統率者であり、頭目であり、上首であり、最上者であった。

時に、世尊は、
結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパの庵に近い、あるうっそうとした森に住された。
時に、世界の主・梵天が、深夜に、絶妙な色彩をもってあまねくうっそうとした森を照らし、
世尊のおられるところに現れた。
向かって、世尊に敬礼し、あたかも大きな火の塊のようにかたわらに立った。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパは、
その夜が過ぎてから、世尊のおられるところに向かった。
そして、世尊に、次のように語りかけた。
「大沙門よ、時間となりました。食事が調いました。
どの者が、深夜に、絶妙な色彩をもってあまねくうっそうとした森を照らし、
あなたのおられるところに現れ、向かってあなたに敬礼し、
あたかも大きな火の塊のようにかたわらに立ったのですか」と。
「カッサパよ、この者は世界の主・梵天で、私のいるところに、
真理を聞くために現れたのです」と。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
なぜなら、世界の主・梵天すらも、真理を聞くために現れるほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

時に、世尊は、
結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパの庵に近い、あるうっそうとした森に住された。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパは、
その夜が過ぎてから、世尊のおられるところに向かった。
向かって、幸あるお方に、時刻を告げた。
「時間となりました。食事が調いました」と。
「カッサパよ、先に行ってください。私はあとからまいります」と、
世尊は、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパを先に送ってから、
三十三天に赴かれ、パーリッチャッタカの花を取り、
結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパよりも先に着き、聖火堂に坐したもうた。
結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパは、世尊が、聖火堂に坐しておられるのを見た。
見て、幸あるお方に、次のように語りかけた。
「大沙門よ、あなたはどの道によって来られたのですか。
私は、あなたよりも先に出立しました。
そのあなたが、先に着いて聖火堂に坐しておられる」と。
「カッサパよ、私は、今、あなたを先に送ってから、三十三天に赴き、
パーリッチャッタ力の花を取り、あなたよりも先に着いて、聖火堂に座したのです。
カッサパよ、このパ―リッチャッタカの花は、色麗しく、香りに満ちている。
もしお望みなら、お持ちください」と。
「大沙門よ、よしましよう。あなただけが、この花を持つにふさわしい人です。
あなたがこれをお持ちください」と。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
私を先に送ってから、三十三天に赴き、パーリッチャッタカの花を取り、
私よりも先に着き、聖火堂に坐すほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

その時、彼ら結髪行者たちは、火に奉仕しようと思っても、薪を割ることができなかった。
時に、彼ら結髪行者たちに、次のような思念が生じた。
「私たちが薪を割れないのは、疑いなく、大沙門の神通・威神力のためだ」と。
時に、世尊は、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のように語りかけられた。
「カッサパよ、薪を割りたまえ」と。
「大沙門よ、割ってください」と。
たちまち、五百の薪が割れた。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
なぜなら、薪すらも割るほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

その時、彼ら結髪行者たちは、火に奉仕しようと思っても、火を燃やすことができなかった。
時に、彼ら結髪行者たちに、次のような思念が生じた。
「私たちが火を燃やすことができないのは、疑いなく、大沙門の神通・威神力のためだ」と。
時に、世尊は、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のように語りかけられた。
「カッサパよ、火を燃やしたまえ」と。
「大沙門よ、火を燃やしてください」と。
たちまち、五百の火が燃えた。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大成神力を持っている。
なぜなら、火すらも燃やすほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

その時、彼ら結髪行者たちは、火に奉仕したあとで、火を消すことができなかった。
時に、彼ら結髪行者たちに、次のような思念が生じた。
「私たちが火を消すことができないのは、疑いなく、大沙門の神通・威神力のためだ」と。
時に、世尊は、結髪行者・ウルヴェ―ラ・カッサパに、次のように語りかけられた。
「カッサパよ、火を消したまえ」と。
「大沙門よ、火を消してください」と。たちまち、五百の火が消えた。
時に、結髪行者、ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
なぜなら、火すらも消すほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

その時、結髪行者たちは、寒い冬の夜、八日祭と八日祭の間、
雪が降る時節、ネーランジャラー河で、沈んだり、浮き上がったり、
沈んだり浮き上がったりを繰り返す行を修した。
時に、世尊は、五百の暖炉を何もないところからお造りになった。
そこで彼ら結髪行者たちは、河から上がってから、暖を取ってくつろいだ。
時に、彼ら結髪行者たちに、次のような思念が生じた。
「これらの暖炉が造られたのは、疑いなく、大沙門の神通・成神力のためだ」と。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
なぜなら、大きな暖炉を造るほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

その時、時ならぬ大雲が雨を降らせ、大洪水が起こった。
世尊が住しておられた場所も、水で覆われた。
時に、世尊に、次のような思念が生じた。
「あらゆる方角に水を退け、真ん中で、
塵にまみれた地面の上でそぞろ歩きしたらどうだろうか」と。
時に、世尊は、あらゆる方角に水を退け、真ん中で、
塵にまみれた地面の上でそぞろ歩きしたもうた。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパは、「大沙門が水に流されてはならない」と考え、
船に乗り、大変に多くの結髪行者たちとともに、世尊が住しておられた場所に赴いた。
結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパは、幸あるお方が、あらゆる方角に水を退け、
真ん中で、塵にまみれた地面の上でそぞろ歩きされているのを見た。
見て、世尊に、次のように語りかけた。
「大沙門よ、あなたはここにおいででしたか」と。
「カッサパよ、私はここにいる」と言って、世尊は、空中に飛び上がり、船の中に立たれた。
時に、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のような思念が生じた。
「大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
なぜなら、水すらも彼をさらって行かないほどであるから。
しかし、彼は、私のような尊敬を受けるに値する人ではない」と。

時に、世尊に、次のような思念が生じた。
「この愚かな男には、いつまでも、次のような思念が生ずるであろう。
『大沙門は、大神通を持ち、大威神力を持っている。
しかし、私のような尊敬を受けるに値する人ではない』と。
私は、この結髪行者を驚かせ信心を起こさせてはどうだろうか」と。
時に、世尊は、結髪行者・ウルヴェーラ・カッサパに、次のように語りかけられた。
「カッサパよ、あなたは、尊敬を受けるに値する人ではないし、
また、尊敬を受けるに値する人になる道に入っているのでもない。
あなたが尊敬を受けるに値する人となったり、
あるいはそういう人の尊敬を受けるに値する人になる道に入ったりとなるその道を、
あなたはまだ得ていない」と。
時に、結髪行者・ウルヴエーラ・カッサパは、世尊の足に頭をつけて礼拝し、
世尊に、次のように語りかけた。
「尊いお方よ、私は、世尊のもとで出家し、具足戒を得たいと存じます」と。


パーリ原始仏典律蔵「大品」




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2008.10.30 アートマン
仏教無霊魂説の根拠は、
お釈迦さまが「アートマン」を否認している、という事実にあります。

しかしながら、仏典のなかには、
ジーヴァ(魂)、非物質領域の存在、神霊やヤッカ(鬼神)や悪魔、
化生の生けるもの、突如姿を現し消えていく霊的存在、
意によって自在に肉体を離れる幽体、肉体の死後に四方を飛びまわる識、
受胎の際に入るガンダッバ、などが説かれた箇所が多数散見されます。

これはどういうことでしょうか?

当時のインドの聖典ヴェーダを奉じるヨガ行者達は、不滅のアートマンを信じていました。

アートマンとは、このようなものです。


ヒンドゥー教にいう普遍的かつ唯一の霊魂。
肉体から独立した絶対的な我でもある。
感覚や思考や欲望のかなたにあるところから、
いわばそれはエゴを否定するものともいえる。
それはまた個人のすべての活動を根底から結びつけ、統一するが、
これらの活動とは個別的であれ、全体的であれ、いかなる従属関係にもない。
そのかぎりにおいて、アートマンはそれ自体未分化な絶対者ブラフマーと同一視される。
『ティヨ・ビンドゥ・ウパニシャド』は、こうした考えについて次のように説明している。
「…宇宙なり、ブラフマーなりをシンボルとするものは、あきらかにアートマンにほかならない」。
至高のアートマンは、知でもなければ非知でもない。
存在でも非在でもない。
それゆえこれを理解したり定義したりすることはできず、思考や記述の対象にもなりえない。
さらに、不変・不滅のものであり、終わりもなければ始まりもない。
ヨーガの苦行が向かおうとするのは、まさにこの心的な空であり、
個体的な条件を越えたところにある。
(『世界秘儀秘教辞典』)


すなわち、この思想では、
「人間の霊魂と神は同一であって、死後には直ちに、個別性は失われ絶対的存在と成る」、
のであって、極めて大雑把な霊魂観であることが分かります。

これが梵(神)我一如という思想です。


お釈迦さまは、天眼・宿命通力をもって、
生きとし生けるもの達が、生前になした行為、そのカルマにしたがって、
様々な階層の霊界に赴き、そしてまた地上に生まれては、幾度も転生を重ねている、
という生命の実相を霊視することができました。

このことは、
仏陀にしか知りえない認識困難な霊的真実でありました。

その悟りえた事実から、お釈迦さまは、
「人間は死ねば終りではない。
しかしながら、生前の姿そのままに死後存続するのでもない。
不変の絶対的な実体というものがあるわけではない。
また、霊魂は神そのものというのでもない。
そうではなく、カルマによって生成され転変する個性を持った本質、
霊的生命というべきものが、永遠に進化していくのだ。」と説かれたのです。

無霊魂主義の唯物論的立場でも、
死ねば誰もが神と一体になるという立場でも、仏道修行は無意味となるのです。

この両極端を排し、断常の中道を説いたのでありました。

ですから、
お釈迦さまは、無霊魂を説いたのではなく、
ヨガ行者の信じていた霊魂観を、生命の実相の観点から修正したと見るべきなのです。




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ついにキター。


麻生

当ブログの以前の記事情報に誤りがあったことをお詫びいたします。




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2008.10.30 世界の再生
西洋合理主義は、
キリスト教宗教改革の、
「想像的なもの」に対する、すみずみまで浸透した検閲の産物だとも言われます。

その急進的な改革によって、大自然と人間が分離され、宇宙との繋がりは失われ、
異教・異端・預言・魔術・錬金術・降神術・記憶術・占星術への徹底した迫害が行われました。

その後、西洋では、宗教性を失ったキリスト教に変わって、
「物質科学」や「偶然」という新しい「真理」が登場します。

現代では、この西洋文明が世界を席巻し、そして閉塞状況に陥っています。

失われたものは、容易に取り戻すことは出来ません。

しかし、世界は再生されなければなりません。

そのための新しい宗教改革が、ここ日本を発祥として起きつつあります。

これこそが、人類の唯一の希望なのです。




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2008.10.29 王道
仏の教えは幅広く、
他力を強調する場合も、自力を強調する場合もあります。

前者の教えは、
信仰による救い、そのまま、あるがまま、感謝、許し、人間皆神、一気に悟る頓悟。

後者の教えは、
努力精進、自戒・修行・伝道の勧め、愛(菩薩行)の実践、そして悟りの階梯を登る漸悟。

しかし、お釈迦さまの本懐は、
最後の言葉である、「怠ることなく修行を完成させよ」に示されています。

わざわざ、あの世からこの世に生まれてくるのは、進歩向上の為です。

幾転生を重ねても、魂は変化なくあるいは退化するのであれば、
苦しみ多いこの世に生まれてくる必要はありません。

神の意図が、生命の限りない進化発展にある以上、それに従うのが王道です。

やはり仏教の特色は、自己開発、自分づくりにあるのです。

それが、破滅や堕落、魔の誘惑から身を守る、最も確かで安全な道なのです。




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2008.10.29 宗教者として
日本の仏教者のなかに、
霊魂否定論者の多いことには、ほとほと呆れてしまいます。

無常だ、実体など無い、空だ、などと言いながらも、
肉体の欲望や世俗の楽しみの追求には余念がないところを見ると、
物質だけは実体視しているようです。

まさに、神をも恐れぬ単なる唯物論者です。

そのような僧侶に、ターミナルケアやスピリチュアルケアなど望むべくもありません。

霊魂を否定する僧侶は、宗教者ではないのです。

今求められているのは、江原氏のような魂を語れる本当の宗教者です。

仏説を信じず、信仰を否定し、霊を嘲笑し、輪廻や地獄極楽を合理化する現代の僧侶。

この存在が、仏教衰退の元凶です。




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中世ルネサンスの本質は、
文芸復興などではなく、
プラトン主義、ヘルメス神秘思想、魔術の再生でありました。

当時の科学では、生気論が主流であって、
霊魂の存在は自明なものとして扱われていました。

そして、科学と宗教は、相即不離の関係にありました。

ニュートン、ケプラー、ガリレオ、ベーコン、デカルトの主たる関心ごとは、
神の働きの解明にあったのです。

現代では、19世紀の合理主義者の謬見が未だに根強く支持されているため、
このような世界観は、主流の座から降ろされています。

しかし、これまで一度も、合理主義者が完全勝利したことはありません。

ルネサンス的な精神、思想は、形を変えながらも、生き延びてきました。

むしろ、近年においては、ルネサンスは再評価され、
唯物論の崩壊によってパラダイムは転換しようとしています。

この兆候は、境界科学の広がりを見ても明らかです。

再び、新たなルネサンスが興る日も近いのです。

すなわちそれは、第五元素エーテルの復活、科学と宗教の再結合です。




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2008.10.28 宗教原理主義
現代においても、伝統的な宗教者のなかには、
「自分の信仰こそ、唯一の真理であり、唯一の神に救われる道である」と主張したり、
「わが宗教の教義は、最高の価値を有し、絶対不変の真実である」と主張する、
原理主義者は多いようです。

人間のエゴは、偏狭で頑迷です。

ヒンドゥー教徒のマハトマ・ガンジー氏はこう言っています。

「我々人類が不完全な存在である限り、
我々人間によって信仰されている宗教も又、不完全なものである筈だ!
だから、如何なる宗教も未だ進化発展の過程にあり、
我々人類の進化発展に伴って改善・改良されてゆくべきものである。」


このように、宗教も、
他の学問、諸科学と同様に、時代に即応して進化発展していくものです。

神は人類の進化発展の為に、常に新たな啓示を与え続けている、
とする方が妥当な考えなのです。

キリスト教の著名な牧師レスリー・ウェザーヘッド氏も、
このような疑問を投げかけています。

「神は、他の惑星の生物に対して、お力お働きをなさらないのであろうか? 
肉体的誕生という言葉は、
生命が体を受肉する事を意味しており、含蓄のある言葉ではないか? 
神は自己の存在を地球にだけ現し、
他の惑星には如何なる方法でも表現なさらないのだろうか? 
神がなさるこれらの可能性を否定するのは、我々の能力や知識を越えている事柄なのだ。
否定的な、この考え方こそかつてガリレオを宗教裁判にかけて迫害した考え方なのである。
しかし、神が大宇宙の他の惑星にも自己を何らかの形で現されるという事が可能ならば、
三位一体説はどうなってしまうのだろう? 
神は三位一体ではなく、三百万位一体という事が正しいのではなかろうか? 
イエスだけが、「神のたった一人子」などとどうして言えるだろうか? 
全てを知らなくて「たった一つ」という言葉を使えるだろうか?
神の生命的愛を伝える為に何百何千という神の子達が、
他の色々な惑星に遣わされていないだろうか? 
この事の方が、寧ろ福音書である聖書を価値高くする事のように私には思われる。
この事は決してキリストと聖書の価値を消し去るものではないのだ。」


これからの宇宙時代においては、伝統宗教も変わっていかざるを得ません。

宗教が争いの原因になるのは、
神仏の責任ではなく、全て人間のエゴのなせる業です。




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