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2008.10.03 自由への意志
20世紀を代表するリバタリアニズム思想家であり、
ノーベル経済学賞受賞者のフリードリヒ・ハイエク氏は、
あくまでも自由なる発展繁栄と天の意を希求した政治哲学・経済学者でありました。

彼は、計画経済、社会主義、共産主義の過ちをことごとく論破しています。

21世紀に入っても尚、混乱している世界経済ですが、
彼が未だ重要な思想家であることに代わりはありません。




個人主義とは、「人間としての個人」への尊敬を意味しており、
それは、一人一人の考え方や嗜好を、たとえそれが狭い範囲のものであるにせよ、
その個人の領域においては至高のものと認める立場である。
それはまた、人はそれぞれに与えられた天性や性向を発展させることが、
望ましいとする信念でもある。
英語のfreedomやlibertyという言葉は、今ではあまりにも濫用され、
手垢がつきすぎてしまっているので、
かつての時代にそれが意味していた理想を表現するのに用いるのは、
大きなためらいを感じないわけにはいかない。
おそらく、寛容(tolerance)という言葉だけが、
ルネッサンスに隆盛を誇りながら、近年に衰退の一途をたどり、 
ついに全体主義国家の台頭とともに完全に消滅しかかっている、
あの西欧文明の原理の完全なる意味をいまだに伝えている唯一の言葉だろう。

アクトン卿が自由について言った正鵠を得た叙述は、民主主義にはあてはまらない。
それは「自由はより高い政治目的のための手段ではない。
自由はそれ自体、至高の政治的である。自由が必要とされるのは、
よい行政を実現するためではなく、市民社会、そして個人的生活が、
至高の目標を追求していくことを保証するためである」というものである。
民主主義は、本質的に手段であり、
国内の平和と個人の自由を保証するための功利的な制度でしかない。
民主主義は決してそれ自体、完全無欠でも確実なものでもない。
そしてまた、これまでの歴史において、いくつかの民主主義体制のもとでよりも、
独裁的な支配のもとでのほうが、
しばしば文化的・精神的自由が実現されてきたということを忘れてはならない。
また、きわめて同質的な、そして空論ばかり振り回す多数派の支配のもとでは、
民主主義政府は最悪の独裁体制と同様に圧政的なものとなることは、
少なくとも可能性としては考えられる。

過去において文明の発展が可能になったのは、
市場における「個人を超えた非人格的な諸力」に、人々が身を任せてきたからであり、
このことなしに、今日のような高度な文明が発展することは決してありえなかった。
言い換えると、われわれの中の誰一人として十分に理解することができない、
より偉大な何事かを築き上げていくのを、われわれは毎日助けているのだ、
という考え方を人々が受け入れてきたからこそ、
このように偉大な文明も初めて可能となったのである。
過去の人々がそのような考えを受け入れてきたのは、
一部の人が今日では迷信とみなしているなんらかの信仰が基礎となっているのか、
それとも宗教的な謙遜の精神によるものか、
あるいは初期の経済学者たちによる原始的な教えを過大に尊敬したからであったのか、
というようなことはここでは問うまい。
決定的に大切なことは、細かい働きが誰にも理解できないような諸力に、
身を任せなければならないということを、
合理的に理解することはきわめて困難だということである。
それよりはむしろ宗教や経済的教義への尊敬から生まれる、
謙虚な畏敬の念に従うことはずっとたやすいものである。

そもそも人類を窮境へと陥れたのは20世紀の世代であって、
19世紀の世代ではなかったことを決して忘れてはならない。
たとえ19世紀の人々が、
彼らが欲していた世界を創り出すために何が必要であったかを、
まだ十分に学び取っていなかったとしても、
その時以来20世紀の世代が身につけてきた経験のおかげで、
われわれは、この仕事をよりよく達成するために必要な知識を得てきている。
自由な人々によって占められた世界を創り出すことに、
最初の試みにおいては失敗したとすれば、われわれは、
再び同じことを試みなければならない。
各個人のための自由を確保する政策だけが、
本当の意味で進歩的な唯一の政策であるという指導原理は、
19世紀においてそうであったのと同様に、
20世紀の今日においても依然として正しいのである。

「隷属への道」




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2008.10.03 永遠の法
現代の仏陀が、修行者の進むべき真なる道を示してくださっています。

心に直接、響いてくるようです。




諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私の言葉をよく聞きなさい。
私は、かつてあなたがたに、心について、心の教えについて、
さまざまに語ってきたはずである。
そして、心の教えとは、時代を超え、地域を超え、人種を超えて、
いつも妥当する教えであると説いてきたはずである。
しかし、諸々の比丘、比丘尼たちよ。
あなたがたが生まれているこの時代、この地域には、
あなたがたが過去、修行によって学ばなかったものがある。
あなたがたは今の時代において、政治をどうとらえたらよいかがわからないであろう。
あなたがたは今の時代において、経済をどうとらえたらよいかがわからないであろう。
その通り。私は、過去あなたがたに政治の道は説かなかった。
私は、過去あなたがたに経済の道は説かなかった。
私は、過去あなたがたに政治や経済を離れ、ただ心の安らかさを求めよと説いた。
しかり、しかり。
今の時代においても、心の平安こそが、心の調律こそが、
そして、悟りの道こそが、至高の徳であることは変わりがない。

しかし、諸々の比丘、比丘尼たちよ。
この時代に、この政治のなかに、この経済のなかに、
生きているあなたがたは、
いかにまどい、いかにとまどうことであろうか。
そうしたあなたがたの姿を見ていると、私は涙を禁じえないのである。
比丘、比丘尼たちよ。
しかし、まどってはならない。
この世に現われたるものは、すべて真実の神仏の心が、
何らかの形で展開しているのである。
したがって、あなたがたはいたずらに、政治から逃れようとするな。
あなたがたはいたずらに、経済から逃れようとするな。
あなたがたの今世の修行は、この政治のなかにあって、この経済のなかにあって、
心清く、心正しく、心穏やかに生きるとは、そして、
神仏の心にかなって生きるとは、いかなることであるかを示すことではないか。
そう、時代は変わった。
されど、永遠の法は変わらない。
この永遠の法を人びとに伝えるためには、
あなたがたは、この世の中のものをすべて否定してはならない。
この世の中に潜むあらゆる善を発掘し、
この世の中に現われる、あらゆる悪を消し去ろうと努力せよ。
そして、そのなかに真の修行者の道を得なければならない。





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2008.10.03 初転法輪
お釈迦さまは、
悟りを開かれてから後、伝道を開始され、法の輪を転じられました。

その教えが初めて説かれた時点をもって初転法輪といいいます。

最初に説かれた教えには、すでに、仏教の普遍性が見出されます。

ここで説かれているのは、
黄金に輝く道、神の御心・正しい心の探求の道、
適切な進歩発展の道、神の意にかなった霊的向上の道、であります。




「比丘たちよ、
出家者はこれら二つの極端に従うべきではありません。 
二つとは何か。
下劣、粗野、凡俗の、聖ならざる、
利益を件わない、諸欲の快楽に耽ること、
および、苦しい、聖ならざる、利益を伴わない、自虐に耽ることです。
比丘たちよ、如来はこれらの両極端に近づかず、中道をよく悟りました。
それは眼を作り、智を作り、寂止のためになり、勝智のためになり、
正覚のためになり、涅槃のためになります。
その中道とは何か。
それは、聖なる八支の道です。
すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。
つぎに、比丘たちよ、これが苦という聖諦です。
生まれも苦です。老いも苦です。病も苦です。死も苦です。
愛さない者たちと会うのも苦です。愛する者たちと別れるのも苦です。
求めるものを得ないのも苦です。要するに五取蘊は苦です。
比丘たちよ、これが苦の生起という聖諦です。
それは苦しみの再生をもたらし、喜悦・愛着を伴い、
あちこちに執着する渇愛です。すなわち欲愛、有愛、無有愛です。
比丘たちよ、これが苦の滅尽という聖諦です。
それはその渇愛の、消滅による残りなき減尽、捨棄、破棄、解脱、無執着です。
比丘たちよ、これが苦の滅尽にいたる行道という聖諦です。
それは、聖なる八支の道です。
すなわち、正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定です。

パーリ原始仏典相応部「初転法輪経」




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