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2008.10.18
正論は蘇る
日本仏教は、
東京帝国大学印度哲学教授、木村泰賢博士の早逝(1930年)以降、
根本的に道を踏み外し、唯物論的虚無思想へと堕落していきました。
近代仏教学は、
彼に反対し、無我無霊魂説、輪廻非仏説なる邪見を展開した進歩的知識人勢力と、
その説を受け売りする僧侶達によって確立されてしまいました。
仏教に宗教的生命を取り戻すべく、
今こそ、木村博士の正論に立ち返るべきです。
佛教の生命観、又は霊魂観に於て、その最も特徴とすべきは、
改めて言うまでもなく佛陀はこれより実体概念を除去したことである。
すなわち、当時一般に世に行われた半物体的の霊魂は勿論の事、
ウパニシャッドに於て有情の本体とした常住不変の知我をも否定して、
いわゆる無我論を主張したことである。
佛陀に従えば、生命も霊魂も、要するに一種の活動現象で、
術語で云えば因縁所生の法で、別に固定した不変的実体がない。
佛陀はこれを証明するために種々の説明を下しているけれども、
要するに反省的に言えば、吾等の心理活動は念々生滅するもので、
この間に連続的統一はあるけれども、固定した中心を求め難いという理由と、
実践的に言えば、かかるものを仮定するは、我執我欲の利己心を長ぜしむるのみで、
人生の価値を増進する上に、何の役にも立たぬという二つの理由に基づくものである。
しかしながら、佛教は決して唯物論者ではない。
物質が或る仕方で結合することによって暫らく生命現象又は、
心理現象が起こるということを主張するものではない。
一類の佛教批評家の中には、佛教を恰も、
純唯物論者たるチャールワーカの順世派と隣同志になっているかの如くに、
見ている人もあるけれども、これは非常の誤解である。
佛陀もやはり、霊的生命という特殊の活動を認め、しかもそれは、
無始、無終のもので、起源もなければ終滅もない、と説くことを忘てはならぬ。
ただ、それは固定的なものではなく変化しながら持続するもの、
即ち、今流行の言葉で云えば流動的なものであるというのが、
従来の有我論と大いに異なるところで、しかもまた、無我論と称せらるる所以である。
原始佛教の真如観は、次の事だけは何人も認めねばならぬ事実である。
一、万物は流転するけれども、
その流転の根底には、これを然らしむる常恒の法則のあると見たこと。
二、しかして、またこの流転界のかなたには常恒不変の涅槃界ありと見たこと。
三、流転界も涅槃界も畢竟するに吾等の心に、この根拠を置くとしたこと。
四、最後に、如上の真相は、
知見と執見を離れた正智正念によりて見得るとしたことである。
「原始仏教より大乗仏教」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
東京帝国大学印度哲学教授、木村泰賢博士の早逝(1930年)以降、
根本的に道を踏み外し、唯物論的虚無思想へと堕落していきました。
近代仏教学は、
彼に反対し、無我無霊魂説、輪廻非仏説なる邪見を展開した進歩的知識人勢力と、
その説を受け売りする僧侶達によって確立されてしまいました。
仏教に宗教的生命を取り戻すべく、
今こそ、木村博士の正論に立ち返るべきです。
佛教の生命観、又は霊魂観に於て、その最も特徴とすべきは、
改めて言うまでもなく佛陀はこれより実体概念を除去したことである。
すなわち、当時一般に世に行われた半物体的の霊魂は勿論の事、
ウパニシャッドに於て有情の本体とした常住不変の知我をも否定して、
いわゆる無我論を主張したことである。
佛陀に従えば、生命も霊魂も、要するに一種の活動現象で、
術語で云えば因縁所生の法で、別に固定した不変的実体がない。
佛陀はこれを証明するために種々の説明を下しているけれども、
要するに反省的に言えば、吾等の心理活動は念々生滅するもので、
この間に連続的統一はあるけれども、固定した中心を求め難いという理由と、
実践的に言えば、かかるものを仮定するは、我執我欲の利己心を長ぜしむるのみで、
人生の価値を増進する上に、何の役にも立たぬという二つの理由に基づくものである。
しかしながら、佛教は決して唯物論者ではない。
物質が或る仕方で結合することによって暫らく生命現象又は、
心理現象が起こるということを主張するものではない。
一類の佛教批評家の中には、佛教を恰も、
純唯物論者たるチャールワーカの順世派と隣同志になっているかの如くに、
見ている人もあるけれども、これは非常の誤解である。
佛陀もやはり、霊的生命という特殊の活動を認め、しかもそれは、
無始、無終のもので、起源もなければ終滅もない、と説くことを忘てはならぬ。
ただ、それは固定的なものではなく変化しながら持続するもの、
即ち、今流行の言葉で云えば流動的なものであるというのが、
従来の有我論と大いに異なるところで、しかもまた、無我論と称せらるる所以である。
原始佛教の真如観は、次の事だけは何人も認めねばならぬ事実である。
一、万物は流転するけれども、
その流転の根底には、これを然らしむる常恒の法則のあると見たこと。
二、しかして、またこの流転界のかなたには常恒不変の涅槃界ありと見たこと。
三、流転界も涅槃界も畢竟するに吾等の心に、この根拠を置くとしたこと。
四、最後に、如上の真相は、
知見と執見を離れた正智正念によりて見得るとしたことである。
「原始仏教より大乗仏教」



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2008.10.18
精神と物質
私達は、一体、何を知っていて、何を知らないのでしょうか?
神秘は見ようとするものに対して開かれます。
驚異はあらゆるところに溢れています。
自然の光はいつもそこにあって発見されるのを待っているのです。
精神と物質の間の関係は、詩人が空想したものではなく、神の意志のうちにある。
だから、すべての人びとは、自由にこれを知ることができる。
この関係は、人びとの目に、それと見える時もあれば、見えない時もある。
幸運にもこの奇蹟を経験し、これについて考える時、
聡明なものは、自分は、ほかの時にはいつでも、
眼や耳はあっても無きがごとしではないか、という疑いをもつ。
こういうものが存在して、夏雲のように不意に襲いかかってくるというのに、
とくに驚かないでおられようか。(『マクベス』三幕四場)
こういう時には、宇宙が透明となり、
宇宙の法則よりも高い法則の光が、宇宙に輝きわたるからである。
これは、世界の初めから、あらゆるすぐれた天才を驚かせ、
天才の研究心を刺激した永遠の問題である。
エジプト人とバラモンの時代から、ピタゴラス、プラトン、ベイコン、ライプニッツ、
スウェーデンボルグの時代にいたるまで、いつでも天才たちの問題となった。
路傍にスフィンクスが座っている。
そしていつの時代においても、予言者がやって来ると、
彼は、スフィンクスの謎を解こうとして運だめしをする。
精神には、物質の形態のうちに、自らを表明する必然性があるように思える。
昼と夜、河とあらし、獣と鳥、酸とアルカリ、これらのものは、
神の心のうちの必然的な「理念(イデア)」のうちに先在している。
そして、精神界の先行的愛情の力により、現在のようなものになっている。
事実は、精神の目的、あるいは最後の結果である。
目に見える創造の世界は、目に見えない世界の境界、もしくは周辺である。
「あらゆる聖典は、これを著わした精神と同一の精神によって解釈されるべきである。」
これは批評の根本法則である。
自然との調和をもった生活、真理と徳とに対する愛、
これが人間の目をきよめ、自然の書いた聖句を理解させてくれるであろう。
次第に、われわれは、自然の永久的な事物の根源的な意味を知るようになるであろう。
そうなると、世界は、われわれにとり、開かれた書物となり、
自然のあらゆる形態は、そのかくれた生命と窮極の原因を現わすであろう。
今のべた観点から、おそろしいほど広汎にわたる多数の自然物を眺めて、
思索していると、新しい興味が、われわれを驚かす。
「すべての対象は、これを正しく見る者の魂から、新しい機能をひき出す」からである。
無意識の真理であったところのものが、理解され、ある対象のうちに明確に示されると、
知識という領土の一部分となり、力の倉庫のなかの新しい武器となる。
エマソン「自然について」
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神秘は見ようとするものに対して開かれます。
驚異はあらゆるところに溢れています。
自然の光はいつもそこにあって発見されるのを待っているのです。
精神と物質の間の関係は、詩人が空想したものではなく、神の意志のうちにある。
だから、すべての人びとは、自由にこれを知ることができる。
この関係は、人びとの目に、それと見える時もあれば、見えない時もある。
幸運にもこの奇蹟を経験し、これについて考える時、
聡明なものは、自分は、ほかの時にはいつでも、
眼や耳はあっても無きがごとしではないか、という疑いをもつ。
こういうものが存在して、夏雲のように不意に襲いかかってくるというのに、
とくに驚かないでおられようか。(『マクベス』三幕四場)
こういう時には、宇宙が透明となり、
宇宙の法則よりも高い法則の光が、宇宙に輝きわたるからである。
これは、世界の初めから、あらゆるすぐれた天才を驚かせ、
天才の研究心を刺激した永遠の問題である。
エジプト人とバラモンの時代から、ピタゴラス、プラトン、ベイコン、ライプニッツ、
スウェーデンボルグの時代にいたるまで、いつでも天才たちの問題となった。
路傍にスフィンクスが座っている。
そしていつの時代においても、予言者がやって来ると、
彼は、スフィンクスの謎を解こうとして運だめしをする。
精神には、物質の形態のうちに、自らを表明する必然性があるように思える。
昼と夜、河とあらし、獣と鳥、酸とアルカリ、これらのものは、
神の心のうちの必然的な「理念(イデア)」のうちに先在している。
そして、精神界の先行的愛情の力により、現在のようなものになっている。
事実は、精神の目的、あるいは最後の結果である。
目に見える創造の世界は、目に見えない世界の境界、もしくは周辺である。
「あらゆる聖典は、これを著わした精神と同一の精神によって解釈されるべきである。」
これは批評の根本法則である。
自然との調和をもった生活、真理と徳とに対する愛、
これが人間の目をきよめ、自然の書いた聖句を理解させてくれるであろう。
次第に、われわれは、自然の永久的な事物の根源的な意味を知るようになるであろう。
そうなると、世界は、われわれにとり、開かれた書物となり、
自然のあらゆる形態は、そのかくれた生命と窮極の原因を現わすであろう。
今のべた観点から、おそろしいほど広汎にわたる多数の自然物を眺めて、
思索していると、新しい興味が、われわれを驚かす。
「すべての対象は、これを正しく見る者の魂から、新しい機能をひき出す」からである。
無意識の真理であったところのものが、理解され、ある対象のうちに明確に示されると、
知識という領土の一部分となり、力の倉庫のなかの新しい武器となる。
エマソン「自然について」



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