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2008.10.24
国民精神
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは、
超絶主義者エマソンとして19世紀のアメリカに転生し、
自由と信仰、発展を鼓舞し、古き良き時代のアメリカ精神の主柱となりました。
そのアメリカも、凋落の色を濃くしている昨今、
世界の警察を放棄する日も近いのかもしれません。
いよいよ、わが国も独立する気概を持つべきです。
エマソンは講演で、このように国民に語りかけています。
われわれは、ヨーロッパのしとやかな詩神に、ずいぶん長い間、耳を傾けてきました。
アメリカの自由人の精神は、すでに小心で模倣的で弱気なものと思われています。
公私ともに見られる貧欲は、見苦しいほど不愉快な空気をつくっています。
学者は、上品で怠惰でいんぎんです。
すでに悲劇的な結末が生じているのをご覧なさい。
この国の精神は、賤しいものに向って進むように教えられていて、
自分自身を食むという始末です。
お行儀のよい者、いんぎんな者だけに、仕事が与えられます。
有為の青年でわが国土に生をうけ、山間の風に吹かれ、
神につくられた星の輝きをうけた人びとは、
人間の世界がこれら自然界と調和していないのを知ります。
彼らは、また、実業界を動かしている原理を見て、嫌悪の情にかられ、
その行動を阻められ、つまらない労役者になり果てるか、
あるいは、嫌悪のあまり死にます。
ある者は自殺さえします。どういう対策があるでしょう。
もし一個の人間が、断乎として自分の直感を根拠として、
これを守れば、巨大な世界が彼の方に進み寄ってくる、ということを、
この青年たちはまだ知りませんし、彼らと同様に、有望な多くの青年にして、
就職難という障壁に現在逢会している人びとも、このことを知りません。
忍耐―善良な、偉大な人びとの霊を友として、忍耐しなくてはなりません。
慰めとしては、前途に無限の生命があります。
為すべき仕事は、原理を研究し、これを伝え、
この直感を世にひろめ、世界を改変することです。
はなはだ不面目ながら、われわれは一個の人間、一つの人格と見なされないで、
人類が創造されたのは、各人がその独特の果実を結ぶためであるのに、
そうとは考えられないで、十把一からげに、
所属の党や分派の百人千人と一緒に数えられています。
そして、われわれの意見は、地理的に、北部のもの、南部のものと決められています。
諸君―これではいけません。
われわれの意見が、このようなものであってはなりません。
自分の足で歩み、自分の手で働き、自分の心で語りましょう。
文学の研究は、もはや憐憫、逡巡、沈溺の別名であってはなりません。
人を畏れ、人を愛することにより、すべての人をまもる垣を造り、
すべての人を喜ばせる花環を造らなければなりません。
国民とは、各人が、すべての人びとに霊感を与える「神の霊」によって、
自分もまた霊感を与えられると信じて、初めて存在するものです。
「アメリカの学者」
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超絶主義者エマソンとして19世紀のアメリカに転生し、
自由と信仰、発展を鼓舞し、古き良き時代のアメリカ精神の主柱となりました。
そのアメリカも、凋落の色を濃くしている昨今、
世界の警察を放棄する日も近いのかもしれません。
いよいよ、わが国も独立する気概を持つべきです。
エマソンは講演で、このように国民に語りかけています。
われわれは、ヨーロッパのしとやかな詩神に、ずいぶん長い間、耳を傾けてきました。
アメリカの自由人の精神は、すでに小心で模倣的で弱気なものと思われています。
公私ともに見られる貧欲は、見苦しいほど不愉快な空気をつくっています。
学者は、上品で怠惰でいんぎんです。
すでに悲劇的な結末が生じているのをご覧なさい。
この国の精神は、賤しいものに向って進むように教えられていて、
自分自身を食むという始末です。
お行儀のよい者、いんぎんな者だけに、仕事が与えられます。
有為の青年でわが国土に生をうけ、山間の風に吹かれ、
神につくられた星の輝きをうけた人びとは、
人間の世界がこれら自然界と調和していないのを知ります。
彼らは、また、実業界を動かしている原理を見て、嫌悪の情にかられ、
その行動を阻められ、つまらない労役者になり果てるか、
あるいは、嫌悪のあまり死にます。
ある者は自殺さえします。どういう対策があるでしょう。
もし一個の人間が、断乎として自分の直感を根拠として、
これを守れば、巨大な世界が彼の方に進み寄ってくる、ということを、
この青年たちはまだ知りませんし、彼らと同様に、有望な多くの青年にして、
就職難という障壁に現在逢会している人びとも、このことを知りません。
忍耐―善良な、偉大な人びとの霊を友として、忍耐しなくてはなりません。
慰めとしては、前途に無限の生命があります。
為すべき仕事は、原理を研究し、これを伝え、
この直感を世にひろめ、世界を改変することです。
はなはだ不面目ながら、われわれは一個の人間、一つの人格と見なされないで、
人類が創造されたのは、各人がその独特の果実を結ぶためであるのに、
そうとは考えられないで、十把一からげに、
所属の党や分派の百人千人と一緒に数えられています。
そして、われわれの意見は、地理的に、北部のもの、南部のものと決められています。
諸君―これではいけません。
われわれの意見が、このようなものであってはなりません。
自分の足で歩み、自分の手で働き、自分の心で語りましょう。
文学の研究は、もはや憐憫、逡巡、沈溺の別名であってはなりません。
人を畏れ、人を愛することにより、すべての人をまもる垣を造り、
すべての人を喜ばせる花環を造らなければなりません。
国民とは、各人が、すべての人びとに霊感を与える「神の霊」によって、
自分もまた霊感を与えられると信じて、初めて存在するものです。
「アメリカの学者」



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2008.10.24
奇跡と世界の起源
お釈迦さまは、
霊力による奇跡的現象を示したり、
創造神などの形而上についての知識は説かなかったというのは間違いです。
そうではなく、
それらは、苦の解決のための優先事項ではないということなのです。
仏・法・僧の三法を信じ、守り、実践することが、解脱への近道であります。
遍歴行者バッガヴァよ、
先日、還俗したリッチャヴィ族の王子スナッカッタは私にこう言いました。
「世尊はなぜ私に、超人法によって神通の奇跡を現わしてくださらないのですか?」
「スナッカッタよ、超人法によって神通の奇跡が現わされるときにも、
あるいは超人法によって神通の奇跡が現わされないときにも、
私は正しく苦を滅するために法を説いていますが、
それはそれを行なう者が正しく苦を滅するために役立つのです。
スナッカッタよ、いったい超人法によって、
神通の奇跡を現わすことが何になるというのですか。
愚人よ、そなたがどれだけ過っているかをよく見なさい。」
「それでは、尊師よ、世尊はなぜ私に、
世界の起源と認められるものを告げてくださらないのですか?」
「スナッカッタよ、起源と認められるものが告げられるときにも、
あるいは起源と認められるものが告げられないときにも、
私は正しく苦を滅するために法を説いていますが、
それはそれを行なう者が正しく苦を滅するために役立つのです。
スナッカッタよ、
いったい起源と認められるものを告げることが何になるというのですか。
愚人よ、そなたがどれだけ過っているかをよく見なさい。」
バッガヴァ行者よ、
ある時、私は、(スナッカッタが吹聴した為に奇跡を見に集まってきた)会衆を、
法話によって教示し、訓戒し、激励し、喜ばせ、大束縛から解脱させました。
そして八万四千の生類を大苦難から引き上げると、火界に入定し、
八ターラの高さまで虚空に飛び上がり、別に七ターラの高さまでも光焔を創造し、
燃え、煙を出し、大林の重閣に現われました。
バッガヴァよ、そこで、リッチャヴィ族の王子スナッカッタは、
私のところへ近づいて来ました。来て、私を礼拝し、一方に座りました。
ヴァッガヴァよ、一方に座ったスナッカッタに、私はこう言いました。
「スナッカッタよ、そなたは、超人法によって奇跡を現わしている私に、
『しかし、尊師よ、世尊は私に、超人法によって奇跡を現わしておられません』と、
こう言っています。見なさい、愚人よ。
そなたには、これほどの違背があるのです。」と。
バッガヴァよ、このように、スナッカッタは私から言われても、
まるで悪趣者や地獄者のように、この法と律から去って行きました。
バッガヴァよ、私は世界の起源を知っています。
また、それを知り、それ以上のことをも知っています。
また、それを知っていますが、執取しません。
また、執取しない私には、自ら、寂滅が知られています。
それを証知している如来は、禍を受けることがありません。
バッガヴァよ、このように説き、このように語る私を、
ある沙門・バラモンたちは、不実によって、空虚によって、
虚妄によって、不真によって誹謗します。
「沙門ゴータマは顛倒している。比丘たちもである。沙門ゴータマはこのように言った。
『浄なる解脱を成就して住むとき、かれは〈すべてが不浄である〉とのみ了解する』」と。
しかし、バッガヴァよ、私はそのように説きません。
バッガヴァよ、私はこのように説きます。
『浄なる解脱を成就して住むとき、かれは〈浄である〉と了解する』と。
「尊師よ、
『世尊のことを顛倒している。比丘たちもである』と捉えるかれらこそ顛倒しております。
私は、世尊に対して、
『世尊は、私が浄なる解脱を成就して住むことができるように、
法をお示しくださることができる』と、このように信じております。」
バッガヴァ行者よ、そなたは、異なる見解によっているため、
異なる信仰によっているため、異なる喜びによっているため、
異教の実践によっているため、異教の師によっているために、
この浄なる解脱を成就して住むことが困難です。
さあ、バッガヴァよ、しかしながらそなたには私に対するこの信があります。
そなたは、それのみをよく守り続けなさい。
パーリ原始仏典長部第24経「パーティカ経」
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霊力による奇跡的現象を示したり、
創造神などの形而上についての知識は説かなかったというのは間違いです。
そうではなく、
それらは、苦の解決のための優先事項ではないということなのです。
仏・法・僧の三法を信じ、守り、実践することが、解脱への近道であります。
遍歴行者バッガヴァよ、
先日、還俗したリッチャヴィ族の王子スナッカッタは私にこう言いました。
「世尊はなぜ私に、超人法によって神通の奇跡を現わしてくださらないのですか?」
「スナッカッタよ、超人法によって神通の奇跡が現わされるときにも、
あるいは超人法によって神通の奇跡が現わされないときにも、
私は正しく苦を滅するために法を説いていますが、
それはそれを行なう者が正しく苦を滅するために役立つのです。
スナッカッタよ、いったい超人法によって、
神通の奇跡を現わすことが何になるというのですか。
愚人よ、そなたがどれだけ過っているかをよく見なさい。」
「それでは、尊師よ、世尊はなぜ私に、
世界の起源と認められるものを告げてくださらないのですか?」
「スナッカッタよ、起源と認められるものが告げられるときにも、
あるいは起源と認められるものが告げられないときにも、
私は正しく苦を滅するために法を説いていますが、
それはそれを行なう者が正しく苦を滅するために役立つのです。
スナッカッタよ、
いったい起源と認められるものを告げることが何になるというのですか。
愚人よ、そなたがどれだけ過っているかをよく見なさい。」
バッガヴァ行者よ、
ある時、私は、(スナッカッタが吹聴した為に奇跡を見に集まってきた)会衆を、
法話によって教示し、訓戒し、激励し、喜ばせ、大束縛から解脱させました。
そして八万四千の生類を大苦難から引き上げると、火界に入定し、
八ターラの高さまで虚空に飛び上がり、別に七ターラの高さまでも光焔を創造し、
燃え、煙を出し、大林の重閣に現われました。
バッガヴァよ、そこで、リッチャヴィ族の王子スナッカッタは、
私のところへ近づいて来ました。来て、私を礼拝し、一方に座りました。
ヴァッガヴァよ、一方に座ったスナッカッタに、私はこう言いました。
「スナッカッタよ、そなたは、超人法によって奇跡を現わしている私に、
『しかし、尊師よ、世尊は私に、超人法によって奇跡を現わしておられません』と、
こう言っています。見なさい、愚人よ。
そなたには、これほどの違背があるのです。」と。
バッガヴァよ、このように、スナッカッタは私から言われても、
まるで悪趣者や地獄者のように、この法と律から去って行きました。
バッガヴァよ、私は世界の起源を知っています。
また、それを知り、それ以上のことをも知っています。
また、それを知っていますが、執取しません。
また、執取しない私には、自ら、寂滅が知られています。
それを証知している如来は、禍を受けることがありません。
バッガヴァよ、このように説き、このように語る私を、
ある沙門・バラモンたちは、不実によって、空虚によって、
虚妄によって、不真によって誹謗します。
「沙門ゴータマは顛倒している。比丘たちもである。沙門ゴータマはこのように言った。
『浄なる解脱を成就して住むとき、かれは〈すべてが不浄である〉とのみ了解する』」と。
しかし、バッガヴァよ、私はそのように説きません。
バッガヴァよ、私はこのように説きます。
『浄なる解脱を成就して住むとき、かれは〈浄である〉と了解する』と。
「尊師よ、
『世尊のことを顛倒している。比丘たちもである』と捉えるかれらこそ顛倒しております。
私は、世尊に対して、
『世尊は、私が浄なる解脱を成就して住むことができるように、
法をお示しくださることができる』と、このように信じております。」
バッガヴァ行者よ、そなたは、異なる見解によっているため、
異なる信仰によっているため、異なる喜びによっているため、
異教の実践によっているため、異教の師によっているために、
この浄なる解脱を成就して住むことが困難です。
さあ、バッガヴァよ、しかしながらそなたには私に対するこの信があります。
そなたは、それのみをよく守り続けなさい。
パーリ原始仏典長部第24経「パーティカ経」



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2008.10.24
水瓶座の夜明け
混沌とする世界のなかにあって、
確かに人々は、救いの光を発見しつつあるように見えます。
押し付けられた冷たい宇宙観は、どうやら間違っていたようです。
神々しい生きた宇宙を再び取り戻さんとする霊性復興運動が起きています。
1960年代から西洋で予見されていたニューエイジの到来です。
若者の東洋の宗教への傾斜がキリスト教の聖職者たちを悩ませ、
怒らせているが、それはきわめて単純な理由から起こった。
いまだに東洋が、神の体験的な発見の道を培い、
正統的キリスト教が長い間抑圧してきた個人の内的欲求を満たしているからである。
西洋における内的宗教からの逸脱のほうが、むしろ奇妙といえる。
東洋の宗教では、「内」と「外」とは平和のうちに共存する。
たとえば、イスラム教には、「タリカ」と「シャリア」という二つの道がある。
前者は、ふつうの人でも、コーランの教えにただひたすら従い、
疑問を抱かずに人生を送っていけば、救済を保証されるというものである。
ところが、さまざまなスーフィーの結社を含むシャリアの道は、
単に神を信じるのではなく、これらの教えの背後に横たわるものを体験するための、
つまり神を知るための秘密の手段を提供する。
かくして、おそらく大宗教のなかでキリスト教についで、
不寛容とみなされるイスラム教は、教条的な面と開かれた面を合わせもち、
批判的、体験的な真理の求道者たちさえをも含むあらゆる人を、
傘下におさめることができるのである。
一方、キリスト教世界では、かつてテンプル騎士団やアルビ派のような、
グノーシス派の秘密結社、それにヘシカストによって培われた「秘儀」の伝統が、
はやくも14世紀、教皇ピウス三世によるヘシカスム異端宣言を機に弾圧された。
かくて、秘密の科学は地下に追いやられた。
そして、教会が教義で塗り固められるようになるにつれ、
その精神的主張は一般の信者にとり、うわべだけのものとなった。
くり返し行なわれる荘厳な儀式はその魂を失い、単なる習慣と化した。
王様の服は透明になり―無垢な子供にはそれがわかる―教会の身体は、
新たに台頭した合理主義のヴィジョンに比べ神秘性を欠く姿を露呈するに至った。
ガリレオ、メンデル、ダーウィンが生き生きとした象徴の潮流を生みだし、
教会が激しい戦いのすえに手に入れた宇宙の意味に関する独占権を、
いともたやすく押し流してしまった。
ふつうの人々にとっての宗教の選択範囲は、キリスト教の宗派を超え、
異端のそしりを受けることなく無神論や不可知論を信ずることができるまでにひろがった。
「奇跡的なるもの」からの隔離が進んだのは、ここ150年のことである。
事実偏重の機械論的世界がますます内的世界から遠ざかるにつれ、世代を経るごとに、
子供たちはいっそう疎外された混乱の世界を受け継がなければならなかった。
ほんの六世代にわたる緊張の高まりのすえ、「子供たちの革命」が起こった。
若者たちは、1968年、ソルボンヌ大学の入口に書かれたスローガン同様、
「想像力が復権した」と口々にはやしたてた。
この「時代精神」は、神や聖書が、
不変の大文字で表わされる宗教の教条主義に反旗をひるがえしただけではない。
あらゆるものを原子の偶然の結合に帰着させ、
人間の身体を単なるもうひとつの決定論的機械とみなし、
言語能力や意識のひらめきを、
かわせみの羽根の青さと同じような属性にすぎぬものと考える「冷たい宇宙論」、
科学的教条主義にも反旗をひるがえしたのである。
われわれはすでに、各自の能力に応じて、
この到来しつつある時代の最初の力に反応しはじめている。
いままでわれわれの生をすっぽり包みこんでいた殻が破れるにつれ、
異なった秩序をもつ知の予感が漂いはじめる。
内部に向かえば向かうほど、われわれは外的世界の「世俗的事実」から遠ざかり、
水瓶座の夜明けを告げる敬虔な調べに強く反応するようになる。
だが、外から見ただけでは、道徳と制度の荒廃のなか、
暗黒の世界の終末に立ち会っているかのごとく見える。
しかし、一方において、
新たな「啓示」や「第二の救世主の到来」が近づきつつあることを、占星術が告げている。
定着と風のサインをもつ水瓶座は、理論的で偏見にかたよらない星座で、
破壊的、霊的、電気的な惑星、天王星によって支配されている。
水瓶座の哲学は、人々をひとつの革命的目的のもとに団結させる。
地球がひとつの組織として、
全人類がひとつの家族として体験される初めての段階に入る。
水瓶座は、実質的な航空力学はもちろんのこと、
目に見えない力を有する稀薄な物質(エーテル)に至るまで、
風とそれにまつわるあらゆる象徴を司る。
この時代の科学は物質を支える霊妙なエネルギーヘと深く没入していく。
現代の外見的な無秩序や混乱は、
大きなリズム、あるいは占星術的時代の変化を告げる兆候にほかならない。
しかし、内部では、相互に関連づけられた特殊な知の鉄くずが、
新たな意味のパターンの周辺にすすんで群がりつつある。
これは宇宙法則の知と自己の知とが、深いところで一致していることを表わすものだ。
また、科学と宗教の乖離が埋まり、
二つの世界がひとつの魔術的ヴィジョンの河に融けこみはじめたことをも示している。
ローレンス・ブレア「超自然学」
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確かに人々は、救いの光を発見しつつあるように見えます。
押し付けられた冷たい宇宙観は、どうやら間違っていたようです。
神々しい生きた宇宙を再び取り戻さんとする霊性復興運動が起きています。
1960年代から西洋で予見されていたニューエイジの到来です。
若者の東洋の宗教への傾斜がキリスト教の聖職者たちを悩ませ、
怒らせているが、それはきわめて単純な理由から起こった。
いまだに東洋が、神の体験的な発見の道を培い、
正統的キリスト教が長い間抑圧してきた個人の内的欲求を満たしているからである。
西洋における内的宗教からの逸脱のほうが、むしろ奇妙といえる。
東洋の宗教では、「内」と「外」とは平和のうちに共存する。
たとえば、イスラム教には、「タリカ」と「シャリア」という二つの道がある。
前者は、ふつうの人でも、コーランの教えにただひたすら従い、
疑問を抱かずに人生を送っていけば、救済を保証されるというものである。
ところが、さまざまなスーフィーの結社を含むシャリアの道は、
単に神を信じるのではなく、これらの教えの背後に横たわるものを体験するための、
つまり神を知るための秘密の手段を提供する。
かくして、おそらく大宗教のなかでキリスト教についで、
不寛容とみなされるイスラム教は、教条的な面と開かれた面を合わせもち、
批判的、体験的な真理の求道者たちさえをも含むあらゆる人を、
傘下におさめることができるのである。
一方、キリスト教世界では、かつてテンプル騎士団やアルビ派のような、
グノーシス派の秘密結社、それにヘシカストによって培われた「秘儀」の伝統が、
はやくも14世紀、教皇ピウス三世によるヘシカスム異端宣言を機に弾圧された。
かくて、秘密の科学は地下に追いやられた。
そして、教会が教義で塗り固められるようになるにつれ、
その精神的主張は一般の信者にとり、うわべだけのものとなった。
くり返し行なわれる荘厳な儀式はその魂を失い、単なる習慣と化した。
王様の服は透明になり―無垢な子供にはそれがわかる―教会の身体は、
新たに台頭した合理主義のヴィジョンに比べ神秘性を欠く姿を露呈するに至った。
ガリレオ、メンデル、ダーウィンが生き生きとした象徴の潮流を生みだし、
教会が激しい戦いのすえに手に入れた宇宙の意味に関する独占権を、
いともたやすく押し流してしまった。
ふつうの人々にとっての宗教の選択範囲は、キリスト教の宗派を超え、
異端のそしりを受けることなく無神論や不可知論を信ずることができるまでにひろがった。
「奇跡的なるもの」からの隔離が進んだのは、ここ150年のことである。
事実偏重の機械論的世界がますます内的世界から遠ざかるにつれ、世代を経るごとに、
子供たちはいっそう疎外された混乱の世界を受け継がなければならなかった。
ほんの六世代にわたる緊張の高まりのすえ、「子供たちの革命」が起こった。
若者たちは、1968年、ソルボンヌ大学の入口に書かれたスローガン同様、
「想像力が復権した」と口々にはやしたてた。
この「時代精神」は、神や聖書が、
不変の大文字で表わされる宗教の教条主義に反旗をひるがえしただけではない。
あらゆるものを原子の偶然の結合に帰着させ、
人間の身体を単なるもうひとつの決定論的機械とみなし、
言語能力や意識のひらめきを、
かわせみの羽根の青さと同じような属性にすぎぬものと考える「冷たい宇宙論」、
科学的教条主義にも反旗をひるがえしたのである。
われわれはすでに、各自の能力に応じて、
この到来しつつある時代の最初の力に反応しはじめている。
いままでわれわれの生をすっぽり包みこんでいた殻が破れるにつれ、
異なった秩序をもつ知の予感が漂いはじめる。
内部に向かえば向かうほど、われわれは外的世界の「世俗的事実」から遠ざかり、
水瓶座の夜明けを告げる敬虔な調べに強く反応するようになる。
だが、外から見ただけでは、道徳と制度の荒廃のなか、
暗黒の世界の終末に立ち会っているかのごとく見える。
しかし、一方において、
新たな「啓示」や「第二の救世主の到来」が近づきつつあることを、占星術が告げている。
定着と風のサインをもつ水瓶座は、理論的で偏見にかたよらない星座で、
破壊的、霊的、電気的な惑星、天王星によって支配されている。
水瓶座の哲学は、人々をひとつの革命的目的のもとに団結させる。
地球がひとつの組織として、
全人類がひとつの家族として体験される初めての段階に入る。
水瓶座は、実質的な航空力学はもちろんのこと、
目に見えない力を有する稀薄な物質(エーテル)に至るまで、
風とそれにまつわるあらゆる象徴を司る。
この時代の科学は物質を支える霊妙なエネルギーヘと深く没入していく。
現代の外見的な無秩序や混乱は、
大きなリズム、あるいは占星術的時代の変化を告げる兆候にほかならない。
しかし、内部では、相互に関連づけられた特殊な知の鉄くずが、
新たな意味のパターンの周辺にすすんで群がりつつある。
これは宇宙法則の知と自己の知とが、深いところで一致していることを表わすものだ。
また、科学と宗教の乖離が埋まり、
二つの世界がひとつの魔術的ヴィジョンの河に融けこみはじめたことをも示している。
ローレンス・ブレア「超自然学」



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