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2008.10.27
権威かく終りき
新進の仏教学者、宮元啓一氏は、
旧来の絶対的権威であった東大仏教学者による、
唯物論的な仏教解釈に正当なる批判を加えています。
氏は、霊的世界には懐疑的な立場ですが、
因習的な仏教学界にあって、果敢に開拓する姿勢は評価されるべきです。
今日、わが国で行われている仏教文献学は、
大正時代から昭和時代にかけて、宇井伯寿博士が確立したものを基礎にしています。
そして、とりわけ初期仏教に関わる仏教文献学を精密化したのは、
宇井博士の愛弟子・中村元博士です。
その文献学は、二本の柱から成っています。
一つは、複数の文献に共通する部分は成立が古く、そうでない部分は、
後世の仏教徒による加筆・挿入(伝統的にこれを「増広」という)であるとする柱、
もう一つは、韻文は成立が古く、散文は成立が新しいとする柱です。
仏教文献学者は、何か自分の頭で不明なところに遭遇すると、
すぐにこの個所は後世の増大に成るものだと、むやみやたらに言いたがります。
しかし、ゴータマ・ブッダの弟子、孫弟子、ひ孫弟子たちが、
バガヴァット(世尊)のことばを忘れたり、勝手に捏造したりすると考えるのは、
ことインドという場にあっては非常識なのです。
伝統的な仏教文献学は、徹底して消去法を取りますから、
ゴータマ・ブッダの世界は、拠って立つ場所すらもないほど狭く、貧相なものとなります。
そして、その結果として、ゴータマ・ブッダの真説探索において、
驚くほどニヒリスティックな態度を取ります。
中村博士のゴータマ・ブッダ論は、ゴータマ・ブッダ哲学解体論に他なりません。
仏教の開祖の哲学を解体して、何の益があるのでしょうか。
中村博士のように、ゴータマ・ブッダにはまとまった教義がなく、行き当たりばったりに、
人を導いたということだと考えてしまうと、じつに奇っ怪なことになります。
つまり、中村博士説では、法門はたくさんあるけれども、
そのどの門をくぐっても、あたかも映画のセットのように、
そこにあるのはただの空き地だということになるのです。
ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、
いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。
少なからぬ仏教学者は、信じがたい誤った文献学上の方法論を用い、
ゴータマ・ブッダの哲学を解体して無に帰せしめるのにやっきになっています。
そして、彼らは、自分の頭を、
初期仏典に示されているゴータマ・ブッダのことばに合わせようとするのではなく、
逆に、ゴータマ・ブッダのことばを自分の頭に合わせようとし、
合わないで余ってしまったゴータマ・ブッダのことばは、
後世の増広に成るものだと主張します。
このように、都合の悪いことはすべて後世の増広なる架空のことがらに押しつけ、
自分の頭だけによるご都合主義的な解釈をほしいままにするのです。
やたらに増広、増広と叫ぶ仏教学者には、注意してください。
ゴータマ・ブッダは、
身心のいずれも自己ではないという「非我」を説きましたが、
「自己(アートマン、魂)はある」とか、
「自己(アートマン、魂)はない」とか、と語ることは決してありませんでした。
ですから、ゴータマ・ブッダの教えの核心は「無我説」であるという理解は、
完全に間違っているのです。
ですから、仏滅後三百年ほど後に姿を現す理論的な無我説は、
ゴータマ・ブッダの真意が分からなくなった後世の仏教徒の、大いなる勇み足なのです。
「仏教かく始まりき」
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旧来の絶対的権威であった東大仏教学者による、
唯物論的な仏教解釈に正当なる批判を加えています。
氏は、霊的世界には懐疑的な立場ですが、
因習的な仏教学界にあって、果敢に開拓する姿勢は評価されるべきです。
今日、わが国で行われている仏教文献学は、
大正時代から昭和時代にかけて、宇井伯寿博士が確立したものを基礎にしています。
そして、とりわけ初期仏教に関わる仏教文献学を精密化したのは、
宇井博士の愛弟子・中村元博士です。
その文献学は、二本の柱から成っています。
一つは、複数の文献に共通する部分は成立が古く、そうでない部分は、
後世の仏教徒による加筆・挿入(伝統的にこれを「増広」という)であるとする柱、
もう一つは、韻文は成立が古く、散文は成立が新しいとする柱です。
仏教文献学者は、何か自分の頭で不明なところに遭遇すると、
すぐにこの個所は後世の増大に成るものだと、むやみやたらに言いたがります。
しかし、ゴータマ・ブッダの弟子、孫弟子、ひ孫弟子たちが、
バガヴァット(世尊)のことばを忘れたり、勝手に捏造したりすると考えるのは、
ことインドという場にあっては非常識なのです。
伝統的な仏教文献学は、徹底して消去法を取りますから、
ゴータマ・ブッダの世界は、拠って立つ場所すらもないほど狭く、貧相なものとなります。
そして、その結果として、ゴータマ・ブッダの真説探索において、
驚くほどニヒリスティックな態度を取ります。
中村博士のゴータマ・ブッダ論は、ゴータマ・ブッダ哲学解体論に他なりません。
仏教の開祖の哲学を解体して、何の益があるのでしょうか。
中村博士のように、ゴータマ・ブッダにはまとまった教義がなく、行き当たりばったりに、
人を導いたということだと考えてしまうと、じつに奇っ怪なことになります。
つまり、中村博士説では、法門はたくさんあるけれども、
そのどの門をくぐっても、あたかも映画のセットのように、
そこにあるのはただの空き地だということになるのです。
ゴータマ・ブッダの教えには、門ばかりやたらにあって肝心の家がないというのでは、
いったい仏教とはどういう教えなのか、困惑するほかはありません。
少なからぬ仏教学者は、信じがたい誤った文献学上の方法論を用い、
ゴータマ・ブッダの哲学を解体して無に帰せしめるのにやっきになっています。
そして、彼らは、自分の頭を、
初期仏典に示されているゴータマ・ブッダのことばに合わせようとするのではなく、
逆に、ゴータマ・ブッダのことばを自分の頭に合わせようとし、
合わないで余ってしまったゴータマ・ブッダのことばは、
後世の増広に成るものだと主張します。
このように、都合の悪いことはすべて後世の増広なる架空のことがらに押しつけ、
自分の頭だけによるご都合主義的な解釈をほしいままにするのです。
やたらに増広、増広と叫ぶ仏教学者には、注意してください。
ゴータマ・ブッダは、
身心のいずれも自己ではないという「非我」を説きましたが、
「自己(アートマン、魂)はある」とか、
「自己(アートマン、魂)はない」とか、と語ることは決してありませんでした。
ですから、ゴータマ・ブッダの教えの核心は「無我説」であるという理解は、
完全に間違っているのです。
ですから、仏滅後三百年ほど後に姿を現す理論的な無我説は、
ゴータマ・ブッダの真意が分からなくなった後世の仏教徒の、大いなる勇み足なのです。
「仏教かく始まりき」



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2008.10.27
人生山あり谷あり
人間、生きている限りいろんな苦難に直面せざるを得ません。
それは、病気であったり、深刻な挫折であったり、
仕事の失敗であったり、肉親との死別であったり。
誰にでも、
自分の能力の限界を感じ、失意の底に沈み、人生の道を見失ってしまうことはあります。
その実存の危機、霊的な苦痛を経験している間は、
出口が見えず、その苦しみには終りが無いように感じます。
しかし、それは必ず乗り越えることが出来ます。
その挫折や、危機を経験することで、魂は学習しているのです。
そこにもまた、神仏の巧妙な仕組みが働いています。
われわれの内面において神仏の光と出会う時、魂は復活するのです。
その光は、新たな気づき、叡智、勇気、生きるための糧を与えてくれます。
神仏は、私達を決して見捨てることはありません。
われわれが、人生で遭遇する試練は、
実は、魂の成長を助けてくれる貴重な贈りものです。
人生に無意味なことなど、何一つ無いのですから。
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それは、病気であったり、深刻な挫折であったり、
仕事の失敗であったり、肉親との死別であったり。
誰にでも、
自分の能力の限界を感じ、失意の底に沈み、人生の道を見失ってしまうことはあります。
その実存の危機、霊的な苦痛を経験している間は、
出口が見えず、その苦しみには終りが無いように感じます。
しかし、それは必ず乗り越えることが出来ます。
その挫折や、危機を経験することで、魂は学習しているのです。
そこにもまた、神仏の巧妙な仕組みが働いています。
われわれの内面において神仏の光と出会う時、魂は復活するのです。
その光は、新たな気づき、叡智、勇気、生きるための糧を与えてくれます。
神仏は、私達を決して見捨てることはありません。
われわれが、人生で遭遇する試練は、
実は、魂の成長を助けてくれる貴重な贈りものです。
人生に無意味なことなど、何一つ無いのですから。



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2008.10.27
東洋思想としての仏教
本来、唯物主義的な考え方は東洋には馴染みません。
東洋的神秘主義、静寂主義といわれるように、ものは幻であると見てきたのです。
また、東洋では、
ものごとを細分化し分析するのではなく、全体的、直感的に把握してきました。
しかし、現代においては、このような態度は非科学的であるとみなされます。
われわれは、
西洋流の物質科学に圧倒され、いつからか東洋人としての魂を忘れています。
仏教というのは、もともと東洋思想です。
不思議なことに、
東洋主義者であるはずの仏教学者の大半が、
唯物主義こそが絶対的真理である、という立場をとっているようです。
そのせいで、現代では仏教の真意が過度に歪められているのです。
ところが西洋では、唯物主義の誤りが修正されつつあり、
東洋思想を正当に評価しはじめている、という逆転現象が始まっています。
仏教思想の一つの基本となっている言葉として、「アニッカ」(無常)がある。
意味は、この形ある物質の世界が、
仮の世、束の間の姿、消滅してゆく万物である事を現している。
事実、釈迦にとって全ての物事は、変化して諸行無常であり、
全てがやがては消滅してゆくものである事の虚しさが苦しみであった。
しかし、悟った釈迦は、全てが現れ消えてゆく変化こそ、
素晴らしい生存の喜びと味わいであると説き、
生も死も、全ての変化無常を喜びと感動で受け取るようになったのであった。
釈迦は、変化し消え去ってゆく物質現象界に執着する事を戒めた。
人や物事に執着すると、やがて消滅して失う時に苦しみになる。
だからこの世の物質現象界の一切の物事に執着する事を止めよ、と説いたのであった。
この事は仏教の悟りの基本的な教えとなっている。
古い仏教の教典のランカヴァートラ・スートラ(入楞伽経)には興味深い譬えが出ている。
「この世の事柄は、全て砂漠の蜃気楼の如きものなり。夢の如き実体のなきものなり。
或いは、山のこだまの如きものなり。湖水に映った樹木の如きものなり。
眼病を患って錯覚を見ている如きものなり。
人々は自己の観念や気持ちのフィルターを通して外観を捉えているのだ。」と教えている。
キリスト教では異端・誤りとされて重視されなかったこの様な考え方が、
東洋の古い宗教の中には説かれており、
現代の科学的知識をもってやっと明らかになった様な観念が、
古代、既に理解されていたという事実は驚異的な事である。
更に驚くべき事は、古代の人々が既にこの様な思想を精神的信条として、
人生観や哲学的思想や宗教的シンボルとして見事にとり入れている事である。
この様な事実は、西洋人から言わせれば、全く驚異的な事という以外にない。
この様な観念を説いた古代の始祖達が正しいとするならば、
この始祖達が説いた教えの他の部分も正しいとは言えないだろうか?
始祖達が、自然の変化の過程、エネルギー、自然の原理や、
私達の観念の錯覚などを正しく説いているならば、彼らが、
テレパシー、透視力、輪廻転生などの事柄を説いた事も正しいのではないだろうか。
これらは現代において、超心理学などでやっと研究が始まった事柄なのである。
ジャイナ教、ヒンズー教、仏教などの宗教では、悟りを得る為の能力開発として、
テレパシーや透視力が認められてきた。
禅の瞑想やヨガの修行は、これらの能力の開発発展につながると言われている。
そして輪廻転生の思想は、
東洋の宗教では、基本的な世界観や倫理観となっているのである。
これら三つの事柄(テレパシー・透視力・輪廻転生)を学問的に探究する事によって、
心理学や宗教問題の多くの面に、素晴らしい結果をもたらす事になるであろう。
ジナ・サーミナラ「神の理性」
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東洋的神秘主義、静寂主義といわれるように、ものは幻であると見てきたのです。
また、東洋では、
ものごとを細分化し分析するのではなく、全体的、直感的に把握してきました。
しかし、現代においては、このような態度は非科学的であるとみなされます。
われわれは、
西洋流の物質科学に圧倒され、いつからか東洋人としての魂を忘れています。
仏教というのは、もともと東洋思想です。
不思議なことに、
東洋主義者であるはずの仏教学者の大半が、
唯物主義こそが絶対的真理である、という立場をとっているようです。
そのせいで、現代では仏教の真意が過度に歪められているのです。
ところが西洋では、唯物主義の誤りが修正されつつあり、
東洋思想を正当に評価しはじめている、という逆転現象が始まっています。
仏教思想の一つの基本となっている言葉として、「アニッカ」(無常)がある。
意味は、この形ある物質の世界が、
仮の世、束の間の姿、消滅してゆく万物である事を現している。
事実、釈迦にとって全ての物事は、変化して諸行無常であり、
全てがやがては消滅してゆくものである事の虚しさが苦しみであった。
しかし、悟った釈迦は、全てが現れ消えてゆく変化こそ、
素晴らしい生存の喜びと味わいであると説き、
生も死も、全ての変化無常を喜びと感動で受け取るようになったのであった。
釈迦は、変化し消え去ってゆく物質現象界に執着する事を戒めた。
人や物事に執着すると、やがて消滅して失う時に苦しみになる。
だからこの世の物質現象界の一切の物事に執着する事を止めよ、と説いたのであった。
この事は仏教の悟りの基本的な教えとなっている。
古い仏教の教典のランカヴァートラ・スートラ(入楞伽経)には興味深い譬えが出ている。
「この世の事柄は、全て砂漠の蜃気楼の如きものなり。夢の如き実体のなきものなり。
或いは、山のこだまの如きものなり。湖水に映った樹木の如きものなり。
眼病を患って錯覚を見ている如きものなり。
人々は自己の観念や気持ちのフィルターを通して外観を捉えているのだ。」と教えている。
キリスト教では異端・誤りとされて重視されなかったこの様な考え方が、
東洋の古い宗教の中には説かれており、
現代の科学的知識をもってやっと明らかになった様な観念が、
古代、既に理解されていたという事実は驚異的な事である。
更に驚くべき事は、古代の人々が既にこの様な思想を精神的信条として、
人生観や哲学的思想や宗教的シンボルとして見事にとり入れている事である。
この様な事実は、西洋人から言わせれば、全く驚異的な事という以外にない。
この様な観念を説いた古代の始祖達が正しいとするならば、
この始祖達が説いた教えの他の部分も正しいとは言えないだろうか?
始祖達が、自然の変化の過程、エネルギー、自然の原理や、
私達の観念の錯覚などを正しく説いているならば、彼らが、
テレパシー、透視力、輪廻転生などの事柄を説いた事も正しいのではないだろうか。
これらは現代において、超心理学などでやっと研究が始まった事柄なのである。
ジャイナ教、ヒンズー教、仏教などの宗教では、悟りを得る為の能力開発として、
テレパシーや透視力が認められてきた。
禅の瞑想やヨガの修行は、これらの能力の開発発展につながると言われている。
そして輪廻転生の思想は、
東洋の宗教では、基本的な世界観や倫理観となっているのである。
これら三つの事柄(テレパシー・透視力・輪廻転生)を学問的に探究する事によって、
心理学や宗教問題の多くの面に、素晴らしい結果をもたらす事になるであろう。
ジナ・サーミナラ「神の理性」



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2008.10.27
コールは起こった
2008.10.27
宗教の統合
「肉の塊が、ものを考えるのだ。」
「神は、妄想である。」
「大宇宙には、われわれしか高等生物は存在しない。」
「神は、われわれのみを愛しておられる。」
「我の信ずる宗教こそのみが正しいのだ。」
地球では、このような奇妙な主張がまかり通っています。
そして、このことが争いの原因になってもいます。
この星は、とても滑稽で、ある意味ではまだまだ遅れているようです。
先ず、あなたは他の惑星に住む宇宙人で、地球人類を調査する為に、
UFOの様な宇宙船に乗って地球にやって来たと仮定してみよう。
地球人類の文明や文化を調べる為に色々な装置をもって来ているので、
あなたは地球人の色々な言葉を上手に話すことが出来、
地球人に怪しまれる事なしに調査が出来ると仮定してみよう。
少し調査を始めてあなたが一番びっくりする事は、
地球の人々が信仰している様々な宗教宗派の建築物の違いであろう。
あなたがびっくりする理由はこうである。
地球人達は科学的事柄については一致している。
地球人達の道路、自動車や飛行機、軍隊の組織や核兵器、
電話、テレビ、ラジオなどは殆ど基本的に同じである。
地球人達の数学・化学・物理学・科学技術などの原理は基本的にみな一致しており、
世界的に共通な概念があるのだ。
にも拘らず、生きる事に対して、
科学と同様に大切な信仰と宗教に関しては、全くばらばらなのである。
地球人達の信仰や宗教には、彼等の科学的知識とは反対に、
不一致、対立、争い、敵意などがあるのだ。
しかも奇妙な事には、宗教の教えの基本はみな同胞愛を説いているのである。
だから、あなたが不可解になるのも無理はない。
この事を考えれば考える程、不可解になったあなたは、
ついにもう少し地球に留まって詳しい調査をさせてもらうよう、
期間の延長の許可を宇宙本部に要請するであろう。
そして、地球時間で一年間の調査延長の許可がおりたとしよう。
さあ、あなたはこの問題を専門に調べ始めるのである。
あなたは地球人達の色々な言葉を上手に話すように少し訓練してから、
地球人と同様な姿で地球上の色々な場所に現れ、
次の様な質問から調査を始めるのである。「あなたの宗教は何ですか?」。
予期していたように、その答えは全く様々である。
仏教、カトリック、プロテスタントのキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、
神道、ゾロアスター教、ジャイナ教などアイウエオ順に名前を書いたとしても、
すぐに700以上の地球の宗教宗派の名前でノートは埋まってしまうであろう。
例えば、日本の新興宗教だけで171以上もあるだ!
この様な事はあなたにとっては全くの驚異なのだ。
何故なら、あなたの住んでいる惑星や、その他の宇宙の進んだ星では、
神や宗教の観念は一つであり、信仰に対しては、
全て共通な観念をもっているのが常識だからである。
地球に住んでいるある人達は自分達は無神論者だ、と言う。
そしてどの宗教にも属していない、と言う。又ある人々は言う。
神は信じるけれど宗教宗派や神社仏閣で説いている非科学的な事は受け入れられない。
大自然の事実に反する宗教的矛盾は受け入れられない、
と言って自分達流の価値観をもって生きようとしている。
更に又、ヒッピーの様な人々は言う。
LSDやその他の麻薬を使用すると神を感じたり人類愛を感じられるようになると…。
しかし、自らが自らの確固たる信仰と霊的観念をもって、
宗教宗派に影響されずに生きてゆける地球の人間は、
本当にごく少数しかいない事を、あなたは発見するであろう。
それに比べて地球の大部分の大衆は、
何らかの集団や宗教宗派に属して生きているのである。
地球の大多数の人々は、自分が属している宗教宗派に対する信仰の為に、
沢山のお金をかけて色々と違った宗教的建造物を作っているのである。
この事は地球に来たあなたを最初に一番びっくりさせた事柄だったのである。
「あなたが信仰している宗教の教えはどのようなものですか?」という第二の質問に対して、
地球人達は自分達のそれぞれの宗教について得々として説明をしてくれるであろう。
そこであなたは地球上の宗教的教えの類似性と相違性に又、驚きを持つのである。
全ての宗教の教えの共通面は隣人愛・同胞愛であり、
世の為、人の為に正しく生きる事を基本的に説いている。
一方、その宗教の教祖の事や聖典の事となると、
自分達だけが唯一絶対のものであると信じて譲らない。
教祖が処女降誕だとか、母親の脇の下から生まれ立ち上がって天上天下を指さしたとか、
考え方が全くバラバラで途方もなく異なっているのである。
そこで第三の質問、「あなたはどうしてこの宗教を信仰する様になったのですか?」。
ある人達は親がやっていたからだと答える。
又、ある人達は本や聖書を読んだからだと言う。
更に、又ある人達は年寄、神主、牧師、宣教師、
僧侶、説教師などから導かれたと答えるであろう。
しかし、どんなに様々な答えが出ようとも、
全てに共通している事柄をあなたは発見するであろう。
それは、地球人の信仰と宗教は、必ず誰か他の人に教えられたものだという事である。
但し、ごく少数の人達、
自らが自らの確固たる信仰と霊的観念を持って生きている人達だけは別である。
すると、あなたの心の中には次の様な色々の質問が湧いてくるであろう。
「親の信仰が正しいとどうして分かりますか?」
「あなたを導いた宗教家は本当に悟っていたのですか?」
「あなたが読んだ本や聖典は本当に全てが正しいとどうして分かりますか?」
「あなたは本当に説教者の言う内容を理解してその宗教に入ったのですか?」
「あなたが真剣に読んでいる聖典・聖書の内容は、
正確に大自然の真理や事実に合っているのでしょうか?」等々。
しかし、あなたはこの様な質問を地球人達にするのをすぐやめてしまう事になる。
あなたがどんなに穏やかに、丁重に、冷静にこの様な事を聞いたとしても、
地球人達はすぐに故意や争いの態度を示すのだ。
あなたには相手を批判したり攻撃したりする気持ちは全くなかったとしても、
地球人達は敵意を抱き対立的になるからである。
冷静に客観的にこれらの質問に答えてくれる思慮深い地球人は稀にしかいない。
だから、あなたは地球人達の宗教や信仰の信頼性や正しさを、
彼等に質問する事をやめてしまうのである。
とは言え、あなたはこれらの事から幾つかの大切な地球人の特性を学べるのである。
その一つは、地球人達の大多数は、
自分達が持っている知識の根拠や正しさを確かめようとはしないという事である。
特に宗教的事柄に関してこの傾向は著しく現れている。
先ずあなたが地球人の性格として見たものは、理知的面と道徳面の混乱であろう。
信仰を持っている筈の大勢の人々の経済恐慌・倒産などの時に示す道徳的荒廃である。
暴力・犯罪・怠惰・自殺・麻薬・暴動・破壊などの地球人達の行動である。
彼等は敬虔なる信仰を持っていると公言するが、
それは建前論であって実際の信仰心は少ないのである。
又、ある人達は本当に信仰心を持っているが、間違ったり迷ったりした盲信なのである。
だから地球人達の信念とは真実と間違い、
真珠とまがい物が奇妙に入り混じったものだと、あなたは思うのである。
物質的、経済的貪欲と核兵器による軍事的エスカレート、そして科学技術力の発達が、
このままでは地球を破壊してしまう危険性を、あなたは認識するであろう。
大自然の摂理に沿った真の精神的教えが現れなければ救われないのである。
あなたには、その様な真の教えの根源が、生命的・霊的な高次元の世界にあり、
地球より遥かに進んだ星では、
生命的・霊的高次元の教えが当然である事が分かっているのである。
大自然の真理法則に沿ったその様な教えは、何世紀にもわたって積み重ねられて来た、
地球人の宗教的錯覚や誤りをぬぐい去るものであり、
それには、先ず地球人達が次の三つの原則を受け入れる必要があるのだ。
一、宗教に対しても科学的方法を当てはめる事は、必要であり有効な事である。
二、宗教的知識や教義に対しても、
その真偽を根源から科学的に調べる事は、他の知識と同様に大切である。
三、宗教的知識や教義も、他の知識情報と同様に、
コミュニケーションのプロセスによって得られたものであるから、
伝達過程を調査してその信頼性を確かめねばならない。
誠に残念ながら、あなたの一年間の特別期間はここで切れてしまい、
あなたは地球人に何もしてあげられず、他の星の調査に行かねばならなくなった。
あなたは気が進まぬままにしぶしぶ地球を去っていく。
地球の未来に多少の不安と心配を抱きつつ…。
小さな惑星地球ではこの宇宙人の様に冷静に、客観的に、
偏見を持たずに宗教問題を捉える人はごく少数である。
しかし、一方で人々の精神的めざめは少しずつ始まっており、宗教の危機を感じ、
何かをしなければならない、という気持ちが宗教人の間からも出始めている。
多くの人々が人種的、社会的偏見の宗教的悪癖を取り去る事を求め、
自分達の宗教行動のより良き統合化に努力し始めたのである。
人類の宗教観の大いなる転換発展の為の、
新しい指導者による新しき萌芽が現れつつあるのだ。
ジナ・サーミナラ「神の理性」
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「神は、妄想である。」
「大宇宙には、われわれしか高等生物は存在しない。」
「神は、われわれのみを愛しておられる。」
「我の信ずる宗教こそのみが正しいのだ。」
地球では、このような奇妙な主張がまかり通っています。
そして、このことが争いの原因になってもいます。
この星は、とても滑稽で、ある意味ではまだまだ遅れているようです。
先ず、あなたは他の惑星に住む宇宙人で、地球人類を調査する為に、
UFOの様な宇宙船に乗って地球にやって来たと仮定してみよう。
地球人類の文明や文化を調べる為に色々な装置をもって来ているので、
あなたは地球人の色々な言葉を上手に話すことが出来、
地球人に怪しまれる事なしに調査が出来ると仮定してみよう。
少し調査を始めてあなたが一番びっくりする事は、
地球の人々が信仰している様々な宗教宗派の建築物の違いであろう。
あなたがびっくりする理由はこうである。
地球人達は科学的事柄については一致している。
地球人達の道路、自動車や飛行機、軍隊の組織や核兵器、
電話、テレビ、ラジオなどは殆ど基本的に同じである。
地球人達の数学・化学・物理学・科学技術などの原理は基本的にみな一致しており、
世界的に共通な概念があるのだ。
にも拘らず、生きる事に対して、
科学と同様に大切な信仰と宗教に関しては、全くばらばらなのである。
地球人達の信仰や宗教には、彼等の科学的知識とは反対に、
不一致、対立、争い、敵意などがあるのだ。
しかも奇妙な事には、宗教の教えの基本はみな同胞愛を説いているのである。
だから、あなたが不可解になるのも無理はない。
この事を考えれば考える程、不可解になったあなたは、
ついにもう少し地球に留まって詳しい調査をさせてもらうよう、
期間の延長の許可を宇宙本部に要請するであろう。
そして、地球時間で一年間の調査延長の許可がおりたとしよう。
さあ、あなたはこの問題を専門に調べ始めるのである。
あなたは地球人達の色々な言葉を上手に話すように少し訓練してから、
地球人と同様な姿で地球上の色々な場所に現れ、
次の様な質問から調査を始めるのである。「あなたの宗教は何ですか?」。
予期していたように、その答えは全く様々である。
仏教、カトリック、プロテスタントのキリスト教、イスラム教、ヒンズー教、
神道、ゾロアスター教、ジャイナ教などアイウエオ順に名前を書いたとしても、
すぐに700以上の地球の宗教宗派の名前でノートは埋まってしまうであろう。
例えば、日本の新興宗教だけで171以上もあるだ!
この様な事はあなたにとっては全くの驚異なのだ。
何故なら、あなたの住んでいる惑星や、その他の宇宙の進んだ星では、
神や宗教の観念は一つであり、信仰に対しては、
全て共通な観念をもっているのが常識だからである。
地球に住んでいるある人達は自分達は無神論者だ、と言う。
そしてどの宗教にも属していない、と言う。又ある人々は言う。
神は信じるけれど宗教宗派や神社仏閣で説いている非科学的な事は受け入れられない。
大自然の事実に反する宗教的矛盾は受け入れられない、
と言って自分達流の価値観をもって生きようとしている。
更に又、ヒッピーの様な人々は言う。
LSDやその他の麻薬を使用すると神を感じたり人類愛を感じられるようになると…。
しかし、自らが自らの確固たる信仰と霊的観念をもって、
宗教宗派に影響されずに生きてゆける地球の人間は、
本当にごく少数しかいない事を、あなたは発見するであろう。
それに比べて地球の大部分の大衆は、
何らかの集団や宗教宗派に属して生きているのである。
地球の大多数の人々は、自分が属している宗教宗派に対する信仰の為に、
沢山のお金をかけて色々と違った宗教的建造物を作っているのである。
この事は地球に来たあなたを最初に一番びっくりさせた事柄だったのである。
「あなたが信仰している宗教の教えはどのようなものですか?」という第二の質問に対して、
地球人達は自分達のそれぞれの宗教について得々として説明をしてくれるであろう。
そこであなたは地球上の宗教的教えの類似性と相違性に又、驚きを持つのである。
全ての宗教の教えの共通面は隣人愛・同胞愛であり、
世の為、人の為に正しく生きる事を基本的に説いている。
一方、その宗教の教祖の事や聖典の事となると、
自分達だけが唯一絶対のものであると信じて譲らない。
教祖が処女降誕だとか、母親の脇の下から生まれ立ち上がって天上天下を指さしたとか、
考え方が全くバラバラで途方もなく異なっているのである。
そこで第三の質問、「あなたはどうしてこの宗教を信仰する様になったのですか?」。
ある人達は親がやっていたからだと答える。
又、ある人達は本や聖書を読んだからだと言う。
更に、又ある人達は年寄、神主、牧師、宣教師、
僧侶、説教師などから導かれたと答えるであろう。
しかし、どんなに様々な答えが出ようとも、
全てに共通している事柄をあなたは発見するであろう。
それは、地球人の信仰と宗教は、必ず誰か他の人に教えられたものだという事である。
但し、ごく少数の人達、
自らが自らの確固たる信仰と霊的観念を持って生きている人達だけは別である。
すると、あなたの心の中には次の様な色々の質問が湧いてくるであろう。
「親の信仰が正しいとどうして分かりますか?」
「あなたを導いた宗教家は本当に悟っていたのですか?」
「あなたが読んだ本や聖典は本当に全てが正しいとどうして分かりますか?」
「あなたは本当に説教者の言う内容を理解してその宗教に入ったのですか?」
「あなたが真剣に読んでいる聖典・聖書の内容は、
正確に大自然の真理や事実に合っているのでしょうか?」等々。
しかし、あなたはこの様な質問を地球人達にするのをすぐやめてしまう事になる。
あなたがどんなに穏やかに、丁重に、冷静にこの様な事を聞いたとしても、
地球人達はすぐに故意や争いの態度を示すのだ。
あなたには相手を批判したり攻撃したりする気持ちは全くなかったとしても、
地球人達は敵意を抱き対立的になるからである。
冷静に客観的にこれらの質問に答えてくれる思慮深い地球人は稀にしかいない。
だから、あなたは地球人達の宗教や信仰の信頼性や正しさを、
彼等に質問する事をやめてしまうのである。
とは言え、あなたはこれらの事から幾つかの大切な地球人の特性を学べるのである。
その一つは、地球人達の大多数は、
自分達が持っている知識の根拠や正しさを確かめようとはしないという事である。
特に宗教的事柄に関してこの傾向は著しく現れている。
先ずあなたが地球人の性格として見たものは、理知的面と道徳面の混乱であろう。
信仰を持っている筈の大勢の人々の経済恐慌・倒産などの時に示す道徳的荒廃である。
暴力・犯罪・怠惰・自殺・麻薬・暴動・破壊などの地球人達の行動である。
彼等は敬虔なる信仰を持っていると公言するが、
それは建前論であって実際の信仰心は少ないのである。
又、ある人達は本当に信仰心を持っているが、間違ったり迷ったりした盲信なのである。
だから地球人達の信念とは真実と間違い、
真珠とまがい物が奇妙に入り混じったものだと、あなたは思うのである。
物質的、経済的貪欲と核兵器による軍事的エスカレート、そして科学技術力の発達が、
このままでは地球を破壊してしまう危険性を、あなたは認識するであろう。
大自然の摂理に沿った真の精神的教えが現れなければ救われないのである。
あなたには、その様な真の教えの根源が、生命的・霊的な高次元の世界にあり、
地球より遥かに進んだ星では、
生命的・霊的高次元の教えが当然である事が分かっているのである。
大自然の真理法則に沿ったその様な教えは、何世紀にもわたって積み重ねられて来た、
地球人の宗教的錯覚や誤りをぬぐい去るものであり、
それには、先ず地球人達が次の三つの原則を受け入れる必要があるのだ。
一、宗教に対しても科学的方法を当てはめる事は、必要であり有効な事である。
二、宗教的知識や教義に対しても、
その真偽を根源から科学的に調べる事は、他の知識と同様に大切である。
三、宗教的知識や教義も、他の知識情報と同様に、
コミュニケーションのプロセスによって得られたものであるから、
伝達過程を調査してその信頼性を確かめねばならない。
誠に残念ながら、あなたの一年間の特別期間はここで切れてしまい、
あなたは地球人に何もしてあげられず、他の星の調査に行かねばならなくなった。
あなたは気が進まぬままにしぶしぶ地球を去っていく。
地球の未来に多少の不安と心配を抱きつつ…。
小さな惑星地球ではこの宇宙人の様に冷静に、客観的に、
偏見を持たずに宗教問題を捉える人はごく少数である。
しかし、一方で人々の精神的めざめは少しずつ始まっており、宗教の危機を感じ、
何かをしなければならない、という気持ちが宗教人の間からも出始めている。
多くの人々が人種的、社会的偏見の宗教的悪癖を取り去る事を求め、
自分達の宗教行動のより良き統合化に努力し始めたのである。
人類の宗教観の大いなる転換発展の為の、
新しい指導者による新しき萌芽が現れつつあるのだ。
ジナ・サーミナラ「神の理性」



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