2008.11.27
心の中の宇宙
地球上には未踏の地は殆どありません。
我々は、宇宙船を飛ばして、他惑星さえ探索しています。
しかし、無限の霊的世界はまだまだ未発見のままです。
心の中の宇宙は広大で、時空を超えて全てと繋がっています。
お釈迦さまは、この内的世界を把握し、悟りを開かれました。
物質主義に汚染された現代仏教は、目覚めなければなりません。
心の中の宝庫には、パーラミターの智慧が眠っているのです。
人類の霊的な冒険は、始まったばかりです。
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我々は、宇宙船を飛ばして、他惑星さえ探索しています。
しかし、無限の霊的世界はまだまだ未発見のままです。
心の中の宇宙は広大で、時空を超えて全てと繋がっています。
お釈迦さまは、この内的世界を把握し、悟りを開かれました。
物質主義に汚染された現代仏教は、目覚めなければなりません。
心の中の宝庫には、パーラミターの智慧が眠っているのです。
人類の霊的な冒険は、始まったばかりです。



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2008.11.27
イエスと瞑想
瞑想は何の為に行うのか、どういう意義があるのか、
という問いに現代の唯脳論的立場からは、答えることは出来ません。
ヨガも禅定もメディテーションも霊的成長には不可欠な行です。
仏教でもキリスト教でも、それは同じことなのです。
キリスト教徒であっても、神に達したいと願う探求者であれば、
仏教徒とほとんど変わるところはありません。
どちらも、その人自身の意識へと導かれています。
しかし、イエスの置かれている文化的背景は、
ブッダの場合のような瞑想の伝統ではありませんでした。
イエスは、祈り、信仰、認識を強調しました。
聖書の中には、イエスが弟子たちを瞑想の実践に導いた証拠はありません。
ユダヤ教の伝統と調和するのは、むしろ礼拝の方でした。
しかし、イエスを「伝統的人間」というふうに描いてしまうと、イエスがたびたび、
「神がどこにいるか知っている」と言う者たちを叱責しているのを無視することになります。
イエスの見るところ、
「神がどこにいるかは神秘であって、知的に考えているだけでは知り得ない」のです。
これは「悟り」と調和します。
悟りとは、単に内面的でも外面的でもなく、その両方であるような変容のことです。
こうした変容においては、現実を「こちら」と「あちら」に分かつ境界線は曖昧となり、
ぼやけ、最終的には消滅します。
現実が二元性から統一性へと変わるのです。
これが起こると、内面的事象と外的事象との関係が根本的に変化します。
結局のところ、奇跡とは精神の意図に従属させられた外界にほかなりません。
イエスを導師(グル)の同類と見なすことは可能でしょうか?
この見方には、確かに心を動かすものがあります。
内的変容に関する最も詳細な知識はインドに生まれ、
イエスの何千年も前まで遡る歴史を有しているからです。
イエスの思想とヴェーダの伝統を関連づける研究もあります。
また、イエスがインドを訪れていた、
あるいはインドの商人と接触をもっていた可能性を指摘する見解もたくさん存在します。
内面生活についてのイエスの教えははっきりしません。
福音書記者はこの領域に広大な空白を残しました。
彼らと初期教会の教父たちのおかげで、そのあとキリスト教は、
自己変容より礼拝を、瞑想より祈りを、内面的成長より信仰を重視することになりました。
しかし、一つだけはっきりしていることがあります。
イエスはこう明言します。
「普通の人が天の国に入るためには、ある種の内面的な大変革が生じる必要がある」と。
ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」
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という問いに現代の唯脳論的立場からは、答えることは出来ません。
ヨガも禅定もメディテーションも霊的成長には不可欠な行です。
仏教でもキリスト教でも、それは同じことなのです。
キリスト教徒であっても、神に達したいと願う探求者であれば、
仏教徒とほとんど変わるところはありません。
どちらも、その人自身の意識へと導かれています。
しかし、イエスの置かれている文化的背景は、
ブッダの場合のような瞑想の伝統ではありませんでした。
イエスは、祈り、信仰、認識を強調しました。
聖書の中には、イエスが弟子たちを瞑想の実践に導いた証拠はありません。
ユダヤ教の伝統と調和するのは、むしろ礼拝の方でした。
しかし、イエスを「伝統的人間」というふうに描いてしまうと、イエスがたびたび、
「神がどこにいるか知っている」と言う者たちを叱責しているのを無視することになります。
イエスの見るところ、
「神がどこにいるかは神秘であって、知的に考えているだけでは知り得ない」のです。
これは「悟り」と調和します。
悟りとは、単に内面的でも外面的でもなく、その両方であるような変容のことです。
こうした変容においては、現実を「こちら」と「あちら」に分かつ境界線は曖昧となり、
ぼやけ、最終的には消滅します。
現実が二元性から統一性へと変わるのです。
これが起こると、内面的事象と外的事象との関係が根本的に変化します。
結局のところ、奇跡とは精神の意図に従属させられた外界にほかなりません。
イエスを導師(グル)の同類と見なすことは可能でしょうか?
この見方には、確かに心を動かすものがあります。
内的変容に関する最も詳細な知識はインドに生まれ、
イエスの何千年も前まで遡る歴史を有しているからです。
イエスの思想とヴェーダの伝統を関連づける研究もあります。
また、イエスがインドを訪れていた、
あるいはインドの商人と接触をもっていた可能性を指摘する見解もたくさん存在します。
内面生活についてのイエスの教えははっきりしません。
福音書記者はこの領域に広大な空白を残しました。
彼らと初期教会の教父たちのおかげで、そのあとキリスト教は、
自己変容より礼拝を、瞑想より祈りを、内面的成長より信仰を重視することになりました。
しかし、一つだけはっきりしていることがあります。
イエスはこう明言します。
「普通の人が天の国に入るためには、ある種の内面的な大変革が生じる必要がある」と。
ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」



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2008.11.26
開かれた霊知
聖職者達は、宗教知識を自分達の特権とし、
為政者達は、霊知(グノーシス)を民衆から遠ざけてきました。
一人一人が力を持つことを恐れて。
親は、子供時分の夢は実現不可能であること、
人間には奇跡は起こせないことを教え込みます。
こうして、大人になるにつれて、現実はかくも色あせてしまいます。
しかし、奇跡は存在するのであり、私達は誰でも神を見ることが出来ます。
人間は、神秘的直観力、霊能力、宗教的能力を持っています。
誰にでも、神への認識が深まる特別な瞬間があるものです。
神を知るには、苦行や隠遁行は必要ありません。
もっと穏やかで普通の方法で、それは可能なのです。
現代のビジネス社会においても有用であるはずです。
その為にこそ、八正道があります。
正しく見、正しく語り、正しく生活し、正しく仕事し、
正しく思い、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入る。
正しさの探求は、神の探求に他なりません。
そして、神を知ることこそが、悟りと言われるものなのです。
現代には、悟りに至るための法が説かれ、すでに霊知は万人に開かれているのです。
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為政者達は、霊知(グノーシス)を民衆から遠ざけてきました。
一人一人が力を持つことを恐れて。
親は、子供時分の夢は実現不可能であること、
人間には奇跡は起こせないことを教え込みます。
こうして、大人になるにつれて、現実はかくも色あせてしまいます。
しかし、奇跡は存在するのであり、私達は誰でも神を見ることが出来ます。
人間は、神秘的直観力、霊能力、宗教的能力を持っています。
誰にでも、神への認識が深まる特別な瞬間があるものです。
神を知るには、苦行や隠遁行は必要ありません。
もっと穏やかで普通の方法で、それは可能なのです。
現代のビジネス社会においても有用であるはずです。
その為にこそ、八正道があります。
正しく見、正しく語り、正しく生活し、正しく仕事し、
正しく思い、正しく精進し、正しく念じ、正しく定に入る。
正しさの探求は、神の探求に他なりません。
そして、神を知ることこそが、悟りと言われるものなのです。
現代には、悟りに至るための法が説かれ、すでに霊知は万人に開かれているのです。



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2008.11.26
光の中を歩む
闇よりも光を見ていこう。
勇気を持って、光の中を歩んでいこう。
大人は子供達の為にも、未来への希望を語りましょう。
マスコミが創り出す暗い世相はにせものです。
ジャパニーズドリームは、すでに始まっています。
ヘルメスの発展の精神とブッダの悟りの智慧。
この潮流が、今後の世界を牽引していくのです。
神がいるのならば、世界は何故こんなにも残酷なのか?
その答えは、我々が世界を無慈悲なものだと認識しているからです。
我々一人一人には、神と同様の自由意志と創造力が与えられているということです。
何を見ていくかによって、世界は一変します。
世界を変えるのは、我々一人一人の思いと行動です。
本来、光に勝てる闇など、存在しないのです。
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ福音書)
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勇気を持って、光の中を歩んでいこう。
大人は子供達の為にも、未来への希望を語りましょう。
マスコミが創り出す暗い世相はにせものです。
ジャパニーズドリームは、すでに始まっています。
ヘルメスの発展の精神とブッダの悟りの智慧。
この潮流が、今後の世界を牽引していくのです。
神がいるのならば、世界は何故こんなにも残酷なのか?
その答えは、我々が世界を無慈悲なものだと認識しているからです。
我々一人一人には、神と同様の自由意志と創造力が与えられているということです。
何を見ていくかによって、世界は一変します。
世界を変えるのは、我々一人一人の思いと行動です。
本来、光に勝てる闇など、存在しないのです。
「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ福音書)



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2008.11.26
不滅の業
地獄の描写においては、源信僧都の「往生要集」が有名ですが、
お釈迦さまも、はっきりとこの様子を説かれています。
原始仏典では、
行為の善悪により、肉体の滅後は、地獄・畜生・餓鬼・人界・天界に赴くとされ、
その輪廻には、識(vinnana)が重要な役割りを果たしています。
けだし何者のカルマも滅びることはない。
それは、必ずもどってきて、カルマをつくった主がそれを受ける。
愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
地獄に堕ちた者は、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。
さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、
それは、つくったカルマにふさわしい当然なことである。
地獄の獄卒どもは、「捕らえよ」「打て」などといって、誰もやさしいことばをかけることなく、
温顔をもって向ってくることなく、頼りになってくれない。
地獄に堕ちた者どもは、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。
またそこでは、地獄の獄卒どもは、鉄の網をもって、
地獄に堕ちた者どもをからめとり、鉄槌をもって打つ。
さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。
また次に、地獄に堕ちた者どもは、火炎があまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。
火の燃え盛るそれらの釜の中で、永いあいだ煮られて、浮き沈みする。
また、膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
かれが、その釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、血と膿に触れて汚される。
また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
出ようにも、つかむベき縁がない。
その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。
また鋭い剣の葉のついた林があり、地獄に堕ちた者どもが、その中に入ると手足を切断される。
地獄の獄卒どもは、鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。
また次に、地獄に堕ちた者どもは、超え難いヴェータラニー河に至る。
その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。
愚かな輩は、悪いことをして罪を犯しては、そこに陥る。
そこには黒犬や斑犬や、黒烏の群や野狐がいて、
泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。
また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。
罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちに、
なすべきことをなして、ゆるがせにしてはならない。
ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、
その間は地獄にとどまらねばならない。
それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、
常に言葉と心をつつしむべきである。
パーリ原始仏典小部「スッタニパータ」
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お釈迦さまも、はっきりとこの様子を説かれています。
原始仏典では、
行為の善悪により、肉体の滅後は、地獄・畜生・餓鬼・人界・天界に赴くとされ、
その輪廻には、識(vinnana)が重要な役割りを果たしています。
けだし何者のカルマも滅びることはない。
それは、必ずもどってきて、カルマをつくった主がそれを受ける。
愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。
地獄に堕ちた者は、鉄の串を突きさされるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。
さてまた灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、
それは、つくったカルマにふさわしい当然なことである。
地獄の獄卒どもは、「捕らえよ」「打て」などといって、誰もやさしいことばをかけることなく、
温顔をもって向ってくることなく、頼りになってくれない。
地獄に堕ちた者どもは、敷き拡げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。
またそこでは、地獄の獄卒どもは、鉄の網をもって、
地獄に堕ちた者どもをからめとり、鉄槌をもって打つ。
さらに真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧のようにひろがっている。
また次に、地獄に堕ちた者どもは、火炎があまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。
火の燃え盛るそれらの釜の中で、永いあいだ煮られて、浮き沈みする。
また、膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
かれが、その釜の中でどちらの方角へ向って横たわろうとも、血と膿に触れて汚される。
また蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。
出ようにも、つかむベき縁がない。
その釜の上部は内側に彎曲していて、まわりが全部一様だからである。
また鋭い剣の葉のついた林があり、地獄に堕ちた者どもが、その中に入ると手足を切断される。
地獄の獄卒どもは、鉤を引っかけて舌をとらえ、引っ張りまわし、引っ張り廻しては叩きつける。
また次に、地獄に堕ちた者どもは、超え難いヴェータラニー河に至る。
その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。
愚かな輩は、悪いことをして罪を犯しては、そこに陥る。
そこには黒犬や斑犬や、黒烏の群や野狐がいて、
泣きさけぶかれらを貪り食うて飽くことがない。
また鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄む。
罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。
だから人は、この世において余生のあるうちに、
なすべきことをなして、ゆるがせにしてはならない。
ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど永く続こうとも、
その間は地獄にとどまらねばならない。
それ故に、ひとは清く、温良で、立派な美徳をめざして、
常に言葉と心をつつしむべきである。
パーリ原始仏典小部「スッタニパータ」



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2008.11.25
神への道
西洋文化はイエスの教えを規範としてきました。
その愛の精神は、普遍性がある故に、
現在でも、キリスト教徒は全世界に20億人いるといわれています。
仏教徒はどうして、人間イエスを正当に評価することが出来ないのでしょう。
神への道は、悟りへの道であり、神にとっては西洋も東洋もないのです。
二つのヴァージョンのイエス―大ざっぱにしかわからない歴史的人物と、
抽象的な神学的創作物―は、わたしにとって悲しむべき性格のものです。
なぜなら、それらはある大切なものを奪ってしまっているとわたしは思うからです。
その大事なものとは、人々に「神の意識」への到達の仕方を教えたイエスです。
自ら述べていたように、
イエスが本当にひとりの救い主であった可能性をわたしは指摘したいと思います。
唯一の救い主、唯一無二の神の子ではありません。
むしろイエスは、最高レベルの悟りを体現したのでした。
彼はそれを述べ、それを教え、それを将来の世代に伝えることに、
成年後の短い人生を費やしたのでした。
イエスは、人々に「神の意識」への道を示すことによって、世界を救おうとしたのです。
ブッダの言葉に「わたしを見る者はわたしの教えを見る」というのがあります。
同じことがイエスにも言えました。
彼は「キリストの意識」の内に生きていました。
彼の教えは、自分自身の「自覚」から直接発せられていたのです。
イエスはわたしたちに、悟りへの道を示すことができました。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ、5・48)
悟りと意識の開発とは、キリスト教の概念ではなく、
東洋の概念であると考えられています。
インドでは、大勢のグルや霊的指導者が、
一般の人々に悟りにいたる方法を教えようとしてきました。
しかし、霊性を東洋と西洋に分かつのは偏狭な地方根性にほかなりません。
インド人は、外からやって来て古代のヴェーダの教えの最良の部分をかすめ取り、
ヨーガを週末のエクササイズ教室に変えてしまうよそ者を軽蔑します。
西洋人は、外からやって来てイエスを神の唯一の子と見なさず、
ブッダやムハンマドと同類の教師と称するよそ者を軽蔑します。
ひとたび教条的なカトリック教やヒンドゥー教の枠の外に出ると、
両者に重大な欠陥があることがわかります。
意識は普遍的です。
「神の意識」というものがあるとすれば、それから排除される人はひとりもありません。
同じように、「神の意識」の独占を図ることはできません。
イエスが最高の悟りに到達していたとしても、
なぜ彼はこの点に関して唯一無二の存在でなければならないのでしょうか?
ブッダもイエスと同列にあるかもしれません(何億もの信者がそのように信じています)。
明らかに、イエスは自分自身について地方根性的な見方をしていませんでした。
ひとりのユダヤ人であり、ひとりの教師ではありましたが、
彼は自分を普遍的な観点からとらえていました。
実際、彼は、自らの出現を世界史における最も重要な出来事―その意義は、
人類の時間ではなく、神の時間においてのみ評価され得る―と見なしておりました。
イエスは時間を超越して思考しました。
そして二千年ののち、彼は自ら意図したとおりに、わたしたちの同時代人として存在しています。
ディーパック・チョプラ「ザ・サード・ジーザス」
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その愛の精神は、普遍性がある故に、
現在でも、キリスト教徒は全世界に20億人いるといわれています。
仏教徒はどうして、人間イエスを正当に評価することが出来ないのでしょう。
神への道は、悟りへの道であり、神にとっては西洋も東洋もないのです。
二つのヴァージョンのイエス―大ざっぱにしかわからない歴史的人物と、
抽象的な神学的創作物―は、わたしにとって悲しむべき性格のものです。
なぜなら、それらはある大切なものを奪ってしまっているとわたしは思うからです。
その大事なものとは、人々に「神の意識」への到達の仕方を教えたイエスです。
自ら述べていたように、
イエスが本当にひとりの救い主であった可能性をわたしは指摘したいと思います。
唯一の救い主、唯一無二の神の子ではありません。
むしろイエスは、最高レベルの悟りを体現したのでした。
彼はそれを述べ、それを教え、それを将来の世代に伝えることに、
成年後の短い人生を費やしたのでした。
イエスは、人々に「神の意識」への道を示すことによって、世界を救おうとしたのです。
ブッダの言葉に「わたしを見る者はわたしの教えを見る」というのがあります。
同じことがイエスにも言えました。
彼は「キリストの意識」の内に生きていました。
彼の教えは、自分自身の「自覚」から直接発せられていたのです。
イエスはわたしたちに、悟りへの道を示すことができました。
「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、
あなたがたも完全な者となりなさい。」(マタイ、5・48)
悟りと意識の開発とは、キリスト教の概念ではなく、
東洋の概念であると考えられています。
インドでは、大勢のグルや霊的指導者が、
一般の人々に悟りにいたる方法を教えようとしてきました。
しかし、霊性を東洋と西洋に分かつのは偏狭な地方根性にほかなりません。
インド人は、外からやって来て古代のヴェーダの教えの最良の部分をかすめ取り、
ヨーガを週末のエクササイズ教室に変えてしまうよそ者を軽蔑します。
西洋人は、外からやって来てイエスを神の唯一の子と見なさず、
ブッダやムハンマドと同類の教師と称するよそ者を軽蔑します。
ひとたび教条的なカトリック教やヒンドゥー教の枠の外に出ると、
両者に重大な欠陥があることがわかります。
意識は普遍的です。
「神の意識」というものがあるとすれば、それから排除される人はひとりもありません。
同じように、「神の意識」の独占を図ることはできません。
イエスが最高の悟りに到達していたとしても、
なぜ彼はこの点に関して唯一無二の存在でなければならないのでしょうか?
ブッダもイエスと同列にあるかもしれません(何億もの信者がそのように信じています)。
明らかに、イエスは自分自身について地方根性的な見方をしていませんでした。
ひとりのユダヤ人であり、ひとりの教師ではありましたが、
彼は自分を普遍的な観点からとらえていました。
実際、彼は、自らの出現を世界史における最も重要な出来事―その意義は、
人類の時間ではなく、神の時間においてのみ評価され得る―と見なしておりました。
イエスは時間を超越して思考しました。
そして二千年ののち、彼は自ら意図したとおりに、わたしたちの同時代人として存在しています。
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2008.11.25
近代仏教の変容
日本仏教は、近代化の過程で大切なものを失ってしまいました。
反省は少しずつ始まっていますが、何としても霊性の復興を果たさなければなりません。
この点についての優れた論文の一部です。
サイコセラピー、ヒーリング(癒し)、ホスピスとターミナル・ケアー、
瞑想を通しての自己の意識や身体の変容、精神共同体のネットワーク形成、
核問題や平和運動、環境問題といった西欧における現在の仏教の動きが、
対応しようとしている諸問題はほとんどすべて、1970年代以降、
日本でも急速に対応を迫られる問題として登場してきたものばかりなのである。
それに対して一方ここで、日本における戦後の仏教の動きを振り返ってみると、
まず戦後から高度成長期までは、都市化の流れのなかで、一方では、
創価学会・霊友会・立正佼正会等の新宗教の伸びに見られるように、
仏教近代改革運動が戦前において切り捨てた貧・病・争からの現世利益的な救済を願う、
民衆の宗教性や、霊の世界などの目に見えない生命に対する土着的信仰が、
すくいあげられて復興してくるという動きが見られた。
それに対して、仏教近代改革運動の流れを汲む既成仏教側の都市化への対応としては、
「家の宗教」から「個人の宗教」への転換をめざすような形で、同朋会運動(浄土真宗大谷派)、
門信徒運動(浄土真宗本願寺派)、おてつぎ運動(浄土宗)、一隅を照らす運動(天台宗)、
などのさまざまな運動が生み出されてきた。
だが、これらの運動は総じてすべて、
結局は、寺檀制度という「家の宗教」の基盤に立つ寺院の側が押し進めざるを得ないという、
自己矛盾を克服することも、
また、現世利益や霊の世界への土着的な信仰を有効な形で取り入れていく、
という方向を取ることもなく、下火になっていったのである。
その後、オイルショック以降の高度産業管理社会、あるいは高度消費社会、
あるいは心の時代においては、創価学会等の新宗教が「現世利益」路線から、
「生きがい」路線へと変更を行うが、その教勢が拡大するということはもはやなかった。
それに対してむしろ勢力を伸ばしたのは、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めや、死後の世界の強調などの、
神秘的・呪術的な非合理性を強調するような形の新新宗教のほうだったのだ。
このように戦後の西欧における仏教の動きと、
日本における仏教を中心とする宗教の動きとを対比してみると、
西欧における仏教の動きと、日本における新新宗教、
およびそれを支えた「精神世界」の動きとが、
顕著な同時代的共通性を持っていることが見えてくる。
たとえば、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めといった神秘主義的傾向などがそうである。
そして、この共通性が注目に価するのは、それが、西洋と東洋あるいは、
西欧近代文明と東洋精神文明というこれまでの対立軸を越えるような同時代性を持って、
立ち現れてきているという点にある。
そして、このことはまた、この二つの動きが中世的な宗教と近代的な科学、
という対立軸をも越える可能性を持って立ち現れてきているという点とも結びついている。
すなわち、この種の動きがともに、サイコセラピーやヒーリングなどとも結びついていく、
ということに見られるように、トランスパーソナル心理学や、
ホリスティック医学などのニューサンエンスの動きとも密接にからみあっており、
その意味で、これまでの宗教と科学といった対立的な枠組みのなかに、
収まりきらないものをそのなかに含み込んでいるばかりか、
近代科学的世界観がこれまで提示してきた日常的現実が持つリアリティーを越えた、
もう一つのリアリティーを提示しうる可能性をも秘めているのである。
確かにもちろん、このような神秘主義的傾向を持った動き(欧米では、
「ニューエージ運動」と呼ばれ日本では「精神世界」と呼ばれる)のなかからは、
アメリカでは人民寺院や天国への門といったカルトや、
日本ではオーム真理教といった新新宗教という、
センセーショナルな事件をまきおこしたものも生み出されてきている。
だがそれにもかかわらず、もし宗教が人間にとってこれからも必要なものであり、
かつ宗教のなかにこれまでのような近代を越える可能性を見いだそうとするならやはり、
西洋と東洋および宗教と科学というこれまでの対立軸を越える可能性を含んだ、
このようなかなりの危うさをも伴う動きのいずれかに、
宗教の未来を見いださざるを得ないだろう。
すなわち、アジアの仏教近代改革運動が一方で犯してしまった愚、
つまり、宗教的世界が持っていた目に見えない生命に対するリアリティーを成り立たせる、
感性的な土着的基盤を前近代的な迷信として、自ら進んで切り捨てていったという、
愚に似たことを再び繰り返さないためにも、可能性とともに危うさをも含むこの種の動きを、
なんとか市民社会の中に軟着陸させていく方向に、
これから進んでいかなければならないだろうと思われる。
そして、日本をはじめとするアジアの仏教もまた、
欧米における近年のこのような宗教の動きや前述の仏教の動きと、
これからも無縁でありつづけることはできないはずだと思えるのである。
島岩「西欧近代の出会いと仏教の変容―仏教の未来に関する一考察」
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反省は少しずつ始まっていますが、何としても霊性の復興を果たさなければなりません。
この点についての優れた論文の一部です。
サイコセラピー、ヒーリング(癒し)、ホスピスとターミナル・ケアー、
瞑想を通しての自己の意識や身体の変容、精神共同体のネットワーク形成、
核問題や平和運動、環境問題といった西欧における現在の仏教の動きが、
対応しようとしている諸問題はほとんどすべて、1970年代以降、
日本でも急速に対応を迫られる問題として登場してきたものばかりなのである。
それに対して一方ここで、日本における戦後の仏教の動きを振り返ってみると、
まず戦後から高度成長期までは、都市化の流れのなかで、一方では、
創価学会・霊友会・立正佼正会等の新宗教の伸びに見られるように、
仏教近代改革運動が戦前において切り捨てた貧・病・争からの現世利益的な救済を願う、
民衆の宗教性や、霊の世界などの目に見えない生命に対する土着的信仰が、
すくいあげられて復興してくるという動きが見られた。
それに対して、仏教近代改革運動の流れを汲む既成仏教側の都市化への対応としては、
「家の宗教」から「個人の宗教」への転換をめざすような形で、同朋会運動(浄土真宗大谷派)、
門信徒運動(浄土真宗本願寺派)、おてつぎ運動(浄土宗)、一隅を照らす運動(天台宗)、
などのさまざまな運動が生み出されてきた。
だが、これらの運動は総じてすべて、
結局は、寺檀制度という「家の宗教」の基盤に立つ寺院の側が押し進めざるを得ないという、
自己矛盾を克服することも、
また、現世利益や霊の世界への土着的な信仰を有効な形で取り入れていく、
という方向を取ることもなく、下火になっていったのである。
その後、オイルショック以降の高度産業管理社会、あるいは高度消費社会、
あるいは心の時代においては、創価学会等の新宗教が「現世利益」路線から、
「生きがい」路線へと変更を行うが、その教勢が拡大するということはもはやなかった。
それに対してむしろ勢力を伸ばしたのは、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めや、死後の世界の強調などの、
神秘的・呪術的な非合理性を強調するような形の新新宗教のほうだったのだ。
このように戦後の西欧における仏教の動きと、
日本における仏教を中心とする宗教の動きとを対比してみると、
西欧における仏教の動きと、日本における新新宗教、
およびそれを支えた「精神世界」の動きとが、
顕著な同時代的共通性を持っていることが見えてくる。
たとえば、自己の意識や身体の変容による自己拡充や、
宇宙意識への目覚めといった神秘主義的傾向などがそうである。
そして、この共通性が注目に価するのは、それが、西洋と東洋あるいは、
西欧近代文明と東洋精神文明というこれまでの対立軸を越えるような同時代性を持って、
立ち現れてきているという点にある。
そして、このことはまた、この二つの動きが中世的な宗教と近代的な科学、
という対立軸をも越える可能性を持って立ち現れてきているという点とも結びついている。
すなわち、この種の動きがともに、サイコセラピーやヒーリングなどとも結びついていく、
ということに見られるように、トランスパーソナル心理学や、
ホリスティック医学などのニューサンエンスの動きとも密接にからみあっており、
その意味で、これまでの宗教と科学といった対立的な枠組みのなかに、
収まりきらないものをそのなかに含み込んでいるばかりか、
近代科学的世界観がこれまで提示してきた日常的現実が持つリアリティーを越えた、
もう一つのリアリティーを提示しうる可能性をも秘めているのである。
確かにもちろん、このような神秘主義的傾向を持った動き(欧米では、
「ニューエージ運動」と呼ばれ日本では「精神世界」と呼ばれる)のなかからは、
アメリカでは人民寺院や天国への門といったカルトや、
日本ではオーム真理教といった新新宗教という、
センセーショナルな事件をまきおこしたものも生み出されてきている。
だがそれにもかかわらず、もし宗教が人間にとってこれからも必要なものであり、
かつ宗教のなかにこれまでのような近代を越える可能性を見いだそうとするならやはり、
西洋と東洋および宗教と科学というこれまでの対立軸を越える可能性を含んだ、
このようなかなりの危うさをも伴う動きのいずれかに、
宗教の未来を見いださざるを得ないだろう。
すなわち、アジアの仏教近代改革運動が一方で犯してしまった愚、
つまり、宗教的世界が持っていた目に見えない生命に対するリアリティーを成り立たせる、
感性的な土着的基盤を前近代的な迷信として、自ら進んで切り捨てていったという、
愚に似たことを再び繰り返さないためにも、可能性とともに危うさをも含むこの種の動きを、
なんとか市民社会の中に軟着陸させていく方向に、
これから進んでいかなければならないだろうと思われる。
そして、日本をはじめとするアジアの仏教もまた、
欧米における近年のこのような宗教の動きや前述の仏教の動きと、
これからも無縁でありつづけることはできないはずだと思えるのである。
島岩「西欧近代の出会いと仏教の変容―仏教の未来に関する一考察」



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2008.11.24
宗教の復権
始めにことばありき。
物質には意識が先在することが認識され、宗教が現実のパワーを持ちはじめました。
宗教は、聖なる科学であり、意識や霊性の開発を専門とするものであるからです。
唯物科学離れは進み、人々はイマジネーションやヴィジョンの力を信じています。
それと同時に、信仰の力にも目覚めはじめています。
信仰とは、神と一体になることです。
信仰とは、親子以上の魂の深い絆で結ばれることです。
この世において、いちばん大切なものが信仰です。
信仰があれば、どんなことがあっても生きていけます。
目に見えるものしか存在しない、とは何と偏狭な考え方なのでしょうか。
大宇宙には意味も目的も存在せず、生命は偶然の所産だとは、何と悲愴な思想なのでしょう。
人々は、ここ数世紀にわたる間違いにようやく気づきはじめています。
物質主義の呪縛が解け、ようやく宗教の時代がやって来ようとしています。
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物質には意識が先在することが認識され、宗教が現実のパワーを持ちはじめました。
宗教は、聖なる科学であり、意識や霊性の開発を専門とするものであるからです。
唯物科学離れは進み、人々はイマジネーションやヴィジョンの力を信じています。
それと同時に、信仰の力にも目覚めはじめています。
信仰とは、神と一体になることです。
信仰とは、親子以上の魂の深い絆で結ばれることです。
この世において、いちばん大切なものが信仰です。
信仰があれば、どんなことがあっても生きていけます。
目に見えるものしか存在しない、とは何と偏狭な考え方なのでしょうか。
大宇宙には意味も目的も存在せず、生命は偶然の所産だとは、何と悲愴な思想なのでしょう。
人々は、ここ数世紀にわたる間違いにようやく気づきはじめています。
物質主義の呪縛が解け、ようやく宗教の時代がやって来ようとしています。



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2008.11.24
クリスタルの力
ニューエイジでは、クリスタルは特別な存在です。
長年IBMの主任研究員を務めた科学者のマーセル・ヴォーゲル氏によると、
クリスタルは、使う人の思念の力を増幅させ、
レーザー光線と同じような位相のそろった高密度のエネルギー波動を、
物体や生体に移送することができるそうです。
クリスタルは、
現代科学でも電子機器などで大いに活用されていますが、
アトランティス時代には人体再生などのヒーリングや通信手段に用いられていた、
といいますから、まだまだ、驚くべき未知の力を秘めているようです。
「クリスタルについて私が知っていることを、全部君に教えることになっているみたいだ。」
ケンの目が飛び出しそうになり、顔には驚きの表情が浮かんでいます。
「石!石について教えるって?馬鹿げている!石なんて僕の役に立つはずがない!」、
と主張したのです。
私はケンにクリスタルは単なる石ではないことや、クリスタルは生きていて意識があり、
このような考えが通常の意識を逸脱しているように思えたとしても、
それは科学からは逸脱していないのだということを彼に説明しました。
それから私は、家の壁に貼ってあった元素の周期表を彼に見せました。
そして、有機化学および一般的に生命体と見なされる存在のすべては、
6番目の元素である炭素と関係しているという事実を説明したのです。
そのすぐ下、ちょうど一オクターブ分下の領域には、
クオーツ・クリスタルの主要な元素であり、
地球の表層の80パーセントを占めているシリコンがあります。
さらに、1950年代に科学者は、
シリコンが炭素と全く同一の生命の法則を示していることを発見し、
現代の科学では、炭素とシリコンの2元素のみが、
生命を創造することのできる元素として認知されている、ということを彼に説明しました。
生きて意識を持ち、繁殖も可能で体に炭素がまったく含まれず、
100パーセント、シリコンからできている生命体などが、
現代科学によって深海で発見されているのです。
ですからクリスタルについて語るときには、クリスタルは人間が考えているより、
遥かに意識的であるということを理解しておく必要があるのです。
クリスタルは、人間の思考と感情の両方を受けとったり、送信したりすることができます。
この事実を発見したのは、マーセル・ヴォーゲルという、
200以上の特許を持つ、世界的に有名な科学者でした。
彼の特許の一例には、彼がベル研究所に勤務していた際に取得した、
パソコン用のフロッピー・ディスクなどがあります。
世界で最初のラジオが、
クリスタルセットと呼ばれるクリスタルを利用したものだったことを考えれば、
その意味が理解できるのではないでしょうか。
これはただ単にテーブルにクオーツ・クリスタルを置いて、
そのクリスタルの一部分をワイヤーで触れると、
ラジオ信号がスピーカーから聞こえてくるというものでした。
これは、クリスタルがラジオ波の周波数帯にある電磁気的な信号を感知するという仕組みです。
また、周波数の電磁気的な領域では、人間の思考を見つけることも可能です。
思考はラジオ波に比べて、はるかに長い波長を持っていますが、
この違いを除けば両者はまったく同じものです。
ですから、クリスタルが人間の思考を感知できない理由がどこにあるでしょう?
ケンは今まで、こんなことについて考えたこともなかったようです。
「ということは、要するにクリスタルは、人間が考えていることを理解しているということかい?」
「その通りだよ。でもそれだけじゃない。
コンピューターがどのように機能しているか知っているかな?
コンピューターは、クリスタル以外の何ものでもなく、
クリスタルなしにコンピューターは存在できない。
コンピューターの働きを可能にしているのは、
つまリクリスタルの生きた自然の力であるとも言えるんだ。わかってもらえたかな?」
さらに続けて、
「自然のクリスタルはプログラム、すなわち思考パターンを保持することができる。
そして、そのプログラムが誰かによって消されない限り、
その思考パターンは永遠に再生され続けるんだ。
つまり、適切にプログラムされたクリスタルは、人間世界の広大な領域に変化をもたらし、
影響を与えることができるんだ。」と答えました。
ドランヴァロ・メルキゼデク「サーペント・オブ・ライト」
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長年IBMの主任研究員を務めた科学者のマーセル・ヴォーゲル氏によると、
クリスタルは、使う人の思念の力を増幅させ、
レーザー光線と同じような位相のそろった高密度のエネルギー波動を、
物体や生体に移送することができるそうです。
クリスタルは、
現代科学でも電子機器などで大いに活用されていますが、
アトランティス時代には人体再生などのヒーリングや通信手段に用いられていた、
といいますから、まだまだ、驚くべき未知の力を秘めているようです。
「クリスタルについて私が知っていることを、全部君に教えることになっているみたいだ。」
ケンの目が飛び出しそうになり、顔には驚きの表情が浮かんでいます。
「石!石について教えるって?馬鹿げている!石なんて僕の役に立つはずがない!」、
と主張したのです。
私はケンにクリスタルは単なる石ではないことや、クリスタルは生きていて意識があり、
このような考えが通常の意識を逸脱しているように思えたとしても、
それは科学からは逸脱していないのだということを彼に説明しました。
それから私は、家の壁に貼ってあった元素の周期表を彼に見せました。
そして、有機化学および一般的に生命体と見なされる存在のすべては、
6番目の元素である炭素と関係しているという事実を説明したのです。
そのすぐ下、ちょうど一オクターブ分下の領域には、
クオーツ・クリスタルの主要な元素であり、
地球の表層の80パーセントを占めているシリコンがあります。
さらに、1950年代に科学者は、
シリコンが炭素と全く同一の生命の法則を示していることを発見し、
現代の科学では、炭素とシリコンの2元素のみが、
生命を創造することのできる元素として認知されている、ということを彼に説明しました。
生きて意識を持ち、繁殖も可能で体に炭素がまったく含まれず、
100パーセント、シリコンからできている生命体などが、
現代科学によって深海で発見されているのです。
ですからクリスタルについて語るときには、クリスタルは人間が考えているより、
遥かに意識的であるということを理解しておく必要があるのです。
クリスタルは、人間の思考と感情の両方を受けとったり、送信したりすることができます。
この事実を発見したのは、マーセル・ヴォーゲルという、
200以上の特許を持つ、世界的に有名な科学者でした。
彼の特許の一例には、彼がベル研究所に勤務していた際に取得した、
パソコン用のフロッピー・ディスクなどがあります。
世界で最初のラジオが、
クリスタルセットと呼ばれるクリスタルを利用したものだったことを考えれば、
その意味が理解できるのではないでしょうか。
これはただ単にテーブルにクオーツ・クリスタルを置いて、
そのクリスタルの一部分をワイヤーで触れると、
ラジオ信号がスピーカーから聞こえてくるというものでした。
これは、クリスタルがラジオ波の周波数帯にある電磁気的な信号を感知するという仕組みです。
また、周波数の電磁気的な領域では、人間の思考を見つけることも可能です。
思考はラジオ波に比べて、はるかに長い波長を持っていますが、
この違いを除けば両者はまったく同じものです。
ですから、クリスタルが人間の思考を感知できない理由がどこにあるでしょう?
ケンは今まで、こんなことについて考えたこともなかったようです。
「ということは、要するにクリスタルは、人間が考えていることを理解しているということかい?」
「その通りだよ。でもそれだけじゃない。
コンピューターがどのように機能しているか知っているかな?
コンピューターは、クリスタル以外の何ものでもなく、
クリスタルなしにコンピューターは存在できない。
コンピューターの働きを可能にしているのは、
つまリクリスタルの生きた自然の力であるとも言えるんだ。わかってもらえたかな?」
さらに続けて、
「自然のクリスタルはプログラム、すなわち思考パターンを保持することができる。
そして、そのプログラムが誰かによって消されない限り、
その思考パターンは永遠に再生され続けるんだ。
つまり、適切にプログラムされたクリスタルは、人間世界の広大な領域に変化をもたらし、
影響を与えることができるんだ。」と答えました。
ドランヴァロ・メルキゼデク「サーペント・オブ・ライト」



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