2008.11.30
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2008.11.30
神いろいろ
誰もが神を表現します。
イスラム教徒「神は唯一絶対」。
スピリチュアリスト「神は霊的存在」。
無神論者「神などいない」。
神道者「神はあらゆるものに宿る」。
哲学者「神は第一原因」。
タオイスト「神は無である」。
ヒンドゥー教徒「神は宇宙の根本原理」。
不可知論者「神は認識不可能」。
ユダヤ教徒「神は一なるもの」。
仏教徒「神はあるともないともいえない」。
科学者「神は人間原理」。
神秘主義者「神は秘されている」。
キリスト教徒「神は愛なり」。
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イスラム教徒「神は唯一絶対」。
スピリチュアリスト「神は霊的存在」。
無神論者「神などいない」。
神道者「神はあらゆるものに宿る」。
哲学者「神は第一原因」。
タオイスト「神は無である」。
ヒンドゥー教徒「神は宇宙の根本原理」。
不可知論者「神は認識不可能」。
ユダヤ教徒「神は一なるもの」。
仏教徒「神はあるともないともいえない」。
科学者「神は人間原理」。
神秘主義者「神は秘されている」。
キリスト教徒「神は愛なり」。



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2008.11.29
新しい考え
どうやら、
政治経済、思想哲学を専門とする文科系の人々には、
「スピリチュアル」を嫌悪する傾向があるようです。
不思議なことに、理科系の人々にはすんなりと受け入れられるようなのです。
文化系の人間は、
理性よりも、感情論に走り易く、頑迷です。
科学と非科学、迷信と真理の区別がつかないのです。
自分のよって立つ思想そのものを疑ってみる、という冷静な姿勢が大切です。
刻々と時勢は変化しているのです。
科学も思想も、進歩しているのです。
新しい考えを受け入れる勇気もまた必要なのです。
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政治経済、思想哲学を専門とする文科系の人々には、
「スピリチュアル」を嫌悪する傾向があるようです。
不思議なことに、理科系の人々にはすんなりと受け入れられるようなのです。
文化系の人間は、
理性よりも、感情論に走り易く、頑迷です。
科学と非科学、迷信と真理の区別がつかないのです。
自分のよって立つ思想そのものを疑ってみる、という冷静な姿勢が大切です。
刻々と時勢は変化しているのです。
科学も思想も、進歩しているのです。
新しい考えを受け入れる勇気もまた必要なのです。



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2008.11.29
瞑想の極意
現代の仏陀が説かれる瞑想の極意です。
膨大な仏典をひも解いても掴み得ない真理がここにあります。
私は瞑想を実ならしめるためには、あるいは瞑想をほんとうの意味での瞑想たらしめるには、
三つの心構えが必要であると思います。
世の中には、さまざまな瞑想のしかたが伝授され、流布されておりますが、
それらの多くは単に瞑想気分にひたっているだけだと言えるのではないでしようか。
ほんとうの瞑想、瞑想の実を出すための極意は、
基本的な三つの心構えを持っていることにあると考えます。
その第一はいったい何かと言うと、神仏の実在を信じ切るということです。
神仏というものを認めない瞑想、無念無想で無神論の瞑想というのもあるそうですが、
そうしたものは、ほんとうの意味での瞑想の本義にたどりつくことはできません。
禅というものを神や仏を否定し去った境地だというふうに言う方もいますが、
そうしたものでは決してないということを知っていただきたい。
それは知識の不足、智慧の不足です。
方法論だけにとらわれて、知識と智慧が不足しているために、
そうした考え方が出ているのであって、
ほんとうの瞑想は神仏を否定するものであってはならないのです。
神仏というもの、大宇宙の創造主、
またそれに仕えている高級諸霊たちの実在というものを完全に信じなければ、
ほんとうの意味で瞑想というものは効果を現わすことはできません。これが第一点です。
第二点は自我我欲、自分の私利私欲のためだけには瞑想を使ってはならないということです。
自分を高めていくということは、
結局において、神の心をこの地上に実現していくために必要なことです。
すなわち神の兵士として、戦士として地上で活躍していくために、
そうした力をみずからに与えていただきたい、
あるいは本来備わっている力を出すために助力をいただきたい、
そのような気持ちで瞑想してゆくことがいいのです。
ところが、それを何か特殊な人間、たとえば超能力者となって、
そして自分の喜びのために使いたいという気持ちで瞑想をしたとすると、
これはたいへんなまちがいとなっていきます。
これではひじょうに曲がりこんでいって、やがて暗い世界へと通じていきます。
ゆえに、こうした気持ちでもって瞑想を続けていくと、さまざまな悪想念、
あるいは魔界の者たちに心を支配させていくようになります。
したがって、どうしてもこの一点、
つまり自我我欲にもとづく瞑想であってはならないという点は、
ぜひとも強調しておく必要があると思います。
瞑想の極意の三番目は何かというと、
結局、実在世界のあり方というものを視点として、
この世をもう一度見まわすことによって、
本来の人生のあり方というものをつねに点検する、確認するということです。
どうしても私たちは三次元に力点があって、この世からものごとを考えがちでありますが、
もう一度立場を変えて実在の世界から自分をながめてみるという視点がたいせつです。
これを忘れるということが、結局大いなる不幸につながっていくのです。
こうした異質な体験、尋常ならざる体験を積むことによって、
ほんとうの意味で自分の立場というものが理解され、
それが大いなる人生への飛翔の鍵となっていくのです。
すなわち瞑想を瞑想たらしめるためには、
いったん三次元を離れた目で自分を見、世界を見てみるという心構えがだいじです。
そうした心構えが大いなる道を切り拓いていくことになりましょう。
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膨大な仏典をひも解いても掴み得ない真理がここにあります。
私は瞑想を実ならしめるためには、あるいは瞑想をほんとうの意味での瞑想たらしめるには、
三つの心構えが必要であると思います。
世の中には、さまざまな瞑想のしかたが伝授され、流布されておりますが、
それらの多くは単に瞑想気分にひたっているだけだと言えるのではないでしようか。
ほんとうの瞑想、瞑想の実を出すための極意は、
基本的な三つの心構えを持っていることにあると考えます。
その第一はいったい何かと言うと、神仏の実在を信じ切るということです。
神仏というものを認めない瞑想、無念無想で無神論の瞑想というのもあるそうですが、
そうしたものは、ほんとうの意味での瞑想の本義にたどりつくことはできません。
禅というものを神や仏を否定し去った境地だというふうに言う方もいますが、
そうしたものでは決してないということを知っていただきたい。
それは知識の不足、智慧の不足です。
方法論だけにとらわれて、知識と智慧が不足しているために、
そうした考え方が出ているのであって、
ほんとうの瞑想は神仏を否定するものであってはならないのです。
神仏というもの、大宇宙の創造主、
またそれに仕えている高級諸霊たちの実在というものを完全に信じなければ、
ほんとうの意味で瞑想というものは効果を現わすことはできません。これが第一点です。
第二点は自我我欲、自分の私利私欲のためだけには瞑想を使ってはならないということです。
自分を高めていくということは、
結局において、神の心をこの地上に実現していくために必要なことです。
すなわち神の兵士として、戦士として地上で活躍していくために、
そうした力をみずからに与えていただきたい、
あるいは本来備わっている力を出すために助力をいただきたい、
そのような気持ちで瞑想してゆくことがいいのです。
ところが、それを何か特殊な人間、たとえば超能力者となって、
そして自分の喜びのために使いたいという気持ちで瞑想をしたとすると、
これはたいへんなまちがいとなっていきます。
これではひじょうに曲がりこんでいって、やがて暗い世界へと通じていきます。
ゆえに、こうした気持ちでもって瞑想を続けていくと、さまざまな悪想念、
あるいは魔界の者たちに心を支配させていくようになります。
したがって、どうしてもこの一点、
つまり自我我欲にもとづく瞑想であってはならないという点は、
ぜひとも強調しておく必要があると思います。
瞑想の極意の三番目は何かというと、
結局、実在世界のあり方というものを視点として、
この世をもう一度見まわすことによって、
本来の人生のあり方というものをつねに点検する、確認するということです。
どうしても私たちは三次元に力点があって、この世からものごとを考えがちでありますが、
もう一度立場を変えて実在の世界から自分をながめてみるという視点がたいせつです。
これを忘れるということが、結局大いなる不幸につながっていくのです。
こうした異質な体験、尋常ならざる体験を積むことによって、
ほんとうの意味で自分の立場というものが理解され、
それが大いなる人生への飛翔の鍵となっていくのです。
すなわち瞑想を瞑想たらしめるためには、
いったん三次元を離れた目で自分を見、世界を見てみるという心構えがだいじです。
そうした心構えが大いなる道を切り拓いていくことになりましょう。



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2008.11.29
信じない者たち
世界各地で頻発するテロ行為や、紛争。
憎悪や嫉妬、破滅願望がうずまいています。
この世は仮の世とはいえ、とても悲しい現実です。
2千年前、イエスは、全ての人々にいのちを与えました。
「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
そして、当時の人々は限りない輝きに包まれました。
それ以上の歴史的イベントが、現在進行中です。
救世主は予言通り降臨しています。
全ての人々を許すために。
この光を受け入れましょう。
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憎悪や嫉妬、破滅願望がうずまいています。
この世は仮の世とはいえ、とても悲しい現実です。
2千年前、イエスは、全ての人々にいのちを与えました。
「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。
わたしがあなたがたに話した言葉は霊であり、命である。
しかし、あなたがたのうちには信じない者たちもいる。」
そして、当時の人々は限りない輝きに包まれました。
それ以上の歴史的イベントが、現在進行中です。
救世主は予言通り降臨しています。
全ての人々を許すために。
この光を受け入れましょう。



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2008.11.29
勝負あり
2008.11.28
ニコニコ独占動画
2008.11.28
スピリチュアルな絆
スピリチュアルという概念は、宗教の枠組みを超えています。
近年、このスピリチュアルに関する理解は、世界中で広まりつつあります。
一方で、伝統的な宗教教団は、既得権益を守る為に、自己の優位性ばかりを主張しています。
不寛容な精神は時代錯誤であり、宗教間対話の促進が急務です。
カトリックの僧侶である神秘家ウェイン・ティーズデールは、
『神秘家の心』という著書の中で、以下のように述べている。
「偉大な宗教はどれもよく似た起源を持っている。
それは、教祖が体験した、神、創造主、聖霊、道、
無限の意識などへのスピリチュアルな覚醒である。
われわれはそれを、インドの聖仙が受けたヴェーダの啓示、
仏陀の悟り、聖書が伝えるモーセやイスラエルの族長や、
預言者たちの経験の中に見出すことができる。
もちろん、自分と「父」との関係についてのイエスの内なる悟りも、
瞑想中のムハンマドが大天使ガブリエルから受けたアッラーの啓示も例外ではない。」
たしかに、偉大な経典はどれも、
人間と高位のスピリチュアルな存在との神秘的な出会いを通じて、
根源的な真実が明かされたと主張している。
別の言い方をするなら、すべての宗教の基礎には、何らかの神秘体験があるということになる。
人格神とは、各宗教が絶対的一者を解釈する方法の象徴なのだ。
人格神を特徴づける概念はどれも巨大パズルのピースにすぎず、
すべての人格神の基礎には、たった一つの根源的なリアリティーの神秘的な理解がある。
われわれがこのことを悟るとき、すべての宗教は兄弟になり、
信仰は真実になり、あらゆる人格神はリアルな存在になる。
最悪の場合には、われわれは、融和と憐れみの神の代わりに、
断絶と敵対の神を見出すことになる。
世界の宗教の歴史を振り返ると、対立ばかりが目について、
このような包括的で寛大な見方をする宗教がほとんどなかったことが分かる。
けれども、心強い兆しもある。
多くの宗教思想家が、すべての宗教が、
共通のスピリチュアルな絆によって結ばれている可能性を認めはじめているのだ。
アンドリュー・ニューバーグ/ユージーン・ダギリ「脳はいかにして神を見るか」
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近年、このスピリチュアルに関する理解は、世界中で広まりつつあります。
一方で、伝統的な宗教教団は、既得権益を守る為に、自己の優位性ばかりを主張しています。
不寛容な精神は時代錯誤であり、宗教間対話の促進が急務です。
カトリックの僧侶である神秘家ウェイン・ティーズデールは、
『神秘家の心』という著書の中で、以下のように述べている。
「偉大な宗教はどれもよく似た起源を持っている。
それは、教祖が体験した、神、創造主、聖霊、道、
無限の意識などへのスピリチュアルな覚醒である。
われわれはそれを、インドの聖仙が受けたヴェーダの啓示、
仏陀の悟り、聖書が伝えるモーセやイスラエルの族長や、
預言者たちの経験の中に見出すことができる。
もちろん、自分と「父」との関係についてのイエスの内なる悟りも、
瞑想中のムハンマドが大天使ガブリエルから受けたアッラーの啓示も例外ではない。」
たしかに、偉大な経典はどれも、
人間と高位のスピリチュアルな存在との神秘的な出会いを通じて、
根源的な真実が明かされたと主張している。
別の言い方をするなら、すべての宗教の基礎には、何らかの神秘体験があるということになる。
人格神とは、各宗教が絶対的一者を解釈する方法の象徴なのだ。
人格神を特徴づける概念はどれも巨大パズルのピースにすぎず、
すべての人格神の基礎には、たった一つの根源的なリアリティーの神秘的な理解がある。
われわれがこのことを悟るとき、すべての宗教は兄弟になり、
信仰は真実になり、あらゆる人格神はリアルな存在になる。
最悪の場合には、われわれは、融和と憐れみの神の代わりに、
断絶と敵対の神を見出すことになる。
世界の宗教の歴史を振り返ると、対立ばかりが目について、
このような包括的で寛大な見方をする宗教がほとんどなかったことが分かる。
けれども、心強い兆しもある。
多くの宗教思想家が、すべての宗教が、
共通のスピリチュアルな絆によって結ばれている可能性を認めはじめているのだ。
アンドリュー・ニューバーグ/ユージーン・ダギリ「脳はいかにして神を見るか」



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2008.11.28
神は死なず
「浅薄な哲学は人の心を無神論へ傾けるが、深遠な哲学は人の心を宗教へと導く。」
天才フランシス・ベーコンのこの金言は、現代においても通用します。
19世紀以降、神を語り得ぬ哲学という分野は、色あせ、力を失っていきました。
哲学は、科学に屈する必要はなく、「意味」と「神」とを取り戻さなければなりません。
1885年に哲学者フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と宣言したことはあまりにも有名だ。
彼はもちろん、それまで生きていた神が死んでしまったという意味ではなく、
神は最初から存在していなかったという意味でこう言ったのだ。
ニーチェは、神を非科学的な過去の遺物であると断じ、
人類はやがて神など必要としなくなるだろうと信じていた。
世界が大きく様変わりした19世紀から20世紀の前半にかけて活躍したカール・マルクス、
ジグムント・フロイト、ジェームズ・フレーザー、ルートヴィヒ・フォイエルバッハ、
バートランド・ラッセルらの偉大なる合理的思想家たちと同様に、
ニーチェもまた、人々の教育レベルが向上し、
存在の謎について科学がもっと現実的な答えを出すようになれば、
これまで人々の心を掴んできた不合理な宗数の力はみるみるうちに失われ、
あらゆる神が姿を消すだろうと期待していたのだ。
神は、ニーチェの願いなどかなえてやる必要はないと思ったのかもしれない。
科学技術が驚異的な発達を遂げた西暦2000年代に入ってもなお、
神は生き続け、宗教やスピリチュアリティーの探求は相変わらずさかんである。
ニーチェがこの状況を見たら、理性が無知に負けたと憤慨するかもしれない。
ニーチェでなくても、「信仰は、迷信と恐怖ゆえの自己欺瞞によって支えられている」、
と考える冷笑的な唯物論者にとって、人々が神から離れずにいることは、
神なき世界を直視する強さと勇気に欠けていることの証拠以外の何物でもないようで、
このことについて考えようとする思想家など、最近ではほとんど見かけないほどである。
けれども、先入観を持たずに考えてみれば、
合理的唯物論者の言説も、知的に健全であるとは思えない。
われわれはむしろ、宗教がすばらしい粘り強さを見せるのは、
それが、心の弱さゆえの否定や心理的依存よりも深く、単純で、
健全なものに根拠を持っているからだと考えている。
アンドリュー・ニューバーグ/ユージーン・ダギリ「脳はいかにして神を見るか」
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天才フランシス・ベーコンのこの金言は、現代においても通用します。
19世紀以降、神を語り得ぬ哲学という分野は、色あせ、力を失っていきました。
哲学は、科学に屈する必要はなく、「意味」と「神」とを取り戻さなければなりません。
1885年に哲学者フリードリヒ・ニーチェが「神は死んだ」と宣言したことはあまりにも有名だ。
彼はもちろん、それまで生きていた神が死んでしまったという意味ではなく、
神は最初から存在していなかったという意味でこう言ったのだ。
ニーチェは、神を非科学的な過去の遺物であると断じ、
人類はやがて神など必要としなくなるだろうと信じていた。
世界が大きく様変わりした19世紀から20世紀の前半にかけて活躍したカール・マルクス、
ジグムント・フロイト、ジェームズ・フレーザー、ルートヴィヒ・フォイエルバッハ、
バートランド・ラッセルらの偉大なる合理的思想家たちと同様に、
ニーチェもまた、人々の教育レベルが向上し、
存在の謎について科学がもっと現実的な答えを出すようになれば、
これまで人々の心を掴んできた不合理な宗数の力はみるみるうちに失われ、
あらゆる神が姿を消すだろうと期待していたのだ。
神は、ニーチェの願いなどかなえてやる必要はないと思ったのかもしれない。
科学技術が驚異的な発達を遂げた西暦2000年代に入ってもなお、
神は生き続け、宗教やスピリチュアリティーの探求は相変わらずさかんである。
ニーチェがこの状況を見たら、理性が無知に負けたと憤慨するかもしれない。
ニーチェでなくても、「信仰は、迷信と恐怖ゆえの自己欺瞞によって支えられている」、
と考える冷笑的な唯物論者にとって、人々が神から離れずにいることは、
神なき世界を直視する強さと勇気に欠けていることの証拠以外の何物でもないようで、
このことについて考えようとする思想家など、最近ではほとんど見かけないほどである。
けれども、先入観を持たずに考えてみれば、
合理的唯物論者の言説も、知的に健全であるとは思えない。
われわれはむしろ、宗教がすばらしい粘り強さを見せるのは、
それが、心の弱さゆえの否定や心理的依存よりも深く、単純で、
健全なものに根拠を持っているからだと考えている。
アンドリュー・ニューバーグ/ユージーン・ダギリ「脳はいかにして神を見るか」



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2008.11.27
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