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2008.11.02
始まりとしての死
死は全ての終りだとすると、
思考力のある人間にとって、こんな残酷なことはありません。
そうであるのならば、死を考えることは恐怖以外の何ものでもないでしょう。
最終のゴールが無であるのならば、誰もが必然的に生きる意味を見失い鬱となります。
幸いにして、われわれには、永遠のいのちが与えられています。
この事実を知るならば、死は新たなる始まりとしての意味を持ちます。
誰もが祝福に満ちた死を迎える権利があるのです。
死とは、様々な生理系統が私たちの肉体の生命を維持できなくなったときにやってくるもの、
と説明することはできますが、それはもちろん死の一つの側面にすぎません。
もしも肉体的苦痛が大きければ、魂は肉体の死の少し前に肉体を離れることもありますが、
私たちが死と呼ぶのは、不滅不死の魂が、
死を免れ得ない肉体という乗り物をついに後にして、物質界と非物質界という、
同時に存在する二つの世界の間を移行する自然な瞬間のことであり、
それは生命における一通過点にすぎません。
私たちの多くは、死に関する考え方に宗教的教義や伝統の影響を受けています。
たとえばアフリカや地中海沿岸の国の人々にとって、
死は調和のとれた生の自然な一部にすぎず、
それは宇宙の原則に従って完墜なタイミングで起こります。
死に対しては抵抗も屈服もふさわしくないのです。
それよりもふさわしいのは、心を開いてそれを受け入れることです。
なぜなら、死と呼ばれるものを私たちが本当に理解するとき、
私たちは意識的に故郷へ帰る旅路の準備をし、そこから緊張と悲劇を手放して、
私たちの霊的な成長における次の、より自然な段階へ、すっと移行することができるからです。
人間としてのこの人生が、もしも単なる遠足だとしたら?
私たちはこの地上で教育用のローラーコースターに乗り、
昇ったり沈んだりする人生経験や人間関係など、
私たちの究極の成長には欠くことのできないことを学んでいるのです。
喜びと光に満ちた魂の次元から見れば、この地上での生はかなりの暗闇であり、
私たちは、特に好きでもない教師から、
意識して学びたいとも思わないレッスンを苦しんで学んでいるように思えるかもしれません。
と同時に私たちはまた教師でもあるわけですが、生徒はおうおうにして学ぶのを嫌がるのです。
もちろん私たちには、一秒一秒を大切にし、
宇宙が日々私たちに与えてくれる様々な奇跡や学びを自分のものとすることで、
地上での生を、豊かで情熱的で恵みに満ちた冒険にすることが可能です。
つまり、私たちはみな、慎重に織りなされた神の秩序の一部ではあるのですが、
この地上は私たちの本当の居場所ではないのです。
私たちがここにいるのはほんのしばらくの間にすぎず、
学ぶこと、教えること、与えること、受け取ることをすべて終えたなら、
荷物をたたんで故郷に帰るときです―それがトランジション(死)です。
向こう側の世界に、素晴らしい真の姿で再び登場し、
私たちより先に故郷に戻っていった愛する人たちと再び出会う準備をするにあたって、
私たちはその帰郷の旅路を悲しく恐ろしいものと考えるのではなく、
喜びに満ちた期待、達成感と祝賀感をもってそれに臨むことができます。
ブレンダ・デーヴィス「過去世ソウルヒーリング」
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思考力のある人間にとって、こんな残酷なことはありません。
そうであるのならば、死を考えることは恐怖以外の何ものでもないでしょう。
最終のゴールが無であるのならば、誰もが必然的に生きる意味を見失い鬱となります。
幸いにして、われわれには、永遠のいのちが与えられています。
この事実を知るならば、死は新たなる始まりとしての意味を持ちます。
誰もが祝福に満ちた死を迎える権利があるのです。
死とは、様々な生理系統が私たちの肉体の生命を維持できなくなったときにやってくるもの、
と説明することはできますが、それはもちろん死の一つの側面にすぎません。
もしも肉体的苦痛が大きければ、魂は肉体の死の少し前に肉体を離れることもありますが、
私たちが死と呼ぶのは、不滅不死の魂が、
死を免れ得ない肉体という乗り物をついに後にして、物質界と非物質界という、
同時に存在する二つの世界の間を移行する自然な瞬間のことであり、
それは生命における一通過点にすぎません。
私たちの多くは、死に関する考え方に宗教的教義や伝統の影響を受けています。
たとえばアフリカや地中海沿岸の国の人々にとって、
死は調和のとれた生の自然な一部にすぎず、
それは宇宙の原則に従って完墜なタイミングで起こります。
死に対しては抵抗も屈服もふさわしくないのです。
それよりもふさわしいのは、心を開いてそれを受け入れることです。
なぜなら、死と呼ばれるものを私たちが本当に理解するとき、
私たちは意識的に故郷へ帰る旅路の準備をし、そこから緊張と悲劇を手放して、
私たちの霊的な成長における次の、より自然な段階へ、すっと移行することができるからです。
人間としてのこの人生が、もしも単なる遠足だとしたら?
私たちはこの地上で教育用のローラーコースターに乗り、
昇ったり沈んだりする人生経験や人間関係など、
私たちの究極の成長には欠くことのできないことを学んでいるのです。
喜びと光に満ちた魂の次元から見れば、この地上での生はかなりの暗闇であり、
私たちは、特に好きでもない教師から、
意識して学びたいとも思わないレッスンを苦しんで学んでいるように思えるかもしれません。
と同時に私たちはまた教師でもあるわけですが、生徒はおうおうにして学ぶのを嫌がるのです。
もちろん私たちには、一秒一秒を大切にし、
宇宙が日々私たちに与えてくれる様々な奇跡や学びを自分のものとすることで、
地上での生を、豊かで情熱的で恵みに満ちた冒険にすることが可能です。
つまり、私たちはみな、慎重に織りなされた神の秩序の一部ではあるのですが、
この地上は私たちの本当の居場所ではないのです。
私たちがここにいるのはほんのしばらくの間にすぎず、
学ぶこと、教えること、与えること、受け取ることをすべて終えたなら、
荷物をたたんで故郷に帰るときです―それがトランジション(死)です。
向こう側の世界に、素晴らしい真の姿で再び登場し、
私たちより先に故郷に戻っていった愛する人たちと再び出会う準備をするにあたって、
私たちはその帰郷の旅路を悲しく恐ろしいものと考えるのではなく、
喜びに満ちた期待、達成感と祝賀感をもってそれに臨むことができます。
ブレンダ・デーヴィス「過去世ソウルヒーリング」



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2008.11.02
四双八輩
お釈迦さまは、出家者、在家者を問わず、
その悟りの状態を精査して、多くの仏弟子達に修行の指針を与えました。
預流、一来、不還、阿羅漢、という修行の階位にはそれぞれに、
修行の目標である「向」、到達した境地を示す「果」、という段階があり、
預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果となります。
これらの境地にある聖者は総称しては四双八輩とも呼ばれていました。
アーナンダよ。
修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、
すでに現世において阿羅漢に達し、
汚れの無い心の解脱、智慧による解脱をみずから知り、体得し、具現していた。
したがって、この比丘は、今さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
アーナンダよ。
尼僧ナンダーは、ひとを欲界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、不還となり、
おのずから善き世界に化生した。
この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再び迷いの世界に戻ることはない。
アーナンダよ。
在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、
貪り、怒り、愚かさという三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、一来となった。
この信者は次の一度の転生で、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
アーナンダよ。
在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、預流となった。
この女信者は、聖者の流れに入ったので、もはや地獄に堕ちることはなく、
必ずさとりを達成するはずである。
パーリ原始仏典長部第16経「大パリニッバーナ経」
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その悟りの状態を精査して、多くの仏弟子達に修行の指針を与えました。
預流、一来、不還、阿羅漢、という修行の階位にはそれぞれに、
修行の目標である「向」、到達した境地を示す「果」、という段階があり、
預流向、預流果、一来向、一来果、不還向、不還果、阿羅漢向、阿羅漢果となります。
これらの境地にある聖者は総称しては四双八輩とも呼ばれていました。
アーナンダよ。
修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、
すでに現世において阿羅漢に達し、
汚れの無い心の解脱、智慧による解脱をみずから知り、体得し、具現していた。
したがって、この比丘は、今さとりの世界におり、再び迷いの生存を受けることはない。
アーナンダよ。
尼僧ナンダーは、ひとを欲界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、不還となり、
おのずから善き世界に化生した。
この比丘尼はその天界から直接さとりの世界に入り、再び迷いの世界に戻ることはない。
アーナンダよ。
在俗信者のスダッタは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、
貪り、怒り、愚かさという三つの心の毒がしだいに弱くなっているので、一来となった。
この信者は次の一度の転生で、苦を残りなく滅ぼし尽くしてさとりの世界に入るであろう。
アーナンダよ。
在俗信女のスジャータは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、預流となった。
この女信者は、聖者の流れに入ったので、もはや地獄に堕ちることはなく、
必ずさとりを達成するはずである。
パーリ原始仏典長部第16経「大パリニッバーナ経」



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