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2008.11.03
愛の神
祟り神ヤハウェと、愛の神エル、
この混同が、一神教の闘争の悲劇を生みました。
ヤハウェとエルの神は別の存在であります。
エルは、中東一帯で古代から信仰されていた神でした。
この愛の神こそが、イエスが「我が父」と呼んだ存在。
このエルの神は後にインドに仏陀として転生した霊存在であり、
そして現代の日本に、その本体部分が降臨しているのです。
ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も、地球神エルの元で手を結ばねばなりません。
アプラハムにせよモーセにせよ、
今日のわれわれが信じるような具合に彼らの神を信じていたなどと仮定するべきではない。
われわれは聖書の物語やその後のイスラエルの歴史にひじょうに親しんでいるので、
後のユダヤの宗教の知識を、これらの初期の人々に投影する傾向を持っている。
アプラハムの神が、
カナンの「いと高き神」エルであったということは、大いにありそうなことである。
その神は、自らをアブラハムにエル・シャダイとして現わすのだが、
それはエルの伝統的な称号の一つであった。
他のところでは彼は、
エル・エリヨン(最高の神)、あるいはベテルのエルと呼ばれている。
カナンの高き神の名前は、
イスラ・エルとかイシマ・エルとかというヘブライの名前に残されている。
彼らはこの神を、中東の異教徒たちにとっても親しみがあるような仕方で経験したのである。
われわれは何世紀も後のイスラエル人たちが、
ヤハウェのマナあるいは「聖性」を恐るべき経験だと思ったことに触れるであろう。
例えば、シナイ山で彼はモーセに、驚異の念を起こさせる噴火のただなかに現われ、
イスラエル人たちは遠く離れていなければならなかった。
それと比べるならば、アプラハムの神エルは、非常に温和な神であった。
ヤハウェが出エジプトの残酷で暴力的な神であり続けはしなかったということを見るであろう。
とはいえ、この神話は、
唯一神論的な三つの宗教すべてにおいて重要なものであり続けたのである。
一見驚くべきことであるが、イスラエル人は、この神を、
以前のものとは分からないほどに、超越と慈愛の象徴に変貌させようとした。
だが出エジプトの血腥い物語は、
神聖な復讐心に富む神学の危険な思想に霊感を与え続けるのであった。
この神学はあの三つの宗教すべての歴史において、
様々な時代に、恐ろしい役割を演じてきたのである。
人間のすべての考えと等しく、神という理念も、不当に利用されたり乱用されたりする。
「選ばれたる民」とか「神一の選び」とかという神話は、
不幸にも現代増大しつつあるユダヤ教・キリスト教・ムスリームの、
ファンダメンタリズムに至るまで、偏狭な部族的神学にしばしば霊感を与えてきているのである。
歴史における最初の成功した農民の蜂起に、
霊感を与えたのかもしれない神は、革命の神である。
三つの宗教すべてにおいて、この神は社会的正義という理念に霊感を与えてきた。
イスラエル人たちは、ヤハウェを「われらの父祖の神」と呼んだが、
それは、族長たちによって礼拝されていたカナンの「いと高き神」エルとは、
きわめて異った神であったように思われる。
それはイスラエルの神になる前には、他の人々の神であったかもしれない。
モーセヘの彼の初期のすべての顕現においては、ヤハウェは繰り返し、
しかも時には長々と、たとえ元来エル・シャダイと呼ばれていたにせよ、
まさにアブラハムの神であることを主張している。
異教的古代においては、神々はしばしば融合・集合したり、
また、ある地域の神が他の民族の神と同じであるとして受け入れられたりしたのである。
われわれが確認できることのすべては、出エジプトの出来事が、
ヤハウェをはっきりとイスラエルの神としたことと、
モーセがイスラエル人に、その神が本当にエルと同じ一柱の神であり、
アブラハム、イサク、ヤコブによって愛されていた神であることを、
確信させえたということだけである。
カレン・アームストロング「神の歴史」
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この混同が、一神教の闘争の悲劇を生みました。
ヤハウェとエルの神は別の存在であります。
エルは、中東一帯で古代から信仰されていた神でした。
この愛の神こそが、イエスが「我が父」と呼んだ存在。
このエルの神は後にインドに仏陀として転生した霊存在であり、
そして現代の日本に、その本体部分が降臨しているのです。
ユダヤ教徒もキリスト教徒もイスラム教徒も、地球神エルの元で手を結ばねばなりません。
アプラハムにせよモーセにせよ、
今日のわれわれが信じるような具合に彼らの神を信じていたなどと仮定するべきではない。
われわれは聖書の物語やその後のイスラエルの歴史にひじょうに親しんでいるので、
後のユダヤの宗教の知識を、これらの初期の人々に投影する傾向を持っている。
アプラハムの神が、
カナンの「いと高き神」エルであったということは、大いにありそうなことである。
その神は、自らをアブラハムにエル・シャダイとして現わすのだが、
それはエルの伝統的な称号の一つであった。
他のところでは彼は、
エル・エリヨン(最高の神)、あるいはベテルのエルと呼ばれている。
カナンの高き神の名前は、
イスラ・エルとかイシマ・エルとかというヘブライの名前に残されている。
彼らはこの神を、中東の異教徒たちにとっても親しみがあるような仕方で経験したのである。
われわれは何世紀も後のイスラエル人たちが、
ヤハウェのマナあるいは「聖性」を恐るべき経験だと思ったことに触れるであろう。
例えば、シナイ山で彼はモーセに、驚異の念を起こさせる噴火のただなかに現われ、
イスラエル人たちは遠く離れていなければならなかった。
それと比べるならば、アプラハムの神エルは、非常に温和な神であった。
ヤハウェが出エジプトの残酷で暴力的な神であり続けはしなかったということを見るであろう。
とはいえ、この神話は、
唯一神論的な三つの宗教すべてにおいて重要なものであり続けたのである。
一見驚くべきことであるが、イスラエル人は、この神を、
以前のものとは分からないほどに、超越と慈愛の象徴に変貌させようとした。
だが出エジプトの血腥い物語は、
神聖な復讐心に富む神学の危険な思想に霊感を与え続けるのであった。
この神学はあの三つの宗教すべての歴史において、
様々な時代に、恐ろしい役割を演じてきたのである。
人間のすべての考えと等しく、神という理念も、不当に利用されたり乱用されたりする。
「選ばれたる民」とか「神一の選び」とかという神話は、
不幸にも現代増大しつつあるユダヤ教・キリスト教・ムスリームの、
ファンダメンタリズムに至るまで、偏狭な部族的神学にしばしば霊感を与えてきているのである。
歴史における最初の成功した農民の蜂起に、
霊感を与えたのかもしれない神は、革命の神である。
三つの宗教すべてにおいて、この神は社会的正義という理念に霊感を与えてきた。
イスラエル人たちは、ヤハウェを「われらの父祖の神」と呼んだが、
それは、族長たちによって礼拝されていたカナンの「いと高き神」エルとは、
きわめて異った神であったように思われる。
それはイスラエルの神になる前には、他の人々の神であったかもしれない。
モーセヘの彼の初期のすべての顕現においては、ヤハウェは繰り返し、
しかも時には長々と、たとえ元来エル・シャダイと呼ばれていたにせよ、
まさにアブラハムの神であることを主張している。
異教的古代においては、神々はしばしば融合・集合したり、
また、ある地域の神が他の民族の神と同じであるとして受け入れられたりしたのである。
われわれが確認できることのすべては、出エジプトの出来事が、
ヤハウェをはっきりとイスラエルの神としたことと、
モーセがイスラエル人に、その神が本当にエルと同じ一柱の神であり、
アブラハム、イサク、ヤコブによって愛されていた神であることを、
確信させえたということだけである。
カレン・アームストロング「神の歴史」



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2008.11.03
坊主憎けりゃ
坊さんと接する機会の多い今日このごろ。
最近の愚僧は開き直っていて、実生活でもカミングアウトぎみ。
仏陀が再誕しているんだぞ、と。
日本仏教には、厳密な意味でのサンガはもう存在しません。
残っているのは、職業僧侶の私利私欲の思惑のみ。
坊さんには驚くほど、
快楽主義者、エゴイスト、原理主義者、虚無主義者、無神論者、不可知論者、唯物論者が多い。
魔にやられている人も・・・。
まず信仰をあざ笑う傾向があります。
一番の重病患者は、坊さんなのかもしれません。
坊さんは新興宗教やスピリチュアルを批判している暇があったら、
神様仏様、人様のために働きなさい!!
愚僧も、日々精進します。
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仏陀が再誕しているんだぞ、と。
日本仏教には、厳密な意味でのサンガはもう存在しません。
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坊さんには驚くほど、
快楽主義者、エゴイスト、原理主義者、虚無主義者、無神論者、不可知論者、唯物論者が多い。
魔にやられている人も・・・。
まず信仰をあざ笑う傾向があります。
一番の重病患者は、坊さんなのかもしれません。
坊さんは新興宗教やスピリチュアルを批判している暇があったら、
神様仏様、人様のために働きなさい!!
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