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2008.11.04 死の瞬間
誰にとっても、死は未知の経験です。

しかし、その為のガイドは、すでにたくさんあります。

何事も、案ずるより産むがやすし。

生前から、まだ来ぬ死に対して、
取り越し苦労をして、無駄な心労を感じるのは損です。

誰にも平等に訪れる死は、決して怖いものではありません。

医師であり霊能者でもあるブレンダ・デーヴィス氏はこう言っています。




私たちがいつ、どうやってこの世を去るかは重要な問題です。
それは私たちが地上で行う最後の行動であり、
そこには現世での最後の学びと教えが含まれています。
それはいつでも完壁なタイミングで起こり、
魂の次元に戻る前に残されたカルマを解消する最後の機会を、
私たちがどうやって使うかもまた完壁です。

私たちが死ぬのは、それがまさに正しい瞬間だからです。
後に残していく人たちは嘆き悲しむかもしれません。
が、彼らはそれを乗り越え、
そして私たちがこの世に生きて死んだことによって、より大きくなるのです。
ちょうど私たちが、私たちの人生に現れ、
去っていった人たちがいたおかげで、以前より大きくなったように。

医師という立場上、私は何人もの人の臨終に立ち会う光栄を与えられてきました。
その中には初め、この人生から旅立つ最後の旅路を恐れていた人もいましたが、
すべての場合において、最後には心安らかに旅立っていきました。
最後の数分間、数日間、あるいは数週間、意識は非常な速さで発達するのです。
何年か前、夜中に電話がかかってきて、
肝不全で死にかかっている11歳の子供にヒーリングを行ってくれと頼まれました。
私はその部屋に着いた途端、臨終の時が近く、
私のすべきことは生命を長らえさせることよりも、魂がこの世を去るのを助け、
家族に対するヒーリングを行うことであるということがわかりました。
実際、その子の肉体はまだ生命を保ってはいましたが、
魂はすでに肉体から離れていました(これはよくあることです―ただし、肉体が死ぬまでは、
銀色の糸状のものによって肉体が魂に結びついたままであることが多いのですが。
適当な時間が来るとこの糸はすっと消えて、魂は自由になります)。
若い人が亡くなったときによくそうするように、その子は、
せめていくらかの慰めや死後存続の印を残そうとし、
また、去っていく自分よりも残された彼らのほうが辛いという事実に対する思いやりの心から、
嘆き悲しむ両親と祖父母の周りをしばらく漂ってから去っていきました。
若者や子供の死は悲劇と受け取られがちです。
彼らは人生の入口にいて、まだその可能性を全うすることも、
人生の使命を達成することもしていない、と考えるからです。
けれども、その子の仕事が未完成だったと誰が決められるでしょうか?
彼らはほんの束の間やって来て、
現世では学ぶことよりも教えることのほうが多かったのです。
ですから、彼らの死を悲劇として嘆き悲しむよりも、
彼らは今回は短い間だけ地上に滞在することを選んだ、素晴らしい、偉大な魂であり、
そして私たちが彼らの魂と知り合えたのは非常に幸運であったのだ、
と考えることができるのではないでしょうか。

死の瞬間には実際には何が起きるのか、それについては様々な説があります。
エリザベス・キューブラー・ロス博士によれば、
死とは、蝶が蛹の殻を脱ぎ捨てるのと同じように、単に肉体を脱ぎ捨てるということにすぎず、
続いてより高い意識状態への変容が起こり、私たちはそこで認識、理解、成長を続けます。
ブルース・ゴールドバーグは死を、肉体の次元では、
通常アクセスを許されない世界の存在に気づかせてくれる最良の友、と呼びます。
何百年も前に書かれた『チベットの死者の書』は、チベット仏教の伝統に従って、
死のプロセスを描写し、その過程をどのように進めば良いかを伝授しています。
また、ソギャル・リンポチェの『チベットの生と死の書』は、
魂がこの世を去る直前、その最中、そしてその後について、詳細に論じています。
その他、死に立ち会ったリ、クライアントとのセッションから情報を集めたヒーラー、
霊媒、超能力者、神秘主義者などによる興味深い報告もありますし、
前世退行によって得られる報告から知識が得られることもあります。
魂は頭頂のクラウン・チャクラから出て行くという考え方もありますし、
ソーラー・プレクサス・チャクラやハート・チャクラから出て行くのを目撃したと言う人もいます。
あるいは、肉体からその鋳型(テンプレート)が浮き上がって、一瞬そこに漂うか、
または滑らかに流れて上に昇っていき、視界から消えるのが見えると言う人もいます。
大きな衛撃を伴った死の場合でも、魂は同じようなシンプルなやり方で出て行くようです。
イアン・スティーヴンソン博士の提唱する説によれば、
彼が心搬体と名付けた目に見えない電磁場が存在し、
それが一つの生涯から次の生涯へと、記憶を伴って移動し、
新しい胎児に刻み込まれるのだといいます。
肉体的な記憶は母班として、感情や行動の記憶は性格として現れるかもしれません。
魂は故郷に向かっているわけですが、肉体を去るにあたって混乱や極度の疲労、悲しみ、
怒りさえも感じている場合があるかもしれません。
けれどもそこにはいつも必ず愛情と理解に満ちたガイドがいて、
魂がそれらと向き合うのを助けています。
光と愛だけがあるその場所に私達が戻るとき、そこには必ず、
私たちより先に到着した人たちによる喜びに満ちた歓迎、再会、祝賀が待っています。
死の瞬間そこには天使がおり、もちろん、私たちよりも先に亡くなり、
まだ生まれ変わっていない人の魂もそこにいます。

たとえ長期間にわたる変性疾患や苦しみのすえの死であろうとも、
死の大半は穏やかなものです。
死の前の数週間、数ヶ月、ときには数年にも及ぶ闘いにもかかわらず、
最後に魂が肉体から抜け出るのがいかに簡単か、
そして残された身体には穏やかな雰囲気が漂うのを見て、家族はしばしば驚嘆します。
まるで、痛みも辛さもなくなって、ただ眠っているようだ、という言葉をよく耳にします。

「死が生でなく、生が死でないと誰にわかるだろうか?」と尋ねたのはエウリピデスでした。
実は、すべてが生であり、死は存在しないのです。
この地上での生も、
その後に続く生(それを中間生とか中間期間と呼ぶこともありますが)も、どちらも現実です。
私たちは、学び、遊ぶこの物質界から、私たちが真に属するところへと帰り、
再び、私たちが天国と呼ぶ素晴らしい状態の中で自由になるのです。
けれどもこの地上でも天国を作り上げられるかどうかは私たち次第です。
そして私たちのほとんどがそのための努力をしています。

「過去世ソウルヒーリング」




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2008.11.04 ニルヴァーナ
仏教の理想、ニルヴァーナ(涅槃)。

それがしばしば虚無主義とも誤解されるのは、
その境地を言語で説明することが不可能であるからです。

それは内的次元の体験であります。




インドにおいては、神々はもはや、
礼拝者たちの外側に存在するものであるとは見られなくなっていた。
そういうものの代わりに、人々は真理の内的成就を達成しようと求めていたのである。
神々は、インドではもはやあまり重要でなくなっていた。
後に、神々よりも上だと思われるようになった宗教的人間が、
神々を凌駕することになるのであった。
それは人間の価値の驚くべき主張であったし、運命を支配しようという願望でもあった。
それは、この亜大陸の偉大な宗教的洞察であった。
ヒンドゥー教や仏教という新しい宗教は神々の存在を否定しなかったし、
人々が神々を礼拝するのを禁じたりしなかった。
彼らの考えにおいては、そのような抑圧や否定は有害であった。
そうする代わりに、ヒンドゥー教徒や仏教徒は、神々を超越する新しい道を求めていたのだ。

仏教徒が瞑想において至福を経験したり、あるいは超越の感覚を経験するときには、
彼らはこのことが超自然的存在との接触に由来するとは信じない。
そのような状態は人類にとって自然なのである。
つまり、そうした状態は、正しい生き方をし、
ヨーガのテクニックを学べば、誰にでも達成できるのである。
それゆえ、神に頼る代わりに、プッダは弟子たちに、自らを救えと促したのである。

ブッダは、苦からの脱却を勝ち取ることができると教えた。
それは生きとし生けるものへの憐れみに満ちた生活を送ることによって、
また優しく親切に、そして正確に語り行動しつつ、
心を曇らせる薬や酒のようなものをすべて控えることによって可能なのだ、というものであった。
彼はそれを発見したと主張した。
「わたしは、かつての時代の諸仏が歩んだ古来の道、古来の小道を見出した」と。
それは、異教の諸法則と同様に、
人生そのものの条件に内在する存在の本質的な構造と結びついていた。
カルマ(業)は、人間を無限の輪廻転生のサイクルヘと縛り付け、
連綿たる苦多き生のなかへ引き込む。
だがもし人間が、その自我中心の態度を改めるならば、自らの運命を変えることができる。
ブッダは輪廻の過程を、灯火を点す光になぞらえたが、
その最初の灯火から次の灯火が点され、さらに次々と点され続け、
最後には消えることのないものとなる。
もしある人が、その死に際してさえなお誤った態度で燃え続けるならば、
その人はただもう一つの灯火を点すだけである。
だがもし火が消されたならば、苦のサイクルは終わり、ニルヴァーナが達成される。
「ニルバーナ」は文字通りには、「冷めること」あるいは「消えること」を意味する。
しかし、それは単に消極的状態ではなく、仏教的生においては神に相似する役割りを果たす。
エドワード・コンゼが、その著『仏教―その本質と発達』において説明しているように、
仏教徒はしばしば、究極的リアリティーであるニルヴァーナを叙述するために、
有神論者たちが用いるのと同じイメージを用いる。
「われわれは、ニルヴァーナが永続的、安定的、不滅、不動、無量寿、
不死、不生、不生成であり、力、至福、幸福であり、確かな隠れ家、憩いの場、
揺るぎない安らぎの場、まことの真理、最高の現実であり、
善そのもの、最高の目標、永遠の、隠れたる計り知れぬ平安である、と告げられている。」

カレン・アームストロング「神の歴史」




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日経株価は、今後必ず復活するという意見が出ています。

世論で悲観論が支配的なのは、
良いことをいうとはずれた場合に叩かれるので、悪くいっておくと安心だからです。

世界は、日本のリーダーシップを求めているのに、
国内では足の引っ張り合いばかりしています。

世界の繁栄と幸福は、日本にかかっているのです。

もし、オバマ氏が大統領になると、
アメリカは世界の警察であることを止めることが予想され、
中国、ロシア、北朝鮮の脅威が増すことになります。

命がけで国土を守ってくださる自衛隊の皆様をもっと尊敬しましょう。




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