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2008.11.07
多神信仰
現代の僧侶は、仏教だけは唯一、神を説かない宗教であるとしたり顔でいう。
そして、一神教を、神が天地や人間を創造したなど非科学的だと批判する。
学者達も、仏教のみが合理的な宗教だと自慢げである。
あまりにもお粗末である。
神など存在しない、ということはどういうことだろうか?
すべては偶然に帰され、あらゆる神秘は人間知性によって暴露される。
脳を離れたところに、意味や価値を認めないということである。
神を否定するということは、唯物論を支持するということと同じ。
神を否定するということは、宗教を否定することにもなろう。
仏教は、無神論や唯物論などとは断じて相容れない。
そのような軽薄な思想が、何千年にもわたって、人々の救いとなれるはずはない。
仏教は神を説かないというのは、悪質な印象操作である。
事実は、仏教は多神信仰である。
仏陀は、創造神についても人格神についても、それ以上の存在についてさえ言及している。
そして、仏教では、神々や諸菩薩や如来、天部などの霊存在も信仰の対象となる。
同じ意味では、一神教といえども、実は多神を認めていることになる。
神の下には、天使や聖霊がたくさん鎮座しているのである。
一神教の開祖達が神と呼ぶ存在は、人格を持った神であった。
究極の神が、人間に啓示を与えることなどありえない。
それをしているのは、人格神か地球意識レベルの霊体である。
そして、創造神といえども、究極の神ではない。
創造神もまた、創られた存在である。
究極の神、絶対神は、人間の理解を超えている。
だから、仏陀は、外に神を探すよりも、内面の神性を開発せよと説いたのだ。
即ち、多神こそ霊的世界の真実である。
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そして、一神教を、神が天地や人間を創造したなど非科学的だと批判する。
学者達も、仏教のみが合理的な宗教だと自慢げである。
あまりにもお粗末である。
神など存在しない、ということはどういうことだろうか?
すべては偶然に帰され、あらゆる神秘は人間知性によって暴露される。
脳を離れたところに、意味や価値を認めないということである。
神を否定するということは、唯物論を支持するということと同じ。
神を否定するということは、宗教を否定することにもなろう。
仏教は、無神論や唯物論などとは断じて相容れない。
そのような軽薄な思想が、何千年にもわたって、人々の救いとなれるはずはない。
仏教は神を説かないというのは、悪質な印象操作である。
事実は、仏教は多神信仰である。
仏陀は、創造神についても人格神についても、それ以上の存在についてさえ言及している。
そして、仏教では、神々や諸菩薩や如来、天部などの霊存在も信仰の対象となる。
同じ意味では、一神教といえども、実は多神を認めていることになる。
神の下には、天使や聖霊がたくさん鎮座しているのである。
一神教の開祖達が神と呼ぶ存在は、人格を持った神であった。
究極の神が、人間に啓示を与えることなどありえない。
それをしているのは、人格神か地球意識レベルの霊体である。
そして、創造神といえども、究極の神ではない。
創造神もまた、創られた存在である。
究極の神、絶対神は、人間の理解を超えている。
だから、仏陀は、外に神を探すよりも、内面の神性を開発せよと説いたのだ。
即ち、多神こそ霊的世界の真実である。



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