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2008.11.15
仏教学の夜明け
閉鎖系の仏教学のなかにあって、
神秘への開けを提唱する津田真一博士の学説は、
この上なく、重要な意味を持っています。
従来の学説でいくと、仏教はまるでニヒリズムであり、宗教ですらありません。
津田仏教学には、仏教再生の可能性が秘められているのです。
仏教が、私の国、日本の仏教学会において、これまでずっと支配的だった、
それ自体根拠のない思い込み、「仏教は神観念を立てない宗教だ」という思い込み、
さらに申しますなら、仏教=無神論の神話とは全く違って、
最初から神の立場、ゴータマ・ブッダの宗教でさえもその背後に、
神の存在を想定しないかぎりに正しくは理解できない、
そういう意味で徹頭徹尾、神の宗教であることは、
虚心にそのテキストに対するかぎり全く自明のことなのです。
実に、『法華経』は、現実の釈迦仏がそれであり、且つ、
われわれ人間が「すでにそれなのである」と言われるところの、
いわば等身大の仏の背後に存在している巨大な、宇宙大の如来、
すなわち、神としての如来の「存在」を、その現実相、すなわち、「実相」においていう経典、
さらに言うならば、その神としての如来の存在の「印」としての経典なのであり、
そしてその場合、「一乗」の規定はその神としての如来の「加持」、
まさにK・バルトのいう「神の臨在」の事態における、
われわれ人間の生のすでに絶対的に肯定されている現実と、
しかも、そのわれわれ人間の一人一人のその生が、
神の側の必然性によって、神に向って規定されているという、
まさに、神と人間との対応を「表現」するものに他ならないのです。
私たちは、今、ここで、この世界の上の一点に現存していますが、
これは、その神話的設定によるなら、われわれが、それぞれ、
無始時来ずっと連続してきたわれわれの輪廻の生の連鎖の、
目的論的な終局の位置に置かれているのだ、ということを意味しております。
そして、この輪廻的生の連鎖の全過程は、その神の目的論にもとづいた行為によって、
完全にカヴァーされているのだ、というのです。
この地上に存在しているわれわれ個々の人間のそれぞれの生は、
その神、釈迦牟尼如来の目的論によって、その無始なる始源以来一貫して支配され、
その遠大な目的論の終局、として、今、ここにあるのです。
『リグ・ヴェーダ』の「原人の歌」における、
あの悪名高い(なぜなら、その讃歌こそがカースト差別の源泉とされていますので…)、
プルシャ、すなわち、宇宙大のアントローポスです。
そのプルシャは、私のいうAB二世界説において、
而一而二なるその二世界の全体をその「身体性と生命」とし、
その上に「眼」の原理において超出した神です。
実は、『法華経』の法身釈迦牟尼如来ないしは、
「寿量品」の久遠実成の釈迦も、
密教の大日如来も、浄士教の阿弥陀如来も、
はてはキリスト教の「神」も、そのプルシャなのです。
その巨大な、宇宙大のプルシャを仮に大プルシャと称するなら、
その二世界のうちのB世界の内実をなすわれわれ個々の人間は、
それぞれ小ブルシャと称すべきものです。
プルシャとは、本来、人間・アントローポスを意味する言葉であるからです。
そして、まずA世界そのものである大プルシャは、
われわれB世界の全体の上に加持=現臨しており、
且つ、われわれ個々の小さな人間、小プルシャ一人一人の上に、
それぞれその宇宙大の存在性の全体を挙げて現臨しております。
われわれ小プルシャ一人一人は、それぞれ、
その大プルシャと一対一に対応しているのです。
「反密教学」
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神秘への開けを提唱する津田真一博士の学説は、
この上なく、重要な意味を持っています。
従来の学説でいくと、仏教はまるでニヒリズムであり、宗教ですらありません。
津田仏教学には、仏教再生の可能性が秘められているのです。
仏教が、私の国、日本の仏教学会において、これまでずっと支配的だった、
それ自体根拠のない思い込み、「仏教は神観念を立てない宗教だ」という思い込み、
さらに申しますなら、仏教=無神論の神話とは全く違って、
最初から神の立場、ゴータマ・ブッダの宗教でさえもその背後に、
神の存在を想定しないかぎりに正しくは理解できない、
そういう意味で徹頭徹尾、神の宗教であることは、
虚心にそのテキストに対するかぎり全く自明のことなのです。
実に、『法華経』は、現実の釈迦仏がそれであり、且つ、
われわれ人間が「すでにそれなのである」と言われるところの、
いわば等身大の仏の背後に存在している巨大な、宇宙大の如来、
すなわち、神としての如来の「存在」を、その現実相、すなわち、「実相」においていう経典、
さらに言うならば、その神としての如来の存在の「印」としての経典なのであり、
そしてその場合、「一乗」の規定はその神としての如来の「加持」、
まさにK・バルトのいう「神の臨在」の事態における、
われわれ人間の生のすでに絶対的に肯定されている現実と、
しかも、そのわれわれ人間の一人一人のその生が、
神の側の必然性によって、神に向って規定されているという、
まさに、神と人間との対応を「表現」するものに他ならないのです。
私たちは、今、ここで、この世界の上の一点に現存していますが、
これは、その神話的設定によるなら、われわれが、それぞれ、
無始時来ずっと連続してきたわれわれの輪廻の生の連鎖の、
目的論的な終局の位置に置かれているのだ、ということを意味しております。
そして、この輪廻的生の連鎖の全過程は、その神の目的論にもとづいた行為によって、
完全にカヴァーされているのだ、というのです。
この地上に存在しているわれわれ個々の人間のそれぞれの生は、
その神、釈迦牟尼如来の目的論によって、その無始なる始源以来一貫して支配され、
その遠大な目的論の終局、として、今、ここにあるのです。
『リグ・ヴェーダ』の「原人の歌」における、
あの悪名高い(なぜなら、その讃歌こそがカースト差別の源泉とされていますので…)、
プルシャ、すなわち、宇宙大のアントローポスです。
そのプルシャは、私のいうAB二世界説において、
而一而二なるその二世界の全体をその「身体性と生命」とし、
その上に「眼」の原理において超出した神です。
実は、『法華経』の法身釈迦牟尼如来ないしは、
「寿量品」の久遠実成の釈迦も、
密教の大日如来も、浄士教の阿弥陀如来も、
はてはキリスト教の「神」も、そのプルシャなのです。
その巨大な、宇宙大のプルシャを仮に大プルシャと称するなら、
その二世界のうちのB世界の内実をなすわれわれ個々の人間は、
それぞれ小ブルシャと称すべきものです。
プルシャとは、本来、人間・アントローポスを意味する言葉であるからです。
そして、まずA世界そのものである大プルシャは、
われわれB世界の全体の上に加持=現臨しており、
且つ、われわれ個々の小さな人間、小プルシャ一人一人の上に、
それぞれその宇宙大の存在性の全体を挙げて現臨しております。
われわれ小プルシャ一人一人は、それぞれ、
その大プルシャと一対一に対応しているのです。
「反密教学」



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2008.11.15
イスラム教と科学
近代科学が西洋文明で開花する以前は、
古代ギリシャ、インド、ペルシアの諸科学(数学、天文学、論理学、医学、化学)が、
イスラム世界に受け継がれ、発展しています。
宗教と科学が一体となっていた時代には、
イスラム教もまた、科学的発見に大いに貢献しているのです。
宗教は、非科学的であるという思い込みは捨てなければなりません。
9世紀に、アラブ人は、ギリシャの科学と哲学に接触するようになったが、
その結果は、一つの文化的開化であり、それはヨーロッパ的に表現すれば、
ルネサンスと啓蒙主義の交差と見られうるものであった。
多くの翻訳家たち―たいていはネストリウス派のキリスト教徒であった―が、
ギリシャ語のテクストをアラビア語で手に入るようにし、しかも輝かしい仕事をした。
アラブ人のイスラム教徒たちは今や、
天文学、錬金術、医学、数学を研究して大成功を収めたので、
9~10世紀には、アッバース朝において、
それまでの歴史のどの時代よりも多くの科学的発見がなされた。
新しいタイプのイスラム教徒が現われてきた。
それは彼らが「ファルサファー」と呼んだ理想に献身する者たちであった。
これは普通「哲学」と訳されているが、もっと広い豊かな意味を持っている。
18世紀のフランスの哲学者たちのように、
「ファイラスーフ」(ファルサファーに従事する者たち。イスラム哲学者)たちは、
彼らが全宇宙を支配し、リアリティーのすべてのレベルで認識できる、
と信じた諸法則に従って合理的に生きたいと思ったのである。
彼らは最初、自然科学に集中したが、その後必然的にギリシア的形而上学に向かい、
その諸原理をイスラムに適用しようと決心した。
彼らは、ギリシア人の神がアッラーと同一であると信じた。
彼らは、合理主義こそがもっとも進歩した宗教の形態を現すものであると信じ、
聖書の啓示された神よりも高い神についての考えを展開した。
今日ではわれわれは普通、科学と哲学を宗教に敵対的なものと見ているが、
ファイラスーフはたいてい敬虔な者たちで、自分達を預言者モハメットに忠実な者と見ていた。
彼らは、善良なイスラム教徒として政治的自覚を持っており、宮廷の贅沢を軽蔑していて、
彼らの社会を理性の支配に従って改革したいと思っていた。
彼らの冒険は重要であった。
彼らの科学的および哲学的研究がギリシア思想に支配されていたので、
彼らの信仰とより合理主義的で客観的なこの改革的見方との間の、
結びつきを見出だすことが急務であった。
神をばらばらな知的カテゴリーへと貶め、
信仰を他の人間的関心から孤立させて考えることは、もっとも不健康なことでありうる。
ファイラスーフは宗教を廃葉するなどという意図はまったく持っていず、
彼らが原始的で偏狭な要素と見なしていたものから宗教を浄化したいと思っていたのである。
彼らは、神が存在するということを疑ったことなどなかった―実際、
彼らは神の存在を自明なものとしていた―だが、アッラーが、
彼らの合理主義的理想と相容れるものだということを示すために、
このことを論理的に証明することが重要であった。
カレン・アームストロング「神の歴史」
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古代ギリシャ、インド、ペルシアの諸科学(数学、天文学、論理学、医学、化学)が、
イスラム世界に受け継がれ、発展しています。
宗教と科学が一体となっていた時代には、
イスラム教もまた、科学的発見に大いに貢献しているのです。
宗教は、非科学的であるという思い込みは捨てなければなりません。
9世紀に、アラブ人は、ギリシャの科学と哲学に接触するようになったが、
その結果は、一つの文化的開化であり、それはヨーロッパ的に表現すれば、
ルネサンスと啓蒙主義の交差と見られうるものであった。
多くの翻訳家たち―たいていはネストリウス派のキリスト教徒であった―が、
ギリシャ語のテクストをアラビア語で手に入るようにし、しかも輝かしい仕事をした。
アラブ人のイスラム教徒たちは今や、
天文学、錬金術、医学、数学を研究して大成功を収めたので、
9~10世紀には、アッバース朝において、
それまでの歴史のどの時代よりも多くの科学的発見がなされた。
新しいタイプのイスラム教徒が現われてきた。
それは彼らが「ファルサファー」と呼んだ理想に献身する者たちであった。
これは普通「哲学」と訳されているが、もっと広い豊かな意味を持っている。
18世紀のフランスの哲学者たちのように、
「ファイラスーフ」(ファルサファーに従事する者たち。イスラム哲学者)たちは、
彼らが全宇宙を支配し、リアリティーのすべてのレベルで認識できる、
と信じた諸法則に従って合理的に生きたいと思ったのである。
彼らは最初、自然科学に集中したが、その後必然的にギリシア的形而上学に向かい、
その諸原理をイスラムに適用しようと決心した。
彼らは、ギリシア人の神がアッラーと同一であると信じた。
彼らは、合理主義こそがもっとも進歩した宗教の形態を現すものであると信じ、
聖書の啓示された神よりも高い神についての考えを展開した。
今日ではわれわれは普通、科学と哲学を宗教に敵対的なものと見ているが、
ファイラスーフはたいてい敬虔な者たちで、自分達を預言者モハメットに忠実な者と見ていた。
彼らは、善良なイスラム教徒として政治的自覚を持っており、宮廷の贅沢を軽蔑していて、
彼らの社会を理性の支配に従って改革したいと思っていた。
彼らの冒険は重要であった。
彼らの科学的および哲学的研究がギリシア思想に支配されていたので、
彼らの信仰とより合理主義的で客観的なこの改革的見方との間の、
結びつきを見出だすことが急務であった。
神をばらばらな知的カテゴリーへと貶め、
信仰を他の人間的関心から孤立させて考えることは、もっとも不健康なことでありうる。
ファイラスーフは宗教を廃葉するなどという意図はまったく持っていず、
彼らが原始的で偏狭な要素と見なしていたものから宗教を浄化したいと思っていたのである。
彼らは、神が存在するということを疑ったことなどなかった―実際、
彼らは神の存在を自明なものとしていた―だが、アッラーが、
彼らの合理主義的理想と相容れるものだということを示すために、
このことを論理的に証明することが重要であった。
カレン・アームストロング「神の歴史」



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2008.11.15
感謝
全てを、白紙にしてみる。
先入観なしに、感じてみる。
すると、無意識に呼吸をしている自分に気づく。
心臓が動いている。
手足を思うがままに動かせる。
目でいろんなものが見える。
まわりの音が聞こえてくる。
心に意識を集中する。
考えることが出来る。
感謝の気持ちが沸いてくる。
自分のものなど、何一つ無かった。
当たり前なんか、どこにも無かった。
全てが与えられていた。
そして、大いなる愛の中にあった。
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先入観なしに、感じてみる。
すると、無意識に呼吸をしている自分に気づく。
心臓が動いている。
手足を思うがままに動かせる。
目でいろんなものが見える。
まわりの音が聞こえてくる。
心に意識を集中する。
考えることが出来る。
感謝の気持ちが沸いてくる。
自分のものなど、何一つ無かった。
当たり前なんか、どこにも無かった。
全てが与えられていた。
そして、大いなる愛の中にあった。



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