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2008.11.17 死後存続
死後存続の証拠は、実はたくさん存在します。

科学的には説明がつかなくても、
現象の存在は確認されうる、という事象はたくさんあります。

例えば、
電子機器を使った死者とのトランスコミュニケーションの研究では、
真剣な研究者達が、何十年にもわたって実験結果を積み重ねています。

その研究者の数は拡大しており、現在は2万人にも及ぶと推定されています。

その他にも、臨死体験に関わる臨床研究でも、
着実に死後存続の証拠は集められています。

死後存続が科学的に認められるような、スピリチュアルの夜明けはいつになるのでしょうか?




感覚‐還元主義的経験主義(感覚器官を通して得られる情報のみが真実であり、
直接観察できない対象は観察可能なものに還元されないかぎり、
科学には持ち込むべきでない、そして、知識の源泉はもっぱら感覚的経験にあるとする、
近代科学を支えてきた立場)は、西洋社会のほとんどすべての部分に影響を及ぼしている。
デイヴィット・フォンタナは、
徹底的な研究を元に著した『死後の世界は存在するか?』のなかで、
死後の世界に関する問いに対する抵抗は、
既存の科学、学問としての超心理学、既存の宗教、そして一般市民という、
社会の四つの部分に広がっていると記している。
科学者たちは、問われると、精神や意識が、
何らかの形で死後も存続するという確かな証拠は見当たらないと答えることが多いが、
彼らの大部分は、証拠が存在することすら知らない―そして、
そのような証拠を突きつけられると、そんなものは単なる迷信だと退ける傾向がある。
変則的な現象を研究するために作られた学問分野そのものである超心理学は、
死後の世界に関連する現象に注目するのを避けることが多い。
超心理学は、科学のためにこそ約75年間にもわたって、
献身的に打ち込んできたにもかかわらず、多くの超心理学者は、霊媒能力、幽霊、
そしてその他死後も意識が存続していることに関連する現象の研究に取り組むと、
超心理学という学問が科学の一分野として受け入れられなくなるかもしれないと恐れている。
既存の宗教はといえば、あの世からのコミュニケーションを、魔術や悪魔の力と同一視し、
死後の精霊や魂や意識の存続は、教義と信仰の問題だと主張しているにもかかわらず、
それを研究し明らかにできるかもしれない事実についての情報を持っていたとしても、
そのようなものを提供することはめったにない。
次に一般市民だが、死後の精神の存続については、
研究するのを反対するというより、そのようなことを考えること自体を避けている。
この話題そのものがタブーとなってしまったのだ。
スタニスラフ・グロフは、『究極の旅』という著書のなかで、死という現象と、
それに関わるすべての事柄に対する関心が欠如しているという奇妙な事実を取り上げる。
現代社会に内在する文化的偏見は、死後の精神の存続に関する現象を研究したり、
認識したりすることを阻むのみならず、死そのものや、
死を迎えるということにまつわるすべての経験をないがしろにする傾向をもたらす。
現代人は、意識は、脳によって生みだされた物質の附帯現象だと確信している。
このような考え方は、現代の文明の信条や認識にまでも大きな影響を及ぼしている。


アーヴィン・ラズロ「グローバルブレイン未来への鍵」




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2008.11.17 永遠の行
仏陀は現代に生まれて、再び法を説かれています。

仏法とは、仏に成るための教えであり、仏弟子は、永遠の行の道を歩むのです。




諸々の比丘、比丘尼たちよ。
私は、あまりにも多くのことをおまえたちに期待しているかもしれぬ。
おまえたちは、その期待の重さに胸潰れる思いがしているかもしれぬ。
また、無限の努力精進を重ねてゆかねばならぬことに、
さて、いったいどこまでこの意志を貫くことができるかと、
いぶかっているかもしれぬ。
されど、私はおまえたちに言おう。
おまえたちの本来の力は、
かくのごとき弱きものではないということを。
おまえたちは、偉大な偉大な力を持っているのだ。
そのことを忘れてはならない。
たとえ、今世限りの話をしてみても、
今世学んだことは、おまえたちの力になるであろうし、
今世さまざまなスポーツで鍛えた筋肉だとて、無駄にはなるまい。
そのように今世限り獲得したものでさえ、
おまえたちの力になるというのであるならば、
ましてや、幾転生、幾十転生、幾百転生、
我が下で共に過ごしてきたというならば、
その力が、世人の及ぶところであろうはずもない。
おまえたちは、それだけ永い間、
仏の弟子として修行を重ねてきたのだ。
不退転の決意の下に、必ず、今日よりも明日、
明日よりも明後日ということを合い言葉として、
倦まず弛まず、努力を重ねてきたのだ。
そのおまえたちが、少々のことで心をぐらつかせ、
少々のことで退転してしまうとは、私にはとうてい思えないのだ。
師と弟子とは、心のなかで、深い深い絆によって結ばれている。
この絆を断ち切ることは、難しいものであるのだ。
我は、過去、幾千、幾万の教えをおまえたちに説いてきた。
その教えの尊きことも当然であるが、
その教えを生み出していくその過程において、
我が努力を重ねていたことをもって、
おまえたちに「参考にせよ」と言い続けてきたはずである。
すなわち、
「我が後ろ姿を見よ」「我が背に従いて来よ」と言い続けてきたはずである。
師である私が、まったく別格の存在として、
一切の修行を排し、そして尊いのであるならば、
おまえたちは自分の非力を感じて、精進を諦めてしまうかもしれぬ。
しかし、師である私も、
あらゆる転生の機会において、努力精進を積み重ねてきたのだ。
師であり続けるためには、
弟子以上の努力精進を積み重ねることは、当然であると思う。
その私の後ろ姿を見て、おまえたちも、あのように努力をすれば、
やがては自分も、そのような境地に到達できるのではないかと考えたはずだ。
その道り。
我は、何度も何度もおまえたちに言った。
人間には、すべて等しく仏性の力が宿っている。
仏性とは、仏と同じ性質が宿っているということなのだ。
仏と同じ性質が宿っておりながら、
仏と同じ境地に達していないということは、
過去の修行が、まだ十分ではなかったのであり、
今世の修行も、まだ十分ではなかったということなのだ。
さすれば、過去を語っても、今さら始まるまい。
今日ただいまより、精進を積み重ねる以外にないではないか。
その精進の姿をこそ、まず我に示せ。
その精進の姿をこそ、我が前に示せ。

諸々の比丘、比丘尼たちよ。
最初におまえたちに私が語った通り、
おまえたちは、この仕事を難しいと思ってはならぬ。
おまえたちには、不滅の力が与えられている。
その不滅の力は、
第一は、本来、おまえたちが仏の子であるという事実に起因し、
第二は、過去幾十転生、幾百転生、幾千、幾万転生を、
仏の弟子として生きてき、学んできたという事実に起因するのだ。
仏の子が、仏の教えを学び続けてきたのだ。
さすれば、その力は無限に近いものであると言ってよいであろう。
この湧出してくる力を楽しめ。
この噴き出してくる叡智を喜べ。
この噴き出して止まぬ愛の力を尊べ。
おまえたちが、その心に聖なる使命を刻み、
そして、その使命を遂行せんとして、強く心に決意した時に、
おまえたち一人ひとりが、地涌の菩薩となるのだ。
あたかも、大地から菩薩が湧いて出たかのように、
次から次へと、この地に菩薩が溢れるであろう。
我は、この目にて、その姿を見たい。
地涌の菩薩が、ここにも、かしこにも、
大地から湧き出してくる姿を見たい。
そうして、菩薩の集団が地に満ちて、
大きな仕事をしていくことこそを見たいのだ。
そうであってこそ、この地上に仏国土が建設されてゆくのではないのか。
おまえたちの使命は、仏国土の建設である。
仏国土は、建設せねばならぬのだ。
しなくては、許されないものであるのだ。
そうであるならば、今日よりの道程、
決して怠けることは許されぬ。
一刻一刻を、その一歩一歩を大切にして、
地上仏国土創りに邁進してゆくことこそ、
仏の弟子たちの、最も光り輝いた姿であるのだ。
これより後、一切の言いわけを排除し、
一切の邪心を排除し、
ただ、ひたすら、この道を歩み続けることだ。





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2008.11.17 永遠なるもの
近代仏教では、輪廻転生が殆ど無視されています。

昔は、わが国でも、「袖振り合うも多生の縁」と、
不思議な過去世からの繋がりが信じられていたものでした。

輪廻を認めてしまうと、
何らかの霊的主体を認めざるを得なくなり、
近代の合理主義的仏教学にとっては、都合が悪いのです。

しかし、わが国に伝わる大乗仏教においても、
この輪廻は中核をなす思想であり、その主体についてももちろん説かれています。

私達は、無常なる存在ではあるけれども、
そのなかにあって変わらないもの、
清浄なる心、ダイヤモンドの心、仏性、如来蔵を宿している永遠不滅の存在なのです。


世尊よ、衆生のうちにあるところの如来の因子、
すなわち如来蔵は生死輪廻する場合のよりどころでございます。
世尊はかつて、『輪廻の初めはきわめ難い』と説き定められましたが、
それは、実はこの如来蔵を主題としたものでございます。
如来蔵があるからこそ輪廻が成立する、といえば、これは理に適っております。
ここで、輪廻とは、われわれが前の身に受けた諸感官が働きを失って、
別の諸感官を新たに身に受けることを輪廻と申すわけでございます。
この、死と生という二つのことをあらわす、輪廻という名は、如来蔵の同義語でございます。
ところで、世尊よ、この、死といい、生ということは、世間の常識的な言い方でございます。
死とはこれ、感覚器官の機能停止、生とはこれ、新しい感官の発生でございます。
ところが如来蔵には、生も死も、滅も起もございません。
何となれば、如来蔵は、縁起の法則に基づく生滅変化を特質とする存在の限界を超え、
常住・不変・静寂・永続的でございます。
それゆえに、世尊よ、如来蔵は、法身と本質的に結合し、不可分離であり、
またさとりの智と切り離せないところの、真実絶対の諸存在にとって、
よりどころ、支え、基盤たるものでございます。


「勝鬘経」




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