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2008.11.23 団塊挽歌
日本は未だ社会主義国。

イデオロギー闘争なる西洋思想に染まった団塊の世代の人々。

日本の伝統、文化、民族、風習、宗教をことごとく否定し、世界市民を希求する人々。

敗戦のトラウマを未だ抱え続けている人々。

何故か権力の中枢に居座っている彼らには、神や仏は存在しません。

存在するのは、この世における己の体面とプライド。

彼らにかかれば、信仰は恥かしいことのようです。


しかしそれは、世界では通用しません。

そこで彼らは、仏教を無理やり唯物論にしたてあげ、特異な思想を喧伝します。

「私は『仏教徒』であり、仏教は神を認めない唯一の信仰形態なのです」と!

厚顔無恥にもほどがあります。

そのような思想を持った学者達は、
何故か、オウム教団を擁護し、闇や退廃を賛美していました。


彼らに、宗教や道徳、善や愛や平和を語る資格はないのです。

ちなみに、現代日本の知識人の流行は、“スピリチュアル”批判です。




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2008.11.23 神は法なり
神と仏陀と法は、三位一体。

現代の仏陀は、この関係を明らかにされています。




我は久遠の仏、永遠の仏陀である。
幾転生、幾十転生、幾百転生を通じて、
我は久遠の仏であり続け、
久遠の師であり続け、
永遠の仏陀であり続けた。
永遠の仏陀とは、すなわちこれ、永遠の法そのものである。
永遠の法とは、すなわちこれ、宇宙の、根本たる神の心。
それを則として、教えとして体現しているものである。

ああ、幾星霜を経て、久しく師と弟子の契りを結んだ者たちよ。
今の時代が風雲急を告げ、救世の時代であることは、
おまえたちにも、ひしひしとわかってきたことであろう。
しかし、この我が言葉をよくよく聴くがよい。
我は救世主以上のものとして、この世に来たのである。
この地上の人びとを救うということは、
我が説く法が人びとの心にしみわたり、
学び尽くされた時に、自ずとそうなるのである。
しかし、我が説く教えは、地上の人びとを救うという、
そうした目的そのものに矮小化されてしまうものではなく、
それ以上のものであるのだ。
この我が言葉、この我が教え、それに基づいて、
この宇宙は、この世界は創られたのだ。
繰り返し、おまえたちに告げる。
この我が教えは、
単におまえたちの心を救うがためにのみ説かれているのではない。
この教えを本として、全宇宙は統べられているのだ。
この教えを実現すべく、
人類の過去・現在・未来があり、
人類なき過去にも、
人類なき未来にも、
この教えは厳然としてあり、
またあるであろうということを、私は明言しておく。
この我が説く法は、人間の出現に先立ち、
人間の消滅に後れて、なおも在るものである。
教えとは、姿を変えたる神そのものであるということを、
おまえたちは知らなくてはならない。
我が教えを読むは、神を見ると同じなのである。
神を知らんと欲せば、我が教えを見よ。
その教えこそが、姿形なき神の実体なのである。
おまえたちは空を見上げて、神を見んとするか。
おまえたちは目を閉じて、神を見んとするか。
おまえたちは想像のなかで、神を見んとするか。
それとも、おまえたちは、
霊的なる目を開いて、神の姿を見んとするか。
いずれの試みも虚しく終わるであろう。
そう、真実の神とは、姿形なきものである。
真実の神とは、この地上をも超えた、
実在世界にあるところの高級霊の姿をとった、
その霊的実在でもない。
その霊的実在を超えたるものが真実の神であり、
真実の神の姿は、教えに顕れているのだ。
よくよく聴くがよい。
手で神を触らんとし、
目で神の姿を見んとし、
その体の大きさに合わせて神を測ろうとする者たちよ。
神とは、おまえたちの五官によって捉えられるものではない。
おまえたちの想像するようなものではない。
神とは法であり、神とは教えであるのだ。
我が説くこの法こそが、
我が税くこの教えこそが、
神の実体の本質であるのだ。
我が教えを学ぶ時、
おまえたちは神の姿を見たのである。
我が教えを聴く時、
おまえたちは神の声を聴いたのである。
我が教えを理解する時、
おまえたちは神の心を理解したのである。




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2008.11.23 光の存在
人を見下したり、裁いたり、自己卑下したり。

どれも、小さな自我のなせるわざ。

誰もが神の子、仏の子。

愛の大河の前には、小我は無力。

無限の大我に目覚める時、光を放つ存在となる。




私たちがもっとも深く恐れるのは、
自分が不十分な存在であるということではない。
私たちがもっとも深く恐れるのは、
自分が計り知れないほど力に満ちた存在であるということだ。
私たちをもっとも怯えさせるのは、私たちの闇ではなく、光である。
私たちは自問する。
「自分が優秀で、素敵で、才能豊かなすばらしい存在になんてなれるだろうか」と。
だが実際、なれないものなどあるだろうか。
端役を演じるのは世の中のためにならない。
まわりの人々に遠慮して身を縮めていても何の意味もない。
私たちは誰もが、子供がそうであるように、輝く存在として生まれたのだ。
一部の人だけでなく、すべての人が。
自分自身の光を放つとき、私たちは自然に、他者が同様に輝くことを受け入れる。
自分自身の恐れから解放されるとき、私たちの存在は、必然的に、他者を解放する。


マリアン・ウィリアムソン「愛への帰還」




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