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2008.12.31 ごあいさつ
来年こそ、皆様にとって飛翔の年でありますように。

愚僧には、除夜の鐘が待っています。

皆様の御多幸と御発展を祈念して、つかせていただきます。

よいお年を!




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信仰こそは人間の希望です。

神無き時代を生きる現代人の絶望は深刻です。

無神論者の背中は何と孤独で悲しみが漂っていることでしょう。




ニーチェは『ツァラトゥーストラはかく語った』において、
神に取って替わるであろう超人の誕生を宣言した。
新しい啓蒙された人間は、古いキリスト教的諸価値に対する戦争を宣言し、
鳥合の衆の卑しい習俗を踏み躙り、
愛とか憐れみとかという弱々しいキリスト教的価値の一つをも持たない、
新しい力強い人類の先駆けとなるであろう。
今や神が死んでしまったので、
この世界が、最高の価値として神の座に取って替わるであろう。
ニーチェは教えていた。
キリスト教の神は哀れむべきもの、不条理なものであり、「生命に対する犯罪である」と。
その神は、人々が自分の体、自分の情熱、自分のセクシュアリティを恐れるように勧め、
われわれをひよわな者にする憐憫という「女々しい」道徳を促してきた。
究極的な意味や価値などは存在しないのであり、
人生の諸問題への代替物として「神」と呼ばれる放縦で偽りの万能薬を提供する、
などということは間違っていたのである。

ジグムント・フロイトは確かに、
神への信仰を成熟した人間ならば廃棄すべきである幻想と見なした。
神の理念は偽りではなかったが、
心理学によって解読される必要がある無意識の考案物であった。
人格神は高揚された父親像にすぎなかったのだ。
そのような神への希求は、強力で保護的な父親への、
また正義や公平さや永遠に続く生命への幼児的憧れに発したものである。
神は単に、これらの願望が投影されたものにすぎず、
永続的な絶望感から人間が恐れ礼拝するものにすぎない。
宗教は人類の幼児期に属するものであり、
幼児期から成熟さへの移行期に必要とされる一段階であった。
それは社会にとって不可欠の倫理的価値を促進してきた。
だが今や人類は成人に達したのであるから、それは過去のものにならねばならないのだ。
新しいロゴスである科学こそが、神の場に取って替わることができるのだ。
それは道徳性のための新しい基礎を提供できるし、
われわれが自らの恐れに直面するのを助けることができるであろう。
フロイトは、科学への彼の信仰をすこぶる強調した。
それはその激しさにおいてはほとんど宗教的であるようにさえ思えた。

C・G・ユングの神は神秘主義者の神と似ているものであり、
各人によって主観的に経験される心理学的な真理であった。
有名な「対面インタビュー」でジョン・フリーマンに神を信じるかどうかと質問されたとき、
ユングは強調して答えた。
「信じる必要などない、わたしは知っているのだ!」と。
ユングが神を信頼し続けたということは、
自己の深みにおいて存在の根底と神秘的に同一化された主観的な神は、
より人格的な神人同形論的な神―それは実に永遠の未成熟を促しうるのだ―には、
できない仕方で精神分析的な科学に直面してもなお生き残れるのだということを暗示している。

他の多くの西洋人と同様に、
フロイトはこの内面化された主観的な神に気がついていなかったように思われる。
それにもかかわらず、彼が宗教を廃棄しようとすることは危険であろうと主張したとき、
それは妥当な洞察力ある指摘だったのである。
神を廃棄しようと欲した無神論者のある者は、確かにストレスの徴候を示していた。

ニーチェは心優しい孤独な人で、病弱に悩まさせられた。
彼の「超人」とはまさに違っていたのだ。
最後には狂気に冒されてしまった。
彼は、彼の散文のエクスタシーがわれわれに想像させるかもしれないように、
喜ばしく神を捨てたのではなかった。
「多くの震えとおののきと苦渋の後に」生まれた詩のなかで、
ツァラトゥーストラをして、彼は神に戻ってくれるように訴えさせている。

汝のすべての苦痛ともども
おお、帰り来よ
なべての孤独の最後のものへと!
わが涙のすべての流れは
汝のために流れたるなり!
しかしてわが心の最後の炎は
汝に向かいて燃ゆるなり!
おお、帰り来よ!
わが知られざる神よ! わが苦痛よ! わが最後の幸せよ!


カレン・アームストロング「神の歴史」




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2008.12.31 温故知新
昔、わが国には神仏需の一致があった。

武士道の精神もこれである。

心の修養を説く日本的宗教の心学が全国に広まっていた。

寺子屋では、因果応報、道徳が教えられた。

その精神は、教育勅語に結実している。

戦後、それらは全て否定された。

そして、保守思想は根絶やしにされた。

代わってマルクス主義が新たな宗教となった。

かつて持っていた類まれなる日本人の心は失われてしまった。

和の精神、大和魂をもう一度。




教育に関する勅語

私は、私達の祖先が、遠大な理想のもとに、
道義国家の実現をめざして、日本の国をおはじめになったものと信じます。
そして、国民は忠孝両全の道を完うして、全国民が心を合わせて努力した結果、
今日に至るまで、美事な成果をあげて参りましたことは、
もとより日本のすぐれた国柄の賜物といわねばなりませんが、
私は教育の根本もまた、道義立国の達成にあると信じます。
国民の皆さんは、子は親に孝養をつくし、
兄弟、姉妹はたがいに力を合わせて助け合い、
夫婦は仲むつまじく解け合い、
友人は胸襟を開いて信じあい、
そして自分の言動をつつしみ、
すべての人々に愛の手をさしのべ、
学問を怠らず、職業に専念し、知識を養い、人格をみがき、
さらに進んで、社会公共のために貢献し、
また法律や、秩序を守ることは勿論のこと、
非常事態の発生の場合は、真心をささげて、国の平和と、安全に奉仕しなければなりません。
そして、これらのことは、善良な国民としての当然のつとめであるばかりでなく、
また、私達の祖先が今日まで身をもって示し残された伝統的美風を、
更にいっそう明らかにすることでもあります。
このような国民の歩むべき道は、祖先の教訓として、
私達子孫の守らなければならないところであると共に、
このおしえは、昔も今も変わらぬ正しい道であり、
また日本ばかりでなく、外国で行っても、まちがいのない道であります。
私もまた国民の皆さんとともに、父祖の教えを胸に抱いて、
立派な日本人となるように、心から念願するものであります。

明治23年10月30日
御名御璽





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2008.12.29 至高神
現代にも、
命懸けで仏法真理を伝え広めようとしている諸菩薩諸如来が転生している。

彼らのどこに私利私欲があろうか。

純粋な愛ゆえに。

その教えを知り、実践すれば、本当に、誰もが救われ幸せになることが出来るのだ。

一宗一派の話ではない。

仏陀は、神々の師。

様々な神や高級霊を統べる至高神。

霊人の立場や違いを認めながらも、全体として導いていく地球霊団最高責任者。

縁無き衆生は一人もなし。

ゆえに、仏陀は、危機の時代に地上に再誕し、
宗教を原因とする争いに終止符を打ち、地球を一つにする使命を持つ。

仏陀に帰依するとは、共に、その使命を遂行するということである。




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2008.12.29 大乗的精神
仏教には、
どうとでもとれるような便利な空、無我、縁起、勝義諦、中道、仮諦、方便、真如、
などの専門用語がたくさんあるため、
虚無論学者の詭弁に惑わされないように注意が必要です。

東京帝国大学インド哲学教授の木村泰賢博士は、
大乗仏教の根本精神は「真空妙有」にあると、その汎神論的見解をはっきり示されています。

これこそが、大乗仏教の真髄なのです。





大乗は一面においては通俗的宗教であるから、
必ずしも哲学的世界観を要すると定まってはいない。
が、しかし元来哲学的宗教である仏教であるから、
たとえ表面に表われていない場合でも背後には常に哲学的人生観を予想している。
まして大乗神学となると、小乗以上に深い哲学の上に建設されているので、
大乗といえば通例この哲学的方面を指す有様となっているくらいである。
しからば、その大乗の哲学的世界観はいかにというに、
もちろん同じ大乗といっても、この間に種々の流派があって、
それぞれの哲学観も異なるけれども、先ず全般に通ずる根本観念とも名づくべきものは、
一口にいえば「真空妙有」の四字に収まるものと思う。

真空とは何にもないということ、
妙有とはその何にもないという中にまた諸法が歴然として存在するということであって、
しかもこの二個の観念が一つのものとなって離れぬところに大乗哲学の特色があるのである。
両者を離さずに真空の極致は妙有であり、
妙有の背後には真空を予想するという点においては、諸大乗教は皆同一である。

今試みに、これを主な大乗経典について述べてみるならば―あらゆる大乗経典中、
その最も原始的でかつ根本的なるのは、いうまでもなく般若部の経文である。
しかるにこの般若部の経典はその数においては非常にたくさんあるけれども、
要するところ、ただこれ「空」の一字を説いたものに外ならぬ。
空々、大空、畢竟空とすぺてを空にしなければ止まぬというのがこの経の立場である。
しかしながら、般若の主意をもって虚無主義と解するならば、
それは非常な誤りにて、般若に従えばその空々の否定の力は、
やがて大なる自由肯定の力となって現われるものである。
大袈裟であるけれども、般若経はこの力によって一毛の中に百億の須弥山を摂し、
一滴水の中に四大海を盛ることができるとさえいっている。
けだし般若の空とはこれを心理的に見るかぎり、いわゆる純粋能動態を意味したもので、
いい得るならば絶対意志または純粋意志の実現の当体であって、
言詮し表象することができないけれども、
少なくも体験としては絶対的自由にして無限の充実した生活であるから、
かくのごとき大袈裟なこともいい得たのであろう。
したがって般若はまたこの立場からして、
宇宙の森羅万象も所詮この空の力の顕われで、
世界は空であると同時に空はすなわち世界であるといい、
その空をほとんど形而上的原理のごとくにさえ説いたところもあるのである。
この意味において般若の空は頑空ではなく、
真空の妙有であると解するのが仏教の通例になっているのである。
しかもその妙有の契機点は要するに人格活動で、
特に慈善(布施)、徳行(持戒)、忍耐、努力(精進)、静観(禅定)、
智慧のいわゆる六波羅蜜として顕われ、
同時にこの六波羅蜜によって真の空は実現されると説くのである。
かくのごときは豈に一片の消極的虚無主義を理想とするもののいい得るところであろうか。
これ全く一切空の背後に無碍自由の人格活動を肯定しているがためであって、
しかも現実生活において実現されるところにその底意があることになっているがためである。
この般若の空思想はあらゆる仏教思想の根底となっているものであるから、
その真空の後に妙有の人格的肯定のあるということを見逃しては、
仏教の根本義はとうてい得られぬことになるということを注意しておくのである。
しかも、このことは同じく般若系統の上に立っている、
他の諸経文となれば一そう明瞭になっているから、試みにその二、三例を挙げてみよう。
例えばかの有名な維摩経であるが、
あの聖典の内容は般若を説いたものであることは、何人も疑わぬところである。
まして、根本ではやはり同じ般若系統に属する法華経となれば、
更に進んで真空が最も具体的な妙有として発現する様を説いたもので、
実に般若思想の行くべきところまで行ったものといっても然るべきものがある。
諸法実相、世間相常住などと説いては、
真空の当体は直ちに世間たるの妙諦を明らかにし、
この空を体現した人格者としての仏陀を説いては具体的人格に即して常恒、
遍在の永遠性を認め、次いでこの人格者の救済的活動としては、
観音菩薩の抜苦与楽の誓願として最も具体的に種々の場合を挙示し、
更に吾らの理想生活の代表としてはわずか八歳の竜女までも成仏すべき約束を与えて、
一切衆生にことごとく仏性ありとの旨を最も明らかに示したのは、
すなわち法華経の大結構である。
法華経の非常に重んぜられる所以も全くここにあるので、
つまりその背後に般若の真空を予想し、
それが妙有として現実的肯定的活動に顕われて行くところを説いたものと見るところに、
限りない深みが顕われて来るのである。
なおついでに一、二の経についていってみるならば、
かの華厳経も法華経に劣らぬ名高い経であるが、
これは要するに宏大な汎神観の上に立って、
宇宙の事々物々が互いに無碍に融通し無尽に縁起する様を説いたもので、
しかもそれは一法界の妙用として大日如来の顕現に外ならぬというのがその大主意である。
しかしながら、その根底を流れている思想を尋ねれば、やはり般若の空思想から来たもので、
つまり空の妙用を宇宙的に汎神論的に提示したものに外ならないのである。
また、かの阿弥陀経または無量寿経は、阿弥陀仏の本願をして、
念仏の衆生を導いて極楽に往生させるということを主張したものであるが、
一見すればかなり般若思想と離れているようである。
しかし、その歴史と義理とを詮索して行けば、
やはり真空の体現者としての光明無量と寿命無量の仏陀の救済的作用が、
特に未来に働いたものと解せねばならぬ。
しからざれば阿弥陀仏の信仰は遂に一片の神話に堕し去ることを忘れてはならぬ。
そのほか種々の大乗経典を調べて来れば、何らかの形で般若に関係しないものが、
一つもなく、しかもその中にはほとんど空の意味の見えぬほど、
妙有の方面の力説高調されているものもあるけれども、
次第に詮索して行けば遂に真空ということに帰着することが分かって来るのである。       
実は、かくのごときことは別段に論証の必要のないことではあるけれども、
教育ある社会には、特に西洋人の書いた仏教書を読んだ人などの中には、
大乗仏教の本意を虚無主義にあるかのごとくに批評する人もあるので、
特に経文の見方を挙げて、その然らざるを証明してみたのである。
ただ吾人はかくすべてを真空に帰したからとて、
それだから大乗仏教思想の積極的方面も遂に消極になるのであると解釈してはならぬ。
真空ということが、かく有的に取扱われているのが、
大乗仏教の哲学的真意であるということを誤解してはならぬ。
要するに空ということは、概念的に見れば、何も無いようではあるけれども、
実は体験的には最も具体的、現実的生活の肯定で、遂に実際的生活に至って始めて、
真の意義が実現するというのがその真意であるということに帰する。

吾人は仏国浄土の理想を地上に引下げることをもって、
大乗仏教の真髄を発揮する所以だと主張するものである。
しかしその理想の実現は要するに「真空妙有」の諦理を不断に実際化し、
生活化する経過中に求められるべきものである。
すなわち真空によって現状を打破すると同時に、
妙有によって高い規範による生活に進み、更に再び真空によってこれをも解脱して、
更に一そう高い規範的生活に進むことである。
かくして世と共に無窮に向上し進展して行くところに、
やがて「真空妙有」を背景とする不住涅槃の社会化ありというべきである。
ここに不断の努力と尽きない歓喜の調和があり、
ここに自己の満足と同時に全世界の満足が実現されよう。

「木村泰賢全集第六巻」



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2008.12.28 無我問題
仏教界のなかでも左翼唯物論勢力と保守勢力の思想戦は始まっています。

廃仏毀釈に耐え、西洋合理主義の洗礼に耐え、
戦後の思想統制に耐えてきた保守派僧侶の受難の時期は長かった。

輪廻は差別思想とされ、あの世や霊は前近代的だとされ、糾弾されてきました。

本物の仏道修行は禁止されました。

それでも、真実を曲げなかった僧侶は、少なからず存在します。

オカルト、オウム、トンデモ、と言われても、真実は真実。

近年は、唯物論勢力は、あらゆる見地から論破され、旗色が悪いようです。

日本は、宗教研究でも、西洋より20年以上遅れています。

仏教思想においても、欧米での研究成果が、日本に逆輸入されているような状況です。

しぶしぶ、日本の仏教者は、それを認め始めているのです。

先日、開催された、
仏教と西洋心理学の協力関係を模索する『日本仏教心理学会』の設立総会では、
西洋心理学に精通した仏教者が、日本仏教の「無我」解釈に対して異を唱えています。

「無我ということは、自己が無い、霊魂が無いということではないのだ」と、
「仏教は虚無主義ではないのだ」と、
「修行主体としての自己はあるのだ」と、
「無我ということは、自我を実体視して、それに執着をするのを止めよということなのだ」と、
そういうことを皆言われたそうです。

最新の西洋心理学では、物質的存在を離れた、
無意識領域よりもっと進んだ、
トランスパーソナル(超個的)領域までも認めるのですから当然です。


こんな簡単なことですら、唯物論勢力は理解できないのです。

エゴの塊で「無我」になりきれていないのは、どちらでしょうか?




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2008.12.28 来るべき世界
21世紀に入って、宗教間紛争は激化していますが、
人類は、大歴史家トインビーの提示するビジョンには、いまだ追いついていません。




高等宗教が自覚している使命は、
個々の人間を究極の霊的実在に直接に接触させることである。
高等宗教は、人間がこのうつろい易い人生を生きていく時悩まされる試練に対し、
人間を啓発し、導きと助けとを与えてくれる。
人間は誰でも、失敗し、罪を犯し、愛する者との死別に耐え、そして最後には死に出会う。
人間は不断の精神的な助けを必要とし、それは高等宗教によって与えられる。
高等宗教は人間に生得の権利を所有させた。
人間は社会のために存在するのではない。
その目的は究極の霊的実在との親交と調和にあり、
社会はこの個人の霊的探求のために存在するのである。
高等宗教は人間に、人間自身についての真理を教えた。
イデオロギーは、高等宗教の不十分、不完全な代用である。
それでもなお、高等宗教が再び人の心をつかむまでは、
イデオロギーが高等宗教のかつての信者の心をつかみ、それを保つことはほぼ確実である。
高等宗教が人心を取り戻すためには、もう一度自己に忠実にならなければならない。
そしてそのためには、少なくとも3点において習慣を改めなければならない。
高等宗教は、お互いに対する態度と行動を、
敵意と敵対から愛と協力に変えなければならない。
高等宗教は実際的な方法で、各時代の重大な問題に関与しなければならない。
そして高等宗教は、それらの制度、教義、教えの永久に変わらぬ本質から、
長い歴史のうちに本質を覆い隠してしまった非本質的な付着物を取り去らなければならない。

第二次世界大戦以来、
宗教界の諸権威と各信者たちに起った変化は、新たな明るい見通しを開いた。
信者の獲得と維持のために互いに争い続ける代りに、
全体としての人類、および人類というものを構成する一人一人の人間に、
可能な限りの助力を与えるために諸々の高等宗教は互いに協力するようになるだろう。
宗教が人間の魂のためにすることのできる最大の霊的な奉仕は、
それが真理と救いを探求するのを、たとえその探求が、
魂を先祖伝来の宗教からその魂自身が選んだ別の宗教へと導くものであっても、
助けることである。
宗教における成功の尺度は信者の数ではない。
それは人間に、その人間がどの宗教に帰依しているかということは問題にせず、
どれだけの精神的な助力を与えることに成功したかなのである。

芸術が伝統的に宗教に献げられていたということは、
人間の真の最終目的が芸術ではなく、宗教であることを暗示する。
宗教は私たちの祖先が人間になって以来常に人間の最終目的だった。
究極の霊的実在の追求は、人間性本来のものである。
過去においてある者は熱心にこの共通の生得権を受け入れ、
他のものはこれからなんとか免れようとした。
私たちは今、真実を無視することが一層難かしい時代に移りつつある。
機械化、原子力、富裕、余暇の来るべき時代に、
宗教は、人間の際限のない渇望に対して開かれた自由と創造のための無限の場として、
正当の名誉を博するように必ずなるだろう。

西欧および私たちの西欧化された世界の将来の見通しはどんなものだろうか。
西欧人および西欧化された人々は、
人間の霊的な瞑想の能力をうまく使うことができるだろうか。
もしこの能力が退化するならば、私たちは人間の生れながらの権利を失わなければならない。
そして核時代において、私たちの人間以下の動物性に返る過程は、
必ず「獣的で短期間に行われる」ものだろう。
しかし私たちが自分たちから取り去り、捨て去ろうと如何に必死になっても、
神を求める人間の衝動が根絶できないものであるということは考えられる。
「人間の第一の、最高の目標とはなにか。
人間の第一の目的は神を賛美し、永遠に神を享受することである」。
この問いと答えとは、如何なるヒンドゥー教の聖典や、
中世西欧キリスト教神学の著作からも出て来ない。
これらは、1648年に作られ、スコットランドのカルヴィン派教会に採用された、
ウェストミンスター教理問答の最初の文句である。
これらの言葉の中に、近代西欧人は彼らが避けようとしている真実を、
われにもあらず宣言しているのである。
彼らは自分自身に対して反証を与えている。
この告白は自らを弁解するものであり、また自らの救いに対する希望である。
神を讃美し永遠に神を享受するということは、
地上での人間の生に残されている20億年を待たずして、
この地上での現在の永遠の生と関わりをもつものである。


「現代が受けている挑戦」




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先月の文藝春秋にも出ていた立花隆氏の代表作「宇宙からの帰還」では、
宇宙飛行士ミッチェル氏へのインタビューが白眉です。

発刊当時(1983年)はトンデモだと思われたのですが、今読むとピンと来ます。




「超能力を扱うには、まず、それにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ。
心の中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、
さざ波一つない森の中の静かな沼の水面のように、心を静寂そのものに保ち、
透明な安らぎを得なければならない。
精神を完全に浄化するのだ。
精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、
それが外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。
仏教でいうニルヴァーナだ。
そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的存在であることが自然にわかる。
人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている。
ESPの成立根拠はそこにある。
さらに進めば、人間のみならず、世界のすべてが精神的には一体であることがわかるだろう。
超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネスの証明なのだ。
スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、
物理的手段によらず外界とコミュニケイトできる。
古代インドのウパニシャドに、『神は鉱物の中では眠り、
植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する』とある。
万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。
しかし、神の覚醒度は万物において異なる。
だから、万物の一体性はなかなか把握できない。
眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、
この一体性を把握できる。
そして、充分にスピリチュアルになりえた人間には、超能力がおのずから生まれる。
イエスのことばに、
『まず神の国を求めよ。そうすれば、すべてはそれにともなって与えられる』とある。
まず超能力を求めてはいけない。まず、神の国を求めるべきなのだ。
超能力とは、より大きな精神世界の一部であると知るべきだ。」

「宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。
それは教団として組織化されることから生じた、真理の道の踏み外しだ。
すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の教えにはじまる。
しかし、信者は、その教えの本質を充分には理解しない。
各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、ブッダにしても、モーゼにしても、
モハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、
みな人間の自意識の束縛から脱して、
この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ。
だから、彼らはみな同時に超能力者でもあった。
彼らはみな奇蹟を起こした。
奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。
しかし、その教えを受けて、追随した人々のほうは、
自意識の束縛から逃れきれていないために、
教えられた真理をそこまでの深みにおいて把握していない。
だから、指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアルな真理から、
人間的自意識の側に引き戻されてしまう。
そして教団が組織され、教団全体としてますます原初の真理から離れていくことになる。
教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、
スピリチュアルなリアリティから離れてしまっている。
私がいう宗教的真理というのは、教団教義のことではない。」

「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神であるといってもよい。
宇宙知性といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。
その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。
人間の意識はその思性の一つのスペクトラムにすぎない。
宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。」

「人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。
前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、
本質的には肉と骨で構成されている物質ということになろう。
そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。
しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、
人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。
人間は限界があると思っているから限界があるのであり、
与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。
スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、
あらゆる環境与件をのりこえていくことができる。
人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。
しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。
神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。
だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。
人間の本質は後者だから、人間は不滅なのだ。
キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、
仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。
だから、私は死を全く恐れていない。」

「宗教はすべて、
この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、
それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。
その原初的体験は本質的には同じものだと思う。
しかし、それを表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。
しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、
その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。
宗教だけに限定する必要はない。
哲学にしても同じことだ。
真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ。」

「進化の方向ははっきりしている。
人間の意識がスピリチュアルに、より拡大する方向にだ。
つまり、イエスとか、ブッダとか、モハメッドとかは、
早くからこの進化の方向を人類に指し示していた先導者なのだ。
どんな進化でも、種全体が大きく変る前から、
進化の方向を先取りして示す個体があるのと同じことだ。」




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日本においては、
フォイエルバッハ、マルクス、ダーウィン、ニーチェ、フロイトらの支持者は多く存在しています。

彼らのような神殺しの哲学者が生まれてきた土壌は、
それ以前の啓蒙主義の時代にすでに醸成されていました。

この啓蒙主義時代の影響が、近代人特有の合理崇拝となって根強く残っているのです。



1729年に、模範的な生活を送っていた田舎の司祭、
ジャン・メスリエが無神論者として死んだ。
彼はメモワールを遺したが、ヴォルテールがそれを広めた。
これは人間に対する彼の嫌悪、
および神を信じることのできなさに対する彼の苛立ちを示していた。
メスリエはニュートンの無限の空間こそが唯一永遠のリアリティーであると信じた。
物質以外には何も存在しない。
宗教は富者が貧者を抑圧し、
彼らを無力な者にすることに利用しようと考案されたものであった。
キリスト教は特に、三位一体や受肉のような馬鹿げた教理によって際立っている。
彼のこのような神の否定は、哲学者にとってはあまりにもむずかしい教義であった。
ヴォルテールは特に無神論的な章句を取り除き、この神父を理神論者に仕立て上げた。
しかしながら、その世紀の終わりまでには、
自らを無神論者と呼ぶことに誇りを感じるような若干の哲学者たちが現われてきた。
もっとも彼らは、ごく僅かな少数者に留まったのだが。
これはまったく新しい発展であった。
それまでは「無神論者」という言葉は侮蔑語であり、
特に敵に投げつけるための汚い中傷の言葉であった。

スコットランドの哲学者、デイヴィッド・ヒュームは、
その新しい実証主義をその論理的帰結にまで一貫させた。
リアリティーに関する科学的説明を超えていく必要はなく、
我々の感覚経験の彼方に存在するような何ものかを信じる哲学的理由などない、
と言うのであった。
ヒュームは『自然宗教に関する対話』において、
宇宙のデザインから神の存在を証明しようとする議論を始末してしまい、
それが説得的ではない比喩的議論に基づいていると論じた。
人は、自然世界のなかに見られる秩序が知的な「監督」を指示している、
と論じうるかもしれないが、そうだとすれば、
悪や明らかな無秩序をどのように説明できるであろうか。
これには論理的答えなど存在しないのだ。
そして、この『対話』を1750年に書いたヒュームは、賢明にもそれを未刊のままに遺した。

ほぼその12ヶ月前に、フランスの哲学者、デニス・ディドローは、
『見える者たちの役に立つ見えない者の手紙』のなかで、
同じ質問をしたかどで投獄されていた。
この書は一般大衆に「成熟しきった無神論」を紹介していたのだ。
ディドロー自身は、無神論者であることを否定していた。
彼は単に神が存在しようがしまいがどうでもよいと言っていたのである。
この手紙の出版の三年前、
ディドローは、科学が、そして科学だけが無神論を論駁できると信じていた。
彼はデザインからの証明の印象的な新しい解釈を発展させた。
人々が宇宙の広大な運動を吟味する代わりに、
自然の底に横たわっている構造を調べてみるように彼は促した。
一粒の種や一匹の蝶や昆虫の組織は、あまりにも繊細であり、
とても偶然に起こったとは思えない。
デイドローは、理性が神の存在を証明できると、まだ信じていた。
ニュートンが宗教のすべての迷信や馬鹿らしさを取り除いてしまった、
奇跡を行なう神などは、我々が子供を怖がらせるのに使う怪物と同じなのである、と。
しかしながら、三年後には、ディドローは、ニュートンを疑うようになり、
外的な世界が神のために何かの証明を提供するということに、
もはや確信を持てなくなっていた。
神が新しい科学とはおよそまったく関係ないということを彼は明瞭に悟ったのだ。
ディドローの見解では、創造主の必要などなかった。
物質はニュートンやプロテスタントが想像したような受動的な卑しいものではなく、
それ自身の力学を持ち、それ自身の法則に従っているものであった。
我々が見えると思っている明らかなデザインに責任があるのは、
この物質の法則であって、「神という機械工」ではないのである。
物質以外には何も存在してはいないのだ。
ディドローはスピノザをさらに一歩先へ進めた。
自然以外に神はいないと言う代わりに、ディドローは、自然が存在するだけであり、
神などまったく存在しないのだと宣言した。

こういう信仰において彼は孤立してはいなかった。
エイブラハム・トレンブリー、ジョン・ターブヴィル・ニーダムのような科学者も、
創出的物質という原理を発見し、それが今や生物学、順微鏡検査、動物学、
博物学、地理学において一つの仮説として台頭しつつあった。
だが、神からの最終的な離反をしようとする者は僅かであった。
ポール・アンリやオルバック伯爵のサロンをしばしば訪れていた哲学者たちでさえ、
開放的で率直な議論を楽しみはしたが、無神論を公然とは支持しなかった。
これらの討論から、オルバックの著作、
『自然の体系、あるいは道徳的および物理的世界の諸法則』が生まれ、
無神論的唯物論の聖書として知られるようになった。
自然に取って替わるようなものは存在しない。
それは「不断に相互から流れ出る原因と結果の膨大な連鎖に他ならない」、
とオルバックは論じていた。
神を信じることは不正直であり、我々の真の経験の否定である。
それはまた絶望の行為である。
宗教は、人々が現世の生活の悲劇に対して慰めを与えるための他の説明を、
見出すことができなかったがゆえに、神々を想像したのだ。
彼らは宗教や哲学という想像上の慰めを欲し、恐怖や災害を払い除けようと、
劇の諸幕の背後に潜んでいると自ら想像した「作用主」を宥めようとしていたのだ。
アリストテレスは間違っていた。
哲学は知識を求める高貴な欲望の結果ではなく、
苦痛を避けようと渇望された憧れの結果だったのだ。
それゆえ、宗教の揺り篭は、無知と恐怖であり、
成熟し啓蒙された人間はそれを乗り越えねばならないのであった。
幸いにも、啓蒙主義は人類がこの幼児性から脱却するのを可能にしてくれる。
科学は宗教に取って代わるであろう。
「もし自然についての無知が神々を誕生させたのであれば、
自然の知識はそれらを破壊するように計画されているのだ。」
より高い真理だとか、根底に宿るパターンだとか、基本計画などは存在しないのだ。
自然それ自体が存在するだけなのである。

神は単に不必要であるばかりか、はっきりと有害である。
その世紀の終わりまでには、
ポール・シモン・ドゥ・ラプラスは物理学から神を追い出してしまった。
惑星の体系は大陽から発散させられ、次第に冷却しつつある光輝となった。
ナポレオンが彼に、「これを作り出した者は誰なのか」と質問したとき、
ラプラスは単にこう答えたのだった。「そういう仮説は必要ありませんでした」と。

キリスト教の神学者たちは、
神があたかも他のすべての物と同じように試験され分析されうるかのように、
神の客観的存在を証明しようと新しい科学に飛びついた。
ディドロー、オルバック、ラプラスはこういう試みを逆転させ、
より極端な神秘家たちと同じ結論に到達した。
「彼方には」何も存在しないのだ、と。
間もなく、他の科学者や哲学者が、神は死んだと勝利の宣言をしたのだった。


カレン・アームストロング「神の歴史」




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2008.12.27 実在界の発見
霊界というのは、普遍的なものです。

現代の仏陀は、インド時代の実在界の認識度について説かれています。

仏典では知り得ない、驚くべき悟りの内容です。




実在界(霊界)に対する釈迦の認識はかなり進んだものであって、
9次元宇宙界の本質まで悟っており、
「9次元世界は地球だけで完結するものではなく、地球以外の惑星にも広がっている。
他の惑星にも素晴らしい霊人たちが数多くいて、修行をしている」、
という事実も掴んでいました。
また、宇宙即我という自己拡大の経験をした時には、
地球という惑星が非常に小さな点となり、
自らの内臓の細胞の一つになっていくのを実体験していたので、
宇宙というものの感覚も掴んでいました。
しかし、それらを当時の弟子たちに説くのは非常に困難だったため、
様々なたとえ話で語るにとどめていました。
当時の人々は、宇宙の構造を聞くまでには、魂の勉強が進んでいなかったのです。
現在、私は実在界の姿を解明していますが、そうした世界について、
今から2500年前のインド社会という限界のなかではありますが、
釈迦はすでに知っていたのです。
ただ、釈迦に足らざるところがあったとすれば、
地上にいるときの世界観が、まだいくぶんインドを中心としたものだったために、
幽体離脱をして実在界に行っても、
会っている霊人たちが、主としてインドを霊域とした人たちだったということです。
違った霊域の人々と会うには非常に難しい面があったと言えます。
また、実在界には、いろいろなスタイルで生きている人が数多くいて、
釈迦が彼らを非常に珍しい眼で見ていたことも事実ですが、
「彼らの存在がいかなるところからきているのか。彼らはどのような生活をしているのか」、
ということを、深く追究しないままに終わったところがあります。
しかし、釈迦が幽体離脱によって実在界を実体験したことは、
生と死の意味、人生の目的、転生輪廻を説く際に、大きな力となったことは事実です。
実在世界の発見によって、彼の思想は一層の高まりや深み、真実感を得たのです。
これはちょうど、私が初期のころに、
さまざまな霊言・霊示集を世に問うたことに似ていると言えるでしょう。
そうした書物を数多く世に問うことによって、
世の人びとは、実在の世界、高級霊の世界が本当にあるということを、
リアリティーを持って感じられるようになったと思います。
また、のちに仏法真理の理論書を次々と世に問うにあたって、その裏づけにもなりました。
結局、宗教とは実在界を科学することであり、
実在界についての裏づけがない場合には、単なる哲学になってしまうのです。





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