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2008.12.01 究極の看護
衛生や環境の大切さ、心と体の関係やスピリチュアルケアまでを含めた看護学を確立した、
ナイチンゲール女史は、偉大なる神秘思想家でもありました。

死は敗北であるとする唯物論にもとづく近代医療の間違いが指摘されて久しいですが、
その風潮のなかで、彼女の再評価もされはじめています。

彼女に言わせれば、愛に裏打ちされない医療行為など成り立たないのです。

そして、死は不幸なことなどでは決してないのです。




神は確とした自然の法則を定めておられる。
私たちが責任(非常に濫用されている言葉であるが)を果たすことができるのは、
神がその法則を全うし実現されるからである。
というのは、私たちは、自分でその結果をはっきり予想できないような行為に対して―すなわち、
神が、その法則を全うするかどうかが定かでないような性質の行為には―私たちも、
責任のとりようがないからである。
にもかかわらず、私たちはいつも神が奇跡を起こすのを期待しているようである。
それは、とりもなおさず、私たちに責任逃れをさせるために、
神が特別の御はからいをもって、神の法則を破られることを願うことにほかならない。
「神の御恵みによって彼は回復するであろう」という、きまり文句がある。
しかし、たとえ彼が回復しないとしても、それも「神の御恵み」なのであり、
そもそも彼が病気になったのも「神の御恵み」なのであり、
そして、もし死んだとしても、その死も「神の御恵み」なのである。
言い換えるならば、これらはいずれも、神の法則によって生じた結果であり、
その神の法則こそ、まさに、神の御恵みなのであり、
それは、私たちに最高の幸せへの道を教えを示す御はからいなのである。
コレラにかかるのも、コレラを免れるのも、等しく「神の御恵み」なのである。
それは、私たちがどのように神の法則に従うべきか、そのあり方を私たちに教えるものである。
神の法則はまた、与えられた生命の全うをめざして向上していくための、
私たち自身の方法であり、私たち自身の拠り所なのである。

フローレンス・ナイチンゲール「看護覚え書」




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2008.12.01 観念論の勝利
およそ哲学は、
観念論と唯物論の二つに分けられるといわれています。

しかし、唯物論は量子論の発見によって成り立たなくなってしまいました。

物理学者ハイゼンベルク博士はこう言っています。

「唯物論的存在論は、われわれを取り巻く世界の直接的現実性といった種類の存在が、
原子領域にも延長できるという幻想の上に立っている。原子は物ではない。」

観念論は勝利したのです。




十八世紀には、ニュートンの時計仕掛けの力学が成果を広げるにつれて、
多くの哲学者は生命、心、精神を含めたすべての現象は究極的には、
複雑な機械の型として説明されると信じがちだった。
アイルランド南部のクロインの僧正ジョージ・バークリーは科学的唯物論に激怒し、
独自の強力な哲学的見解でそれに反論した。
バークリーは、心は物質の一形態ではなく、その逆だと論じた。
物質は誰かの知覚として以外には、存在さえしていないのである。
絶対的存在は心―神の心、人間および他の霊的存在の心―だけに属する。
あらゆる形態の物質は物質、光、地球、および星を含めて、
誰かの心がそれを意識していることによってのみ存在する。
バークリーの哲学―事物に対する観念の一次性を強調しているために、
「観念論」と名づけられた。―では、心それ自体か、
あるいは心に知覚されているもの以外には、何も存在しない。
「存在するとは知覚されることである」というのが、
この物質に関するアイルランドの僧正のモットーだった。
「世界の壮大な枠組みを構成しているあの物体のすべては、心なしには存在をもたない。」

ニック・ハーバート「量子と実在」




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時間とともに森羅万象は変化していきます。

諸行は無常です。

私達は、形態を変えて、生き通しのいのちを生き続けているのです。

だからこそ、今という時を輝かせる必要があるのです。


生きとし生ける者どもは死ぬであろう。
生命は終には死に至る。
かれらは、つくった業のいかんにしたがっておもむき、
それぞれ善と悪との報いを受けるであろう。
悪い行いをした人々は地獄におもむき、
善いことをした人々は、善いところに生まれるであろう。
それ故に、善いことをして、来世のために功徳を積め。
功徳は、あの世で人々のよりどころとなる。


パーリ原始仏典相応部「サンユッタ・ニカーヤ」




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