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昔から、仏教界でも「霊魂」に関しての議論は盛んでありました。

当時は、「霊魂不滅説」がほとんど常識でした。

しかし、不思議なことに、いつの間にか、
仏教の主流学説は、まったく正反対の「無霊魂説」にすり替えられたのです。

明治後期の高名な仏教学者の言葉をみれば一目瞭然です。




霊魂なるものが、過去より現世、現世より来世に渡って、
三世相続(輪廻転生)すべきものか、せぬものかというに、
この問題は、よほど以前よりあったもので、
大袈裟にいうときは、人間ありてより以来、常に起こっている問題である。
しかも、その問題が、今日に至るまで解決のできぬ所のものである。
さりながら、一面の方からいうと、
既に釈尊の時に、この問題が解決せられて終わったといって可なるのである。
又、竜樹出世の時に解決せられたといって然るべく、
世親出世の時に解決せられたといって然るべきである。
支那においていうも、羅汁が来たと同時に廬山に惠遠法師ありて、この問題に解決を与えた。
それは東晋の時代であるが、南北六朝の時代にもまたこの問題が起りて、
その時にも、それ相応に解決を与えている。
それから以後、代々世々に、大抵この問題が起っている。
そして起るたびに、一応解決を与えているのである。
日本においては、徳川時代に至るまでは、この問題があまり無い様であるが、
徳川時代に儒学が盛んになると共に、この疑問が起り、
ずいぶん霊魂消滅の説も盛んであったが、
それに対し当時の仏教家は、それぞれ解決を与えている。

釈尊当時に三世因果説ありしゆえ、一時それを借り来たりたものでなく、
釈尊御自身において、三世因果という信仰を持っておられたのである。
現今存する「四阿含経」を見ても、徹頭徹尾、この三世因果説を主張している。
その他、諸大乗経を見ても、ひとつとして三世因果を排した説はない。
されば、明白に釈尊という方は、
深く三世因果を信じておられたものといって差し支えなかるべし。
釈尊以後、仏教に名を列ねし人々は如何というに、
小乗20部の諸学者を始めとし、馬鳴、竜樹、提婆、無着、世親、護法、戒賢等、
すべてこれらの諸師は、三世因果ということに一点の疑いを挟んでいない。
もしこの三世因果ということを取り除けば、
これらの諸師の学説を完全に説明できないといって然るべし。

日本に来たりては、聖徳太子を始め、最澄、空海、法然、親鸞、栄西、道元、日蓮等、
これら諸宗の祖師は、皆深く三世因果を信じている。
仏教起りてより、殆んど二千有余年、三国に渡って仏教の修行者、学者、無数なれど、
一人として三世因果を疑う人なく、皆この道理を基礎として修行している。
この如く、前聖先賢の跡について考えるも、
仏教にあっては、三世因果を主張するものであるということが明白というべし。

されば予は、
三世因果、即ち、ある意味においての霊魂不滅、
業力相続ということは真理なるか、不真理なるかは、しばらくこれを置き、
仏教にては、三世因果業力相続を主張するものであると断言するを憚らぬ。


前田慧雲「霊魂論評諭」




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近代に入って、西洋学問の影響を受けた仏教学者達は、
それぞれの思想的バックボーンをもとに仏教を解釈してきました。

カント認識論、マルクス唯物論、ハイデッガー実存主義、
ニーチェ虚無主義、スペンサー社会進化論、
フランスの退廃的ポストモダン思想と好みはさまざまです。

そのような文献学者の説くところの仏教は、
だいたいにおいて難解で、何ともいえず意味不明です。

そして、そのような学者の説く仏教を勉強しても、少しも心に喜びが生じてきません。

そして、その歪められた仏教には、
悲観的、虚無的要素が散りばめられていて、有害ですらあります。

反対に、直接、仏典を読むと、仏教は限りなくポジティブなのです。

仏典の内容をみても、どこにもネガティブな要素など見つかりません。

お釈迦さまの言動をみても、
死の寸前まで、慈悲心を持って衆生の為に法を説いておられ、
そこには悲愴な描写は全く見当たりません。

お経は、お釈迦さまの説法です。

お経の最後には、説法を聞いた弟子たちが感動し、
身震いするほどの喜びに満ち溢れている様子が描かれて終わっています。

お釈迦さまの教えを受けた者は、皆、感涙してお釈迦さまに帰依しています。

何故でしょうか?

お釈迦さまは、霊界の秘儀に精通した、神々の師と言われる存在であったからです。

お釈迦さまは、
意識が世界を創り出すことを教え、
この世とあの世を通して幸福になる方法を教え、
霊の眼で三世を見通し、永遠の生命のあり様を教え、
過去の転生で蓄積した内在する叡智を解き放つ方法を教え、
仏性を有した自己の力を信頼することを教え、
生きる意味や目的は、霊性の向上にあることを教えました。

その意味において、仏教は宗教であり、理論や哲学ではないのです。

霊的世界を無視して、この世的な視点でのみ見るから、混乱するのです。

仏教は、仏に成るための教えであり、悟りを開くための教えです。

仏教は実践して、体験してこそ、はじめて理解できるものなのです。




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