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2008.12.15
あきらめない
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2008.12.15
形而上学
形而上学は、魅惑の学問です。
古代から現代にかけても尚、普遍のテーマであり続けてきました。
形而上についての人類のあくなき探求心は止むことはありません。
アリストテレスの再来、西田幾多郎博士はこう言われています。
形而上学がまとまった一つの体系として出来たのは、アリストテレスが始である。
もっとも形而上学の問題は、アリストテレス以前からあり、それは真実在を求めることであった。
形而上学とは真実在の学問である。
従って、形而上学とは狭義に解せば、存在そのものの学、即ち存在論であると言ってよい。
アリストテレスが、哲学者が問題とするのは存在そのものであるといったのはそれである。
アリストテレスは、普通に存在と呼ばれているものは、物質にせよ、魂にせよ、
皆特殊な存在であるのに反し、存在そのものを明かにしようとしたのである。
しかしアリストテレス自身は形而上学という言葉は使っていない。
アリストテレスはその代りに「第一哲学」という言葉を使っている。
ところが紀元前一世紀の頃、アンドロニコスがアリストテレスの著作を編纂した場合、
第一哲学にあたる部分を物理学の後に置いたところから、
第一哲学のことを「物理学の後なるもの」と呼び、
それからして単に物理学の後のもの、という以上に物理学以上のものということになり、
経験以上のもの、超感性的なものを対象とする学問を、広く形而上学と呼ぶに到ったのである。
従って形而上学とは、狭義には存在そのものの学、即ち存在論であるが、
広義では宇宙論や神学をも含み、超感性的なものの学を意味するのである。
そして形而上学とはかかるものとして哲学の中心をなすと考えられ、カントにまで来たのである。
ところがカントに到って、
形而上学がはたして学として可能であるかどうかということが問題とされた。
カントはこう考えた。
我々の認識はすべて先験的形式によって感覚的内容を統一したものである。
従って経験的認識を構成する先験的形式即ち範畴を、
経験以上のものについて、当てはめることはできまい。
ところが形而上学が明かにしようとするところは、『実在は一であるか多であるか』、
『神は存在するかしないか』、というような経験以上の事柄であるから、
かかる経験以上の問題について経験の範畴を引伸して論ずることは不可能である。
そのようなことをすれば、例えば世界には始があるともいえ、
また始がないともいうような二律背反に陥る。
つまり形而上学は、二律背反に陥るから形而上学は学としては不可能である。
これがカントが彼の「先験的弁証論」で主張するところなのである。
かくて近代の哲学は、形而上学は不可能であるという傾向に傾いてきている。
しかし、私は必らずしもそうとは考えない。
なるほどカント以前の形而上学はカントによって壊されたかも知れぬが、
実在ということの考え方如何によっては、形而上学はやはり可能だと思う。
カントにも物自体という考は残っているのであり、
我々が何ものかを知るという時に、知られる何ものかがなければならない。
認識論よりも形而上学が先決問題だといってよい。
スピリチュアリズムのロッチェなぞも、そのように考えている。
古い形而上学は成立しないかも知れないが、
存在そのものの学としての形而上学は成立し得ると思う。
私は究極の実在は、単に動的なものとも、単に静的なものとも考えない。
哲学の最後の立場は、動的モニズムと静的モニズムが結びつくところにあると考える。
真の実在は、どこまでも動的に発展すると共に、
またどこまでも静的に不変不動のものである。
真の生命は、単にベルグソンのいう如く無限に流れるだけのものではなく、
同時にあくまでも流れないものである。
ヘーゲルは余程そうした趣を示しているが、観念的に終っている。
では、それはどのように考えたらよいか。
それは非常に難しいことであるが、
私はアリストテレスの形而上学がよい手引になると考える。
「哲学概論」
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古代から現代にかけても尚、普遍のテーマであり続けてきました。
形而上についての人類のあくなき探求心は止むことはありません。
アリストテレスの再来、西田幾多郎博士はこう言われています。
形而上学がまとまった一つの体系として出来たのは、アリストテレスが始である。
もっとも形而上学の問題は、アリストテレス以前からあり、それは真実在を求めることであった。
形而上学とは真実在の学問である。
従って、形而上学とは狭義に解せば、存在そのものの学、即ち存在論であると言ってよい。
アリストテレスが、哲学者が問題とするのは存在そのものであるといったのはそれである。
アリストテレスは、普通に存在と呼ばれているものは、物質にせよ、魂にせよ、
皆特殊な存在であるのに反し、存在そのものを明かにしようとしたのである。
しかしアリストテレス自身は形而上学という言葉は使っていない。
アリストテレスはその代りに「第一哲学」という言葉を使っている。
ところが紀元前一世紀の頃、アンドロニコスがアリストテレスの著作を編纂した場合、
第一哲学にあたる部分を物理学の後に置いたところから、
第一哲学のことを「物理学の後なるもの」と呼び、
それからして単に物理学の後のもの、という以上に物理学以上のものということになり、
経験以上のもの、超感性的なものを対象とする学問を、広く形而上学と呼ぶに到ったのである。
従って形而上学とは、狭義には存在そのものの学、即ち存在論であるが、
広義では宇宙論や神学をも含み、超感性的なものの学を意味するのである。
そして形而上学とはかかるものとして哲学の中心をなすと考えられ、カントにまで来たのである。
ところがカントに到って、
形而上学がはたして学として可能であるかどうかということが問題とされた。
カントはこう考えた。
我々の認識はすべて先験的形式によって感覚的内容を統一したものである。
従って経験的認識を構成する先験的形式即ち範畴を、
経験以上のものについて、当てはめることはできまい。
ところが形而上学が明かにしようとするところは、『実在は一であるか多であるか』、
『神は存在するかしないか』、というような経験以上の事柄であるから、
かかる経験以上の問題について経験の範畴を引伸して論ずることは不可能である。
そのようなことをすれば、例えば世界には始があるともいえ、
また始がないともいうような二律背反に陥る。
つまり形而上学は、二律背反に陥るから形而上学は学としては不可能である。
これがカントが彼の「先験的弁証論」で主張するところなのである。
かくて近代の哲学は、形而上学は不可能であるという傾向に傾いてきている。
しかし、私は必らずしもそうとは考えない。
なるほどカント以前の形而上学はカントによって壊されたかも知れぬが、
実在ということの考え方如何によっては、形而上学はやはり可能だと思う。
カントにも物自体という考は残っているのであり、
我々が何ものかを知るという時に、知られる何ものかがなければならない。
認識論よりも形而上学が先決問題だといってよい。
スピリチュアリズムのロッチェなぞも、そのように考えている。
古い形而上学は成立しないかも知れないが、
存在そのものの学としての形而上学は成立し得ると思う。
私は究極の実在は、単に動的なものとも、単に静的なものとも考えない。
哲学の最後の立場は、動的モニズムと静的モニズムが結びつくところにあると考える。
真の実在は、どこまでも動的に発展すると共に、
またどこまでも静的に不変不動のものである。
真の生命は、単にベルグソンのいう如く無限に流れるだけのものではなく、
同時にあくまでも流れないものである。
ヘーゲルは余程そうした趣を示しているが、観念的に終っている。
では、それはどのように考えたらよいか。
それは非常に難しいことであるが、
私はアリストテレスの形而上学がよい手引になると考える。
「哲学概論」



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