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2008.12.19 大きな潮流
現在では、仏教のなかにも不寛容、排他的精神が蔓延っています。

本来の宗教の原点は、愛の実践、平和と自由の実現にあるはずです。

全人類救済運動がすでにはじまっています。

この大きな潮流には逆らうことは出来ないのです。




歴史を通じて少数ながら、つねに意識の変容を経験し、
すべての宗教が指し示すものを自らの内に発見した人々がいた。
彼らは、この概念化できない真実を表現するために、
それぞれの宗教の概念的枠組みを利用した。
主要な宗教のいずれにも、このような人々が起こした「宗派」や運動があり、
そこでは本来の教えの光が再発見されているだけでなく、
場合によってはさらに強く輝き出した。
キリスト教の初期及び中期のグノーシス主義や神秘主義、イスラム教のスーフィズム、
ユダヤ教のハシディズムやカバラ、ヒンドゥー教のアドヴァイタ・ヴェーダンタ、
仏教の禅や不二一元論(ゾクチェン)などである。
これらの宗派のほとんどは因習を打破し、偶像を破壊した。
宗教につきまとう何層もの概念化と信念構造の殻を打ち破り、
それゆえにほとんどが既成宗教のなかで疑惑の目を向けられ、多くは敵意にさらされた。
主流の宗教と違って、これらの宗派の教えは認識と内なる変化を強調した。
主要な宗教は、このような秘教的な教えや運動を通じて、
本来の教えがもつ変容力を回復したのだが、
ほとんどの場合、そこに近づけるのはごく少数の人々だけだった。
多数派の深い集団的無意識にそれなりの影響を及ぼせるほど、
その人々の数が増えることはなかった。
また時の移り変わりとともに、これらの秘教的宗派そのものが硬直し、
形骸化し、概念化して、効力を失っていった。

新しい意識の高まりのなかで、既成宗教はどのような役割を担うだろう? 
多くの人々はすでにスピリチュアリティと宗教の違いに気づいている。
信念体系―自分が絶対的真実だとみなす一連の考え方―は、
どのようなものであれ、持ち主をスピリチュアルにはしない。
それどころか、その考え方(信念)と自分を同一化すればするほど、
自分のなかのスピリチュアルな面から切り離されていく。
「信仰心篤い」人たちの多くはこのレベルに留まっている。
思考を真実と同一視し、その思考に自分を完全に同一化しているので、
自分だけが真実を知っていると主張するが、
実は無意識のうちに自分のアイデンティティーを守ろうとしているだけだ。
この人たちは思考の限界に気づかない。
新しいスピリチュアリティ、意識の変容は、たいてい制度化された宗教の外で起こる。
思考と概念に支配されたこれまでの宗教でも、
その一部には、必ずささやかにスピリチュアリティが宿る場所があった。
宗教組織はそれに脅威を感じ、多くの場合、抑圧しようとした。
しかし、宗教構造の外側で生じたスピリチュアリティの大きなうねりとなると、
まったく新しい現象で、これまでは、とくに西欧では考えられなかった。
西欧文明は、すべての文明のなかで最も理性を重視する文明だったし、
スピリチュアリティに関しては事実上キリスト教の教会による独占体制が確立していたからだ。
教会の許しもなくいきなり立ち上がってスピリチュアルな話をしたり、
スピリチュアルな本を出版したりすることは不可能だったし、
そんなことをしようものならたちまち沈黙させられただろう。
ところがいまでは、教会や宗教のなかにも変化の兆しが現れている。
これは嬉しい兆候だ。
ヨハネ・パウロニ世によるモスクや、
シナゴーグ訪問もささやかではあるが、嬉しい開放への歩みだった。
既成宗教の外側で盛り上がってきたスピリチュアルな教えの影響に加え、
古い東洋の智恵が流れ込んだことも大きな力となって、
伝統的な宗教の信者にも形や教義、硬直した信念体系ヘのこだわりを捨て、
スピリチュアルな伝統に隠されていた深さや自分自身の深さを発見する人たちが増えてきた。
この人たちは自分が「スピリチュアル」かどうかは何を信じているかではなく、
どんな意識の状態にあるかによって決まることに気づいている。
そしてそれがその人の行動や人間関係を決定する。
形を超えた向こう側を見ることができない人たちは、
自分の信念に、つまり自分のエゴイスティックな心にいっそう深く囚われてしまう。
現在、かつてなかった意識のうねりが見られるが、同時にエゴの壁も分厚く強化されている。 
一部の宗教組織は、新しい意識に向かって開かれるだろうが、
さらに頑なに自分たちの立場や教義にこだわり、
人間の集団的エゴの自衛と「反撃」の構造の一部になる宗教もあるだろう。 
一部の教会、宗派、カルト、宗教運動は基本的には集団的エゴで、
自分たちの主義主張に頑固にしがみつく。
現実に対する別の解釈を認めない閉鎖的な政治イデオロギーの信奉者と少しも変わらない。
だが、エゴは解体される運命にある。
その硬直化した構造は、宗教であれその他の制度、企業、政府であれ、 
一見どれほど強固に見えようとも、内側から崩れていくだろう。


エックハルト・トール「ニュー・アース」




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2008.12.19 死後の世界
近年、死生学が復活し、
死後生について考えることは、タブーではなくなりつつあります。

先日最終回となった倉本ドラマでも、「死後生」が正面から扱われていました。
そのなかで、主人公は、はっきりと「死後の世界は有ると思う」と言っていました。

死後の世界について論ずることが、
即ちオカルトだといって排斥する軽薄な姿勢は、時代遅れとなりつつあります。

肯定するにしても、否定するにしても、誰もが想定せざるを得ないのが死後の世界の存在です。

そして、どうやらその存在は、懐疑論者も無視できないほどのリアリティーを持ってきたようです。

死ねば無になるのであれば、生きることに意味はありません。
どのように生きても、結果は同じなのですから。

道徳的要請としても、死後の世界は不可欠なのです。


「死によって一切が終わるという思想に耐えることができた正しい魂、
また、その高貴な心根が、死後生という未来の希望へと高められなかった正しい魂は、
おそらくいまだかつて存在しなかったであろう。」(カント『視霊者の夢』)




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