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2008.12.28 無我問題
仏教界のなかでも左翼唯物論勢力と保守勢力の思想戦は始まっています。

廃仏毀釈に耐え、西洋合理主義の洗礼に耐え、
戦後の思想統制に耐えてきた保守派僧侶の受難の時期は長かった。

輪廻は差別思想とされ、あの世や霊は前近代的だとされ、糾弾されてきました。

本物の仏道修行は禁止されました。

それでも、真実を曲げなかった僧侶は、少なからず存在します。

オカルト、オウム、トンデモ、と言われても、真実は真実。

近年は、唯物論勢力は、あらゆる見地から論破され、旗色が悪いようです。

日本は、宗教研究でも、西洋より20年以上遅れています。

仏教思想においても、欧米での研究成果が、日本に逆輸入されているような状況です。

しぶしぶ、日本の仏教者は、それを認め始めているのです。

先日、開催された、
仏教と西洋心理学の協力関係を模索する『日本仏教心理学会』の設立総会では、
西洋心理学に精通した仏教者が、日本仏教の「無我」解釈に対して異を唱えています。

「無我ということは、自己が無い、霊魂が無いということではないのだ」と、
「仏教は虚無主義ではないのだ」と、
「修行主体としての自己はあるのだ」と、
「無我ということは、自我を実体視して、それに執着をするのを止めよということなのだ」と、
そういうことを皆言われたそうです。

最新の西洋心理学では、物質的存在を離れた、
無意識領域よりもっと進んだ、
トランスパーソナル(超個的)領域までも認めるのですから当然です。


こんな簡単なことですら、唯物論勢力は理解できないのです。

エゴの塊で「無我」になりきれていないのは、どちらでしょうか?




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2008.12.28 来るべき世界
21世紀に入って、宗教間紛争は激化していますが、
人類は、大歴史家トインビーの提示するビジョンには、いまだ追いついていません。




高等宗教が自覚している使命は、
個々の人間を究極の霊的実在に直接に接触させることである。
高等宗教は、人間がこのうつろい易い人生を生きていく時悩まされる試練に対し、
人間を啓発し、導きと助けとを与えてくれる。
人間は誰でも、失敗し、罪を犯し、愛する者との死別に耐え、そして最後には死に出会う。
人間は不断の精神的な助けを必要とし、それは高等宗教によって与えられる。
高等宗教は人間に生得の権利を所有させた。
人間は社会のために存在するのではない。
その目的は究極の霊的実在との親交と調和にあり、
社会はこの個人の霊的探求のために存在するのである。
高等宗教は人間に、人間自身についての真理を教えた。
イデオロギーは、高等宗教の不十分、不完全な代用である。
それでもなお、高等宗教が再び人の心をつかむまでは、
イデオロギーが高等宗教のかつての信者の心をつかみ、それを保つことはほぼ確実である。
高等宗教が人心を取り戻すためには、もう一度自己に忠実にならなければならない。
そしてそのためには、少なくとも3点において習慣を改めなければならない。
高等宗教は、お互いに対する態度と行動を、
敵意と敵対から愛と協力に変えなければならない。
高等宗教は実際的な方法で、各時代の重大な問題に関与しなければならない。
そして高等宗教は、それらの制度、教義、教えの永久に変わらぬ本質から、
長い歴史のうちに本質を覆い隠してしまった非本質的な付着物を取り去らなければならない。

第二次世界大戦以来、
宗教界の諸権威と各信者たちに起った変化は、新たな明るい見通しを開いた。
信者の獲得と維持のために互いに争い続ける代りに、
全体としての人類、および人類というものを構成する一人一人の人間に、
可能な限りの助力を与えるために諸々の高等宗教は互いに協力するようになるだろう。
宗教が人間の魂のためにすることのできる最大の霊的な奉仕は、
それが真理と救いを探求するのを、たとえその探求が、
魂を先祖伝来の宗教からその魂自身が選んだ別の宗教へと導くものであっても、
助けることである。
宗教における成功の尺度は信者の数ではない。
それは人間に、その人間がどの宗教に帰依しているかということは問題にせず、
どれだけの精神的な助力を与えることに成功したかなのである。

芸術が伝統的に宗教に献げられていたということは、
人間の真の最終目的が芸術ではなく、宗教であることを暗示する。
宗教は私たちの祖先が人間になって以来常に人間の最終目的だった。
究極の霊的実在の追求は、人間性本来のものである。
過去においてある者は熱心にこの共通の生得権を受け入れ、
他のものはこれからなんとか免れようとした。
私たちは今、真実を無視することが一層難かしい時代に移りつつある。
機械化、原子力、富裕、余暇の来るべき時代に、
宗教は、人間の際限のない渇望に対して開かれた自由と創造のための無限の場として、
正当の名誉を博するように必ずなるだろう。

西欧および私たちの西欧化された世界の将来の見通しはどんなものだろうか。
西欧人および西欧化された人々は、
人間の霊的な瞑想の能力をうまく使うことができるだろうか。
もしこの能力が退化するならば、私たちは人間の生れながらの権利を失わなければならない。
そして核時代において、私たちの人間以下の動物性に返る過程は、
必ず「獣的で短期間に行われる」ものだろう。
しかし私たちが自分たちから取り去り、捨て去ろうと如何に必死になっても、
神を求める人間の衝動が根絶できないものであるということは考えられる。
「人間の第一の、最高の目標とはなにか。
人間の第一の目的は神を賛美し、永遠に神を享受することである」。
この問いと答えとは、如何なるヒンドゥー教の聖典や、
中世西欧キリスト教神学の著作からも出て来ない。
これらは、1648年に作られ、スコットランドのカルヴィン派教会に採用された、
ウェストミンスター教理問答の最初の文句である。
これらの言葉の中に、近代西欧人は彼らが避けようとしている真実を、
われにもあらず宣言しているのである。
彼らは自分自身に対して反証を与えている。
この告白は自らを弁解するものであり、また自らの救いに対する希望である。
神を讃美し永遠に神を享受するということは、
地上での人間の生に残されている20億年を待たずして、
この地上での現在の永遠の生と関わりをもつものである。


「現代が受けている挑戦」




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先月の文藝春秋にも出ていた立花隆氏の代表作「宇宙からの帰還」では、
宇宙飛行士ミッチェル氏へのインタビューが白眉です。

発刊当時(1983年)はトンデモだと思われたのですが、今読むとピンと来ます。




「超能力を扱うには、まず、それにふさわしい精神の安定と感性の安定を得ることが必要だ。
心の中からあらゆる日常的世俗的雑念を払いのけ、
さざ波一つない森の中の静かな沼の水面のように、心を静寂そのものに保ち、
透明な安らぎを得なければならない。
精神を完全に浄化するのだ。
精神を完全に浄化すれば、とぎすまされた鋭敏な感受性を保ちながら、
それが外界からいささかも乱されることがないという状態に入ることができる。
仏教でいうニルヴァーナだ。
そこまでいけば、人間が物質的存在ではなく精神的存在であることが自然にわかる。
人間は物質レベルでは個別的存在だが、精神レベルでは互いに結合されている。
ESPの成立根拠はそこにある。
さらに進めば、人間のみならず、世界のすべてが精神的には一体であることがわかるだろう。
超能力現象は、このスピリチュアル・ワンネスの証明なのだ。
スピリチュアル・ワンネスがあるから、スピリチュアルになりきった人間は、
物理的手段によらず外界とコミュニケイトできる。
古代インドのウパニシャドに、『神は鉱物の中では眠り、
植物の中では目ざめ、動物の中では歩き、人間の中では思惟する』とある。
万物の中に神がいる。だから万物はスピリチュアルには一体なのだ。
しかし、神の覚醒度は万物において異なる。
だから、万物の一体性はなかなか把握できない。
眠れる神をも見ることができるだけスピリチュアルになることができた人間にしてはじめて、
この一体性を把握できる。
そして、充分にスピリチュアルになりえた人間には、超能力がおのずから生まれる。
イエスのことばに、
『まず神の国を求めよ。そうすれば、すべてはそれにともなって与えられる』とある。
まず超能力を求めてはいけない。まず、神の国を求めるべきなのだ。
超能力とは、より大きな精神世界の一部であると知るべきだ。」

「宗教の側には部分的真理という以上の問題がある。
それは教団として組織化されることから生じた、真理の道の踏み外しだ。
すべての宗教は偉大なスピリチュアルな真理をつかんだ指導者の教えにはじまる。
しかし、信者は、その教えの本質を充分には理解しない。
各宗教の教祖となったような人々は、イエスにしても、ブッダにしても、モーゼにしても、
モハメッドにしても、あるいはゾロアスターや老子にしても、
みな人間の自意識の束縛から脱して、
この世界のスピリチュアル・ワンネスにふれた人々なのだ。
だから、彼らはみな同時に超能力者でもあった。
彼らはみな奇蹟を起こした。
奇蹟というのは超能力現象の別の表現だ。
しかし、その教えを受けて、追随した人々のほうは、
自意識の束縛から逃れきれていないために、
教えられた真理をそこまでの深みにおいて把握していない。
だから、指導者が世を去ると、信者集団はスピリチュアルな真理から、
人間的自意識の側に引き戻されてしまう。
そして教団が組織され、教団全体としてますます原初の真理から離れていくことになる。
教団化された既成宗教はどれをとっても、いまや真のリアリティ、
スピリチュアルなリアリティから離れてしまっている。
私がいう宗教的真理というのは、教団教義のことではない。」

「神とは宇宙霊魂あるいは宇宙精神であるといってもよい。
宇宙知性といってもよい。それは一つの大いなる思惟である。
その思惟に従って進行しているプロセスがこの世界である。
人間の意識はその思性の一つのスペクトラムにすぎない。
宇宙の本質は、物質ではなく霊的知性なのだ。この本質が神だ。」

「人間というのは、自意識を持ったエゴと、普遍的霊的存在の結合体だ。
前者に意識がとらわれていると、人間はちょっと上等にできた動物にすぎず、
本質的には肉と骨で構成されている物質ということになろう。
そして、人間はあらゆる意味で有限で、宇宙に対しては無意味な存在ということになろう。
しかし、エゴに閉じ込められていた自意識が開かれ、後者の存在を認識すれば、
人間には無限のポテンシャルがあるということがわかる。
人間は限界があると思っているから限界があるのであり、
与えられた環境に従属せざるをえないと思っているから従属しているのである。
スピリチュアルな本質を認識すれば、無限のポテンシャルを現実化し、
あらゆる環境与件をのりこえていくことができる。
人が死ぬとき、前者は疑いもなく死ぬ。消滅する。人間的エゴは死ぬのだ。
しかし、後者は残り、そのもともとの出所である普遍的スピリットと合体する。
神と一体になるのだ。後者にとっては、肉体は一時的な住み処であったにすぎない。
だから、死は一つの部屋から出て別の部屋に入っていくというくらいの意味しかない。
人間の本質は後者だから、人間は不滅なのだ。
キリスト教で人が死んで永遠の生命に入るというのも、
仏教で、死して涅槃に入るというのも、このことを意味しているのだろう。
だから、私は死を全く恐れていない。」

「宗教はすべて、
この宇宙のスピリチュアルな本質との一体感を経験するという神秘体験を持った人間が、
それぞれにそれを表現することによって生まれたものだ。
その原初的体験は本質的には同じものだと思う。
しかし、それを表現する段になると、その時代、地域、文化の限定を受けてしまう。
しかし、あらゆる真の宗教体験が本質的には同じだということは、
その体験の記述自体をよく読んでいくとわかる。
宗教だけに限定する必要はない。
哲学にしても同じことだ。
真にスピリチュアルな体験の上にうちたてられた哲学は、やはり質的には同じものなのだ。」

「進化の方向ははっきりしている。
人間の意識がスピリチュアルに、より拡大する方向にだ。
つまり、イエスとか、ブッダとか、モハメッドとかは、
早くからこの進化の方向を人類に指し示していた先導者なのだ。
どんな進化でも、種全体が大きく変る前から、
進化の方向を先取りして示す個体があるのと同じことだ。」




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