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2008.12.29 至高神
現代にも、
命懸けで仏法真理を伝え広めようとしている諸菩薩諸如来が転生している。

彼らのどこに私利私欲があろうか。

純粋な愛ゆえに。

その教えを知り、実践すれば、本当に、誰もが救われ幸せになることが出来るのだ。

一宗一派の話ではない。

仏陀は、神々の師。

様々な神や高級霊を統べる至高神。

霊人の立場や違いを認めながらも、全体として導いていく地球霊団最高責任者。

縁無き衆生は一人もなし。

ゆえに、仏陀は、危機の時代に地上に再誕し、
宗教を原因とする争いに終止符を打ち、地球を一つにする使命を持つ。

仏陀に帰依するとは、共に、その使命を遂行するということである。




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2008.12.29 大乗的精神
仏教には、
どうとでもとれるような便利な空、無我、縁起、勝義諦、中道、仮諦、方便、真如、
などの専門用語がたくさんあるため、
虚無論学者の詭弁に惑わされないように注意が必要です。

東京帝国大学インド哲学教授の木村泰賢博士は、
大乗仏教の根本精神は「真空妙有」にあると、その汎神論的見解をはっきり示されています。

これこそが、大乗仏教の真髄なのです。





大乗は一面においては通俗的宗教であるから、
必ずしも哲学的世界観を要すると定まってはいない。
が、しかし元来哲学的宗教である仏教であるから、
たとえ表面に表われていない場合でも背後には常に哲学的人生観を予想している。
まして大乗神学となると、小乗以上に深い哲学の上に建設されているので、
大乗といえば通例この哲学的方面を指す有様となっているくらいである。
しからば、その大乗の哲学的世界観はいかにというに、
もちろん同じ大乗といっても、この間に種々の流派があって、
それぞれの哲学観も異なるけれども、先ず全般に通ずる根本観念とも名づくべきものは、
一口にいえば「真空妙有」の四字に収まるものと思う。

真空とは何にもないということ、
妙有とはその何にもないという中にまた諸法が歴然として存在するということであって、
しかもこの二個の観念が一つのものとなって離れぬところに大乗哲学の特色があるのである。
両者を離さずに真空の極致は妙有であり、
妙有の背後には真空を予想するという点においては、諸大乗教は皆同一である。

今試みに、これを主な大乗経典について述べてみるならば―あらゆる大乗経典中、
その最も原始的でかつ根本的なるのは、いうまでもなく般若部の経文である。
しかるにこの般若部の経典はその数においては非常にたくさんあるけれども、
要するところ、ただこれ「空」の一字を説いたものに外ならぬ。
空々、大空、畢竟空とすぺてを空にしなければ止まぬというのがこの経の立場である。
しかしながら、般若の主意をもって虚無主義と解するならば、
それは非常な誤りにて、般若に従えばその空々の否定の力は、
やがて大なる自由肯定の力となって現われるものである。
大袈裟であるけれども、般若経はこの力によって一毛の中に百億の須弥山を摂し、
一滴水の中に四大海を盛ることができるとさえいっている。
けだし般若の空とはこれを心理的に見るかぎり、いわゆる純粋能動態を意味したもので、
いい得るならば絶対意志または純粋意志の実現の当体であって、
言詮し表象することができないけれども、
少なくも体験としては絶対的自由にして無限の充実した生活であるから、
かくのごとき大袈裟なこともいい得たのであろう。
したがって般若はまたこの立場からして、
宇宙の森羅万象も所詮この空の力の顕われで、
世界は空であると同時に空はすなわち世界であるといい、
その空をほとんど形而上的原理のごとくにさえ説いたところもあるのである。
この意味において般若の空は頑空ではなく、
真空の妙有であると解するのが仏教の通例になっているのである。
しかもその妙有の契機点は要するに人格活動で、
特に慈善(布施)、徳行(持戒)、忍耐、努力(精進)、静観(禅定)、
智慧のいわゆる六波羅蜜として顕われ、
同時にこの六波羅蜜によって真の空は実現されると説くのである。
かくのごときは豈に一片の消極的虚無主義を理想とするもののいい得るところであろうか。
これ全く一切空の背後に無碍自由の人格活動を肯定しているがためであって、
しかも現実生活において実現されるところにその底意があることになっているがためである。
この般若の空思想はあらゆる仏教思想の根底となっているものであるから、
その真空の後に妙有の人格的肯定のあるということを見逃しては、
仏教の根本義はとうてい得られぬことになるということを注意しておくのである。
しかも、このことは同じく般若系統の上に立っている、
他の諸経文となれば一そう明瞭になっているから、試みにその二、三例を挙げてみよう。
例えばかの有名な維摩経であるが、
あの聖典の内容は般若を説いたものであることは、何人も疑わぬところである。
まして、根本ではやはり同じ般若系統に属する法華経となれば、
更に進んで真空が最も具体的な妙有として発現する様を説いたもので、
実に般若思想の行くべきところまで行ったものといっても然るべきものがある。
諸法実相、世間相常住などと説いては、
真空の当体は直ちに世間たるの妙諦を明らかにし、
この空を体現した人格者としての仏陀を説いては具体的人格に即して常恒、
遍在の永遠性を認め、次いでこの人格者の救済的活動としては、
観音菩薩の抜苦与楽の誓願として最も具体的に種々の場合を挙示し、
更に吾らの理想生活の代表としてはわずか八歳の竜女までも成仏すべき約束を与えて、
一切衆生にことごとく仏性ありとの旨を最も明らかに示したのは、
すなわち法華経の大結構である。
法華経の非常に重んぜられる所以も全くここにあるので、
つまりその背後に般若の真空を予想し、
それが妙有として現実的肯定的活動に顕われて行くところを説いたものと見るところに、
限りない深みが顕われて来るのである。
なおついでに一、二の経についていってみるならば、
かの華厳経も法華経に劣らぬ名高い経であるが、
これは要するに宏大な汎神観の上に立って、
宇宙の事々物々が互いに無碍に融通し無尽に縁起する様を説いたもので、
しかもそれは一法界の妙用として大日如来の顕現に外ならぬというのがその大主意である。
しかしながら、その根底を流れている思想を尋ねれば、やはり般若の空思想から来たもので、
つまり空の妙用を宇宙的に汎神論的に提示したものに外ならないのである。
また、かの阿弥陀経または無量寿経は、阿弥陀仏の本願をして、
念仏の衆生を導いて極楽に往生させるということを主張したものであるが、
一見すればかなり般若思想と離れているようである。
しかし、その歴史と義理とを詮索して行けば、
やはり真空の体現者としての光明無量と寿命無量の仏陀の救済的作用が、
特に未来に働いたものと解せねばならぬ。
しからざれば阿弥陀仏の信仰は遂に一片の神話に堕し去ることを忘れてはならぬ。
そのほか種々の大乗経典を調べて来れば、何らかの形で般若に関係しないものが、
一つもなく、しかもその中にはほとんど空の意味の見えぬほど、
妙有の方面の力説高調されているものもあるけれども、
次第に詮索して行けば遂に真空ということに帰着することが分かって来るのである。       
実は、かくのごときことは別段に論証の必要のないことではあるけれども、
教育ある社会には、特に西洋人の書いた仏教書を読んだ人などの中には、
大乗仏教の本意を虚無主義にあるかのごとくに批評する人もあるので、
特に経文の見方を挙げて、その然らざるを証明してみたのである。
ただ吾人はかくすべてを真空に帰したからとて、
それだから大乗仏教思想の積極的方面も遂に消極になるのであると解釈してはならぬ。
真空ということが、かく有的に取扱われているのが、
大乗仏教の哲学的真意であるということを誤解してはならぬ。
要するに空ということは、概念的に見れば、何も無いようではあるけれども、
実は体験的には最も具体的、現実的生活の肯定で、遂に実際的生活に至って始めて、
真の意義が実現するというのがその真意であるということに帰する。

吾人は仏国浄土の理想を地上に引下げることをもって、
大乗仏教の真髄を発揮する所以だと主張するものである。
しかしその理想の実現は要するに「真空妙有」の諦理を不断に実際化し、
生活化する経過中に求められるべきものである。
すなわち真空によって現状を打破すると同時に、
妙有によって高い規範による生活に進み、更に再び真空によってこれをも解脱して、
更に一そう高い規範的生活に進むことである。
かくして世と共に無窮に向上し進展して行くところに、
やがて「真空妙有」を背景とする不住涅槃の社会化ありというべきである。
ここに不断の努力と尽きない歓喜の調和があり、
ここに自己の満足と同時に全世界の満足が実現されよう。

「木村泰賢全集第六巻」



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