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2009.01.31 新日本学
戦後民主主義を総括し、猛省し、そして日本の魂を取り戻すべし。













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主権国家として自国を護るのはあたりまえのことです。

兼愛思想と非戦論を説いた墨子は、
一方で、新兵器を開発し、防衛技術について徹底的に研究して、戦争を未然に防ぎました。
また、専門家集団を育成し、攻め込まれた弱小国に派遣して護っていました。

他国に罪を犯させないためにも、毅然とした態度を示すことは善なのです。




「集団的自衛権」は行使できず、「領域警備」も許されず、攻撃的兵器も保有できずにいる。
国を守るというのに、制約ばかりが多いのが日本の国防の現実である。
これでいったいどうやって国を守れというのだろうか。
なぜそんなことになっているのかというと、
日本は「侵略国」で悪い国だという戦後の思い込みがあるからである。
日本を普通の国とし、自衛隊を他国並みの「軍隊」にすれば、
すぐに日本は暴走をし始めるという東京裁判以来の洗脳があるからである。
このことがどれだけ国民の自信を喪失させ、自衛隊の士気を低下させ、
従って国家安全保障体制を損ねているだろうか。
日米同盟もそうである。
本来、同盟というのはともに汗を流す。
血を流す関係である。
しかし現状では、米国が日本を一方的に助ける片務関係である。
また武器輸出が禁止されているため、
日本は武器の輸入や共同開発などでも高いコストを払っている。
日本人はアメリカが助けてくれるのは当然だと思っているかも知れないが、
政権が代わって、現に黒人として初めて大統領に当選したオバマ氏が、
選挙運動中に発表した論文では、中国重視の姿勢がはっきりとうかがえ、
日本のことにはほとんど触れていなかった。
それだけではない。
世界で「非核三原則」、「専守防衛」、「国連中心主義」、
などという空想を語っているのは日本だけである。
これで日本が本当に守れるのだろうか。

国民の皆さんは恐らく戸惑っているのではないだろうか。
戦後教育は日本を「侵略国」だと教え、そして残虐な「植民地支配」をした国だと教えてきた。
日本は古い歴史と優れた伝統を持つ素晴らしい国なのだ。
しかし、日の丸、君が代を大事にしようと言うと、右翼だとか、ナショナリストと罵られる。
そして、日本は侵略国家ではないと言ったら、私は解任された。
だが私は、戦い続ける。
私を突き動かしているのは、「このままでは国が滅びる」という思いだ。


田母神俊雄「自らの身は顧みず」




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2009.01.29 神への反逆
共産主義は、神への反逆であった。

その理論的主柱であるマルクスは、レイシストであり、キリストを憎み、ヘーゲルに嫉妬した。

その思想に犯されると、全てが反対になる。

彼らのいう真実は、すなわち虚構である。

「人権」を主張する彼らの仕事は、
イデオロギー闘争、洗脳、唯物論の喧伝、スパイ破壊工作、密告、恐怖支配、言論統制、
異論封殺、拷問、暴力革命、プロパガンダ、歴史の改変、人類史上最大最悪の虐殺。

後に台頭する全体主義をも生み出した。

「平等」を掲げるその社会には、不正、賄賂、超官僚主義、特権、格差が目立った。

そして、科学的であることを自認するが、実は魔の影響を受けた一種のオカルトであった。


「現代の悪魔は活字から入ってくる」byルドルフ・シュタイナー




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早くもキテター。なんというGJ!まさに、自由と繁栄の弧!

「私には一つの信念があります。
それは、経済的繁栄と民主主義を希求する限り、
平和と幸福は必ずや勝ち取れる、というものであります。」

名言です。

世界経済の新しい秩序づくり、世界最大規模の75兆円の三段ロケット経済対策、
雇用創出、減税、中小企業救済、抜本的な税制改革、公務員制度改革、
健康長寿国へ、世界に先駆けた低炭素革命、経済成長のためのアジア連携、
アニメなどのソフトパワーを生かした底力発揮、情報通信技術戦略、
農政改革、地方分権改革、年金改革、医療制度の見直し、交通事故半減、
介護報酬の引き上げ、高齢者社会への対応、少子化対策、消費者庁の設立、
自殺者対策、いじめ防止、外国人支援、ニート・若者支援、学力向上、
科学研究支援、英語力強化、国際競争力の向上、オリンピック誘致、
新エネルギー技術の開発、地球温暖化対策への貢献、日米同盟強化、
領土問題、ロシアとの関係の進展、中国との戦略的互恵関係、韓国とのパートナーシップ、
北朝鮮問題の解決、ODAによるアフリカ・発展途上国支援、資源エネルギー外交、
地球規模の貧困や環境問題への取り組み、国際平和協力活動への参加。

お腹一杯であります。


しかし、マスコミが注目するのは、なんと「読み間違い」!









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最近になって、ようやく西洋でも正当な評価をされ始めた仏教ですが、
一昔前は、西洋知識人によって、
キリスト教との差異を鮮明にするために、無神宗教や虚無思想だと喧伝されていました。

戦後、西洋文明に圧倒された日本でも、その論調に追従する知識人が多かったのです。

しかし、分析心理学者の創始者であるユングは、
そのような風潮のなかでも、仏教を正しく理解していた数少ない人物の一人です。

彼は、あくまでも精神医学者としての立場で語っていますが、その洞察は宗教者そのものです。




インドはアジア的な北方と太平洋的な南方の間に、
すなわちチベットとセイロンの中間に位置している。
北はヒマラヤの麓、南はアダムズ橋でインドは唐突に断ち切られる。
そして、一方の端ではモンゴルの世界が、
他方の端では南洋諸島のパラダイスが始まるのである。
セイロンもインドと奇妙に異なる点ではチベットと変らない。
おもしろいのは両方の端に「象の道」が見られることで、
これはパーリ語経典では「ブッダの教え」のことを言う。
なぜインドは、おのれの偉大な光明たるブッダの救いの道、
あの哲学と神の仕事の一体化をなくしたのだろう。
人類がもはや啓示と精神的修行の高みに踏みとどまっていられないのは、周知の事実である。
ブッダは時ならぬ歴史の闖入者であって、
歴史のプロセスをひっくり返したが、やがては歴史に負かされたのだ。
インドの宗教はヒンドゥー教の本殿かパゴダのようなものである。
神々は蟻さながらに、つぎつぎと、
基部に彫られた象の背から、塔の頂をかたどる抽象的な蓮の花へとよじのぼる。
時がたつにつれて、神は哲学的な概念になった。
ブッダという全世界の精神的先達は、悟りを開いた人間は、
その神に対してさえ教師であり救済者であると言い、その実を示そうとした。
だだし、西洋の啓蒙思想お好みの、神の愚かな否定者とは何の関係もない。
これは明らかに、いささか手に余ることだった。
当時のインドの精神は、神を人間の心理状態に依らしむるほど、
神を意識に統合するような段階には、ほど遠かったからである。
ブッダがどうしてこのような洞察に達し、
しかも自身が精神的な自我肥大に陥らないですんだのかは、奇蹟というほかない。
ブッダは神を徐々に観念に変えるという、
時代をあまりに先駆けた試みによって歴史のプロセスを乱した。
真の天才というものは、たいていこういうふうに時代に割り込み、かき乱すものである。
そのときどきの今の世界に、永遠の世界から語りかけるからだ。
そしてまさしくそれゆえに、彼はまさにその時代にとっては誤ったことを語ることになる。
永遠の真理は、歴史の与えられた瞬間にとっては、どの瞬間にあっても真ではないからだ。
観念への変成は、いったん休止ののち、ふたたび始まることになる。
この天才が永遠の貯蔵庫からもたらした、
今のところまるで役に立たないものを消化吸収するには、時を待たねばならない。
それにもかかわらず、天才はその時代にとっての治療者なのだ。
なぜなら彼が永遠の真理について明かすところはすべて、治癒をもたらすからである。
しかし、観念への変成というはるかな目標こそ、ブッダの意図したところにほかならない。
ただそこに至るには、一世代はおろか十世代をもってしてもむりである。
もっと長い間、いずれにせよ、何千年という時間がいるのはたしかである。
それは人間の意識の極度の発達にかかっているからで、
それがないと変成は実現されようがない。
そのことをただ信じるしかない。
ブッダの弟子もキリストの弟子も明らかにそうした。
信者がつねにそうするように、信仰こそすべてだと考えて。
信仰は、うたがいもなく偉大なものである。

ブッダはインドの生活と宗教から消え去ってしまった。
インドがその祖師の魂に恩を忘れているわけではない。
古代哲学への関心は、めざましい復活を見せている。
カルカッタやベナレスの大学には優れた哲学科も設けられている。
ただもっぱら力がそそがれているのは、
古代のヒンドゥー哲学と厖大なサンスクリット文学なのである。
パーリ語経典は、どうやら正しく視野に収まっていない。
ブッダは単に哲学だけを説いたのではない。
彼は人間に挑戦しているのだ!
これがたとえ、「最も遠い道」であっても、結局正しい道なのである。
天才の神にも似た性急さは、小人を悩ませ、気も動転させるだろう。
だがほんの何世代かの後には、小人はまたしても単純に数の力で盛り返してしまう。
そして、どうやらそれで一向さしつかえないようなのだ。


「現在と未来」




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2009.01.28 至高の存在
神と仏の関係はどうなっているのでしょうか?

現代の仏陀は、学者には解り得ない史実を明かされています。




仏陀の生存中には、天上界の神々を尊崇しませんでした。
当時、仏陀は、この世に生きている存在であり、地上で法を説いていました。
仏陀は、「私は至高のものである。私に勝る神々なし。
私についてきなさい。私のほうを信じなさい」と説き、
天上界にある神々への尊敬は説かなかったのです。
したがって、仏陀在世中は仏陀が中心であって、
仏陀を直接に礼拝できる人は、仏陀に手を合わせて礼拝していました。
やがて、仏教は、仏陀に直接会えないような人にまで広がっていきました。
そのため、在家信者のなかには、仏像をつくった人たちもいます。
一方、「仏像をつくることも、仏陀のお姿を描くことも、おそれ多い」と考え、
法輪という一つの車輪のようなものを描き、
それによって、仏陀が法を説き、
その法が、魔軍を打ち砕きながら、この世に伝道されている姿を表した人たちもいます。
あるいは、仏陀の姿ではなく、
仏陀がその下で悟りを開いた菩提樹の木と、
仏陀が禅定していた場所だけを描いた人たちもいます。
これは一種の信仰形態です。
仏陀が人間であって人間ではないことを表しているのです。
姿形なき仏陀として、そういういろいろな絵が遺っていますが、
それらが一種の信仰の対象だったことは間違いありません。
仏陀の生存時を知っている弟子たちにとっては、信仰とは、生きている人に対するものでした。
ところが、時代が下って大乗の時代になると、当然、仏陀を見たことがない人ばかりなので、
人々は、あの世にある仏陀、直接見たことはない仏陀を信仰するわけであり、
キリスト教などの宗教の「神に対する信仰」と同じような形態になりました。
そして、しだいに、東大寺にある昆盧遮那仏などで表現されるような、
人間を超えた大きな力への信仰になったのです。
仏陀在世中は、悟りを開いて教えを説いている仏陀が信仰の中心になり、
仏陀の帰天後は、天上界にある仏陀意識が信仰の中心になるのです。




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2009.01.28 入我我入
仏教は、仏に成るための教えであり、虚無主義とは対極にある。

仏に成るとは、仏神を信じ、仏神と一体になること。

我も仏も無く、自と他の区別も無い境地。

これを無我と言う。

地・水・火・風・空の五大元素によってなる肉体が、我ではない。

肉体への執着こそが、迷いの根本原因。

その姿は、まるで牢獄に捕われた小人のよう。

本来の人間は、もっと広大で、自由自在な存在である。

空海は言う、「仏性を開発せよ、そして無限の可能性を解き放て!」。




諸仏をわが身中に引入す、これを入我という。
わが身を諸仏の身中に引入す、これを我入という。
入我我入の故に、
諸仏の三無数劫の中に修集するところの功徳、我が身に具足しぬ。
また一切衆生の身中の本来自性の理と、
われ、及び諸仏の自性の理と平等にして差別なし。
しかも衆生は知せず、覚せずして生死に輪廻す。


「秘蔵記」




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2009.01.28 明日があるさ
暗黒面(ダークサイド)の連中に負けないで!






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2009.01.27 断見外道
仏教で厳しく戒められる「断見」とは、
その字のごとく、肉体の死を境にしていのちは断絶する、
すなわち、死ねば終りという見解です。

同じく否定されるべき「常見」とは、
肉体の死を境にしても、生前時と変わりなくいのちは恒常的に存続する、
すなわち、不死という見解です。

断見はもちろんのこと、
死を境に、肉体とエーテル体を脱ぎ捨てていくのですから、常見も正しくありません。

現代の僧侶の多くは、
「断見」については、なぜか不問に付し、
「常見」については曲解して、霊魂否定に結びつけたがるようです。

日本では、断見仏教者が大きな顔をして、無霊魂説を流布しているのです。

不出生の禅僧、白隠禅師の厳しいお言葉です。




人は二気(陰陽)の良能にして、
死すれば灯などの消えうせるが如くなるものを、
何の天堂(天界)かあり、何の地獄かあらむと。
これは断見外道の所見にして、恐るべきの悪見なり。
昏愚、これより甚しきはなし。
仏教中には因果を信じ、来世あることを知り、
苦報を恐るるを以って、大智慧とす。

「邊鄙以知吾」




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2009.01.27 宗教の役割
宗教の説くところは、この世の常識と大きくかけはなれています。

この世が全てだと思っている人にとっては、戯言にしか聞こえません。

しかし真実は、
霊的世界こそが私達の本来の住処であって、この世は仮の宿にすぎないのです。

霊的真理を知るには、正しい宗教を学ぶしかありません。

いつの時代にも、正しい宗教は、途絶えることなく説かれています。

どのような地域にも、神の一条の光は届けられています。

この世に生きている間に、
真理を掴むことができた人が、永遠のいのちを得ることになるのです。

宗教の役割は、霊的真理を知らしめ、永遠のいのちを与えるところにあります。




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