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「仏教は、輪廻からの解脱を目的とするものであるので、
解脱した存在であるところの阿羅漢以上のレベルになると再び生まれてくることは無い。」

これは、日本の仏教学者に顕著な言説です。

と、いうことは、「輪廻転生」という現象自体は認めている、ということなのでしょうか?

覚者だけは無に帰し、凡夫だけが輪廻転生をする、ということなのでしょうか?

それとも、
そもそも輪廻転生などというオカルト的なことはありえない、という立場なのでしょうか?

仏教聖者の菩薩は、
「カルマ的な輪廻を離れて、自らの意思で衆生救済の為に、この世に生まれてくる」、
という大乗仏教の精神は、全てフィクションだと言うのでしょうか?

そもそも、仏教各宗派の開祖は、皆、前世からの仏縁を語っていないでしょうか?

原始仏典にある如来の転生の秘密を、あえて無視しているのでしょうか?

仏陀の過去七仏は?弥勒の転生物語は?仏弟子への授記譚は?転輪聖王の伝説は?

他宗でも、キリストやメシアの再臨を待ち望むという信仰がありますが、
これはまさしく、「輪廻転生」以外の何ものでもないのではないでしょうか?

よもや、日本の仏教学者は、単なる西洋かぶれの唯物論哲学の見地から、
「輪廻転生」という事象を否定したいがために語っている、ということはありますまいな?




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スピリチュアル大国日本を目指そう。

日本は「神の国」というのは正しい。

日本人にはもともと、あらゆる宗教を受け入れ咀嚼できる素養がある。

しかも、日本は、大救世主が降臨を選ばれたる地。

寛容の精神を世界に向けて発信しよう。

宗教が尊敬される国、理想の国家像を世界に示そう。

宗教間の争いは全く不毛である。

これからは、唯物論を説いて、
スピリチュアルの浸透を阻もうとする一部の宗教者こそが、カルトと呼ばれるのだ。




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「意識が現実を創造する」

この、古代からの聖なる知識は、
現代科学の量子論によって、正しさが証明されつつあります。

わたしたちの心には偉大なる力があり、
人間は、奇跡を起こす潜在能力を有しています。

この一見単純な考えこそが、宇宙の原理なのです。




アルベルト・アインシュタインは自叙伝の中で、
私たちはすでに完成した宇宙の中に暮らす人生の傍観者であり、
宇宙に対して何の影響も及ぼさない存在であると述べています。
「気がついてみると、この広大無辺の宇宙はすでに完成していたのです」と、
アインシュタインは言います。
「それは人間とはかかわりなく存在し、摩訶不思議な、
永遠の謎として私たちの前に立ちはだかっています。
少なくとも宇宙の一部を調査したり、思考をめぐらしたりすることは可能だとは思いますが…」。
現在でも多くの科学者はアインシュタインのこの考え方に同調していますが、
それとは対照的に、
プリンストン大学の物理学者でアインシュタインの同僚であるジョン・ウィーラーは、
宇宙における人間の役割について、
アインシュタインとは180度異なる考え方を提唱しています。
大胆、明快に、かつ生き生きとした言葉でウィーラーは語ります。
「宇宙は私たちの体の外側にあり、人間は6インチの分厚い板ガラスによって守られ、
宇宙から隔たった安全な場所にいるという考え方は昔、確かにありました」。
二十世紀後半に行なわれた数々の科学的な実験は、
私たちが物体を見るだけでそれが変化することを発見しましたが、
ウィーラーはそうした実験に触れ、次のように言っています。
「私たちが量子の世界から学んだことは、電子のような極めて微小な物体を見るのにも、
あの分厚い板ガラスを粉々に割る必要があるということです。
つまり、その中に入っていかなくてはならないのです…。
ですから傍観者という表現は書物から削除し、
代わりに参加者という新しい言葉を用いるべきです」。
なんという発想の転換でしょう!
ウィーラーは私たちと世界の関わりあいについて、今までとはまったく異なる解釈をしています。
ウィーラーによると、
私たちはこの世界で起きる現象をただ眺めているだけの存在ではありません。
実際、量子物理学の実験から、電子のような微小な物体を見るだけで―ほんの一瞬、
電子のふるまいに意識を向けるだけで―電子の性質が変化することが判明しています。
こうした実験は、まさに「観測」というが創造そのものであり、
創造するのは私たちの意識だということを示唆しています。
このような発見はウィーラーの主張を支持しています。
つまり、私たちは単なる世界の傍観者ではなく、
観測する世界に影響を及ぼす存在だということです。
私たちは短い人生の中で、ただ宇宙を通り過ぎていくのではなく、
宇宙に参加していると考えるためには、
字宙とその仕組みについての新たな理解の枠組みが必要です。
宇宙に参加する私たち―そのような革新的な世界観の基礎を築いたのが、
プリンストン大学の物理学者でアインシュタインの同僚、
デイビッド・ボームによる一連の著作と論文です。 
既存の概念を一新した著作『全体性と内蔵秩序』で、
ボームは今よりも高い視点から宇宙の全体像を眺めることができれば、
この世界の事象は、実は私たちが観測することのできない、
別の領域で起こっている事象を投影したものである、ことがわかると提案しました。
彼は目に見えるものも見えないものも、宇宙全体に広がる、
より大きな秩序を表現していると考えたのです。
この目に見えない世界と見える世界を区別するために、
ボームはこの二つをそれぞれ「内蔵」、「顕然」と呼びました。
1970年代にボームは、宇宙は全体に広がる、分割不可能な統一体であると提案しました。
宇宙が相互に関連する性質を持つことに着目したボームは、
宇宙は壮大なホログラムのように機能する、という自説に、ますます確信を深めていきました。
ホログラムでは、どんな物体であれ、部分は必ず全体を含んでいます。
ボームは、私たちが認識するこの世界は、実はより深い現実を投影したものだと考えました。
物事のはじまりは、このより深いレベル―内蔵―で起きているのです。
この「上の如く下も然り。内の如く外も然り」という観点に立つと、
パターンはそれ自身の中に、自身と同じパターンを有していることになります。
それ自体が完全なものであり、違いは単にスケールが小さいというだけです。

宇宙が「内蔵」から「顕然」へと絶えず変化を遂げているように、
見えないものから見えるものへの流れは、宇宙にダイナミックな潮流を作ります。
ジョン・ウィーラーが宇宙を―未完成で絶えず意識に反応する―「参加型」宇宙、
として描いた際、彼の念頭にあったのはこの宇宙の絶え間なく変化する性質でした。
おもしろいことに、古来の伝承や知恵が伝える世界観は、
まさにジョン・ウィーラーの世界観と一致します。
紀元前五千年に始まったとされる古代インドのヴェーダ聖典から、
二千年の歴史を有する死海写本まで、そこには共通のテーマがあります。
それは、「この世界はより高次な世界、もしくはより深い現実を映し出したものである」、
という考え方です。
たとえば、死海写本の一部の新しい翻訳について、
訳者らはその内容を次のように要約しています。
「地球上で起こることは、あの偉大な、究極の現実を反映したものにほかならない」。
量子論も古文書も、私たちはこの世界の人間関係、
仕事、成功の青写真を目に見えない世界で創造していることを示唆しています。

グレッグ・ブレイデン「聖なるマトリックス」




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2009.01.05 日本スタート
いよいよ、激動の年の始まりです。






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