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2009.01.07 真理の獲得
真理を知るには一体どうすれば良いのでしょうか?

お釈迦さまは、その方法について実に明快に説かれれています。




じつにそのとき、カーパティカという名の16歳で若く髪を剃り、
語彙や儀式の仕方、音韻論や語源論、
そして第五の古伝説を含む三ヴェーダをきわめ、聖なる語句に精通し、
文法をよく理解し、世間の事柄と偉人の32の特徴を完全に体得した青年が坐っていた。

カーパティカ青年は世尊にこのようにいった。

「ゴータマさん、バラモンたちの古い聖句をこれこれと相伝することによって、
つまり聖典を保持することによって、バラモンたちは必ず結論に至ります。
『これだけが真実であって他は誤りである』と。
これについてゴータマさんはどう思いますか?」

「カーパティカよ、このように伝え聞いている。
バラモンたちのなかで、一人のバラモンもこのようにいわなかった。
『わたしはこれを知っている。わたしはこれを見ている。
これだけが真実であって他は誤りである』と。
バラモンたちのなかで、一人の師も、一人の師のなかの師も、
第七代までさかのぼってでも、このようにいわなかった。
『わたしはこれを知っている。わたしはこれを見ている。
これだけが真実であって他は誤りである』と。
バラモンたちのなかで、昔の仙人たちは多くの聖典を作り、多くの聖典を説いた。
いまのバラモンたちは、その歌われ、説かれ、集められた聖典の句にしたがって歌い、
説き、説かれたように説き、教えられたように教えているのだが、
その昔の仙人たち、つまリアッタカ、ヴァーマカ、ヴァーマデーヴァ、ヴェッサーミッタ、
ヤマタッギ、アンギラサ、バーラドゥヴァージャ、ヴァーセッタ、カッサパ、バグ、
かれらもこのようにいわなかった。
『わたしはこれを知っている。わたしはこれを見ている。
これだけが真実であって他は誤りである』と。
たとえばカーパティカよ、眼の不自由な人が、たがいにくっついて並んだ場合、
前の人もなにかを見ることがなく、中間の人もなにかを見ることがなく、
後ろの人もなにかを見ることがないように、
そのように、バラモンたちのことばは前の人もなにかを見ることがなく、
中間の人もなにかを見ることがなく、後ろの人もなにかを見ることがない、
というまさに眼の不自由な人の列のたとえになってしまうのである。
カーパティカよ、このことについてあなたはどう思うか。
このような場合、バラモンたちの信は根拠のないものになってしまわないであろうか?」

「ゴータマさん、バラモンたちは、信によってなにかを尊敬しているのではなく、
伝承によってバラモンたちは、なにかを尊敬しているのです。」

「カーパティカよ、じつに、あなたはすでに信に到達している。
そしていまあなたは伝承について語った。
じつに、これらの五つの法には現世において、二種類の結果がある。
五つとはなにかというと、
信、喜び、伝承、相について熟慮すること、そして、意見をよろこんで認めることである。
よく信じられているものであっても、それはむなしく、空虚で、いつわりであるかもしれない。
よく信じられていないものであっても、それは事実で、本当であり、真実であるかもしれない。
さらにまた、よく愛好されているものであっても、それはむなしく、
空虚で、いつわりであるかもしれない。
よく愛好されていないものであっても、それは事実で、本当であり、真実であるかもしれない。
さらにまた、よく伝承されているものであっても、
それはむなしく、空虚で、いつわりであるかもしれない。
よく伝承されていないものであっても、それは事実で、本当であり、真実であるかもしれない。
さらにまた、よく熟慮されているものであっても、それはむなしく、
空虚で、いつわりであるかもしれない。
よく熟慮されていないものであっても、それは事実で、本当であり、真実であるかもしれない。
よくよろこんで認められているものであっても、それはむなしく、
空虚で、いつわりであるかもしれない。
よくよろこんで認められていないものであっても、それは事実で、
本当であり、真実であるかもしれない。
カーパティカよ、真理を守っている智者が、
ここで一方的に『これだけが真実であって他は誤りである』という結論に達してはいけない。」

「それではゴータマさん、どれだけのことをもって真理を守ることになるのでしょうか?」

「カーパティカよ、人に信があったとしても、
『わたしには、このように信があります』とこのようにいうことは、
真理を守っているだけであって、
それだけでは『これだけが真実であって他は誤りである』という一方的な結論に達してはいない。
人に喜びがあったとしても、人に伝承があったとしても、
人に相について熟慮することがあったとしても、人に意見をよろこんで認めることがあっても、
『わたしには、このように意見をよろこんで認めることがあります』とこのようにいうことは、
真理を守っているのであって、それだけでは、
『これだけが真実であって他は誤りである』という一方的な結論に達してはいない。
じつにカーパティカよ、こういうことが真理を守ることである。
しかし、それだけでは真理を覚ることにはならない。」

「では、ゴータマさん、どういうことが真理を覚るということでしょうか?」

「カーパティカよ、ここに修行僧がいて、ある村または町の近くにすんでいるとしよう。
資産家または資産家の息子が、かれに近づいて三つのものについてかれを調べた。
つまり食欲の対象、憎しみの対象、迷いの対象が、かれにあるかどうかを調べた。
『じつに、この尊者にはそれらによって心が占領されて、
知らないのにわたしは知っているといったり、
見ていないのにわたしは見たといったりするような、
あるいはそれが原因で他の人たちに長夜のあいだ、
利益のない苦しみをもたらすようなことを他人にすすめる、
そのような貧欲・憎しみ・迷いの対象はあるのだろうか』と。
そして、かれを測べてこのように知った。
『この尊者には、それらによって心が占領されて、
知らないのにわたしは知っているといったり、
見ていないのにわたしは見たといったりするような、
あるいはそれが原因で他の人たちに長夜のあいだ、
利益のない苦しみをもたらすようなことを他人にすすめる、
そのような貧欲・迷い・憎しみの対象はない』と。
『また、この尊者の身体の行ない、口のことばは、
貧欲・迷い・憎しみのない人のそれと同じである。
また、この尊者が説く法は奥深く、見ることが難しく、覚りがたく、寂静ですぐれていて、
思索の範囲を越え、微妙なものであり、賢者によって知られるべきものであって、
その法は貧欲な人によって容易に説かれるべきものではない』と。
かれを調べて、かれは清浄であると認めたので、それでかれを信じた。
信が生じるとかれに近づいて行く。近づいて行けば尊敬する。
尊敬すれば耳を傾ける。耳を傾ければ教えを聞く。聞いて教えを保持する。
教えが保持されればその意味を考える。意味を考えるならば、教えはよろこんで認められる。
教えがよろこんで認められるとき、意欲が生じる。意欲が生じれば敢行する。
敢行してから考える。考えた後に一所懸命行なう。
一所懸命行ないながら、かれは身体によって最高の真理を覚る。
また、智慧によってその最高の真理を洞察して見る。
カーパティカよ、じつにこれだけのことによって真理を覚ることになるのである。
しかし、真理の獲得ではない。」

「ゴータマさん、どういうことが真理を獲得するということですか?」 

「カーパティカよ、じつにそれらの教えを連続して行なうこと、
くりかえし行なうこと、多く行なうことが真理の獲得である。」

「ところでゴータマさん、真理の獲得のためにはなにが役に立ちますか?」

「カーパティカよ、真理の獲得のために役に立つものは、一所懸命行なうことである。
一所懸命行なうことのために役立つものは熟考することである。
カーパティカよ、じつに、熟考することのために役立つものは、取行することである。
敢行することのために役立つものは、意欲である。
カーパティカよ、じつに意欲のために役立つものは、教えをよろこんで認めることである。
教えをよろこんで認めることのために役立つものは、意味を考えることである。
カーパティカよ、じつに意味を考えることのために役立つものは、教えを保持することである。
教えを保持することのために役立つものは、耳を傾けることである。
カーパティカよ、じつに耳を傾けることのために役立つものは、尊敬することである。
尊敬することのために役立つものは、近づいて行くことである。
カーパティカよ、じつに近づいて行くことのために役立つものは、信じることである。
もし、信が生じなければ、近づいて行くことはないであろう。
信が生じるから近づいて行くのである。 
だから、近づいて行くことのために役立つものは、信じることである。」

「ゴータマさん、すばらしいことです。
わたしはゴータマ尊師に帰依いたします。
また真理と修行僧の集まりに帰依いたします。
ゴータマ尊師はわたしを在俗信者として受け入れてください。」


パーリ原始仏典中部第95経「チャンキー経」




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マルクス主義と宗教の戦いは、宗教が勝利しました。

しかし、21世紀に入っては、宗教間の争いが激化しています。

一刻もはやく、宗教の相克から平和への道が模索されねばなりません。

その為、先端の宗教学においては、
宗教の違いを超えた「普遍的霊性」というテーマが扱われるようになってきました。

2005年に東京で開催された「国際宗教学宗教史会議」では、
カリフォルニア大学教授マーク・ユルゲンスマイヤー氏がこう提言しています




宗教がグローバル化の諸力と相互作用を起こすとき、爆発が起こることがある。
しかし、より積極的な結果を生むこともある。
生まれつつあるグローバル市民社会の中で、宗教が建設的な役割を担うのは不可逃的だ。

宗教を主に狭い組織レベルにおいて捉えるとき、
そして市民社会を主に社会事業の超国家的形態と捉えるとき、
この二つは互いに触れ合うところがないかもしれない。
宗教を狭く捉えれば、確かにジハードの運動は、
強引なマクドナルド文化と衝突するかもしれない。

しかし、宗教を最も広く捉え、
霊的な感性と道徳的責任の分担の次元と考えるならば、
それは最も広い意味での市民社会の概念、
すなわちグローバルな市民意識という概念に適合し得るのである。

後者の場合に予見されるのは、文明の衝突ではなく、文明の融和の可能性である。
世界の宗教的諸伝統は、地球規模で寛容、調和、
人間の尊厳を考えるための材料を豊富に備えている。

単一の伝統が―現代の西洋的な消費主義的大衆文化でさえ―、
共通の価値観と人間家族のヴィジョンを独占することはできない。
したがって、すべての宗教的伝統のメンバーは潜在的に、
一種の多文化的世界文明の構成員であると考える理由は十分にある。

いつの日かグローバル社会が出現し、共通の道徳体系、霊性、
社会的価値観がもたらされるというのは、確かに預言者的なヴィジョンである。
おそらく将来の世代のグローバル市民は、
モハンダス・ガンジー、マザー・テレサ、トゥトゥ主教、ダライラマなど、
今日広く尊敬されている人物を振り返って、彼らをグローバルな聖人と見ることだろう。
将来、これらの人物は、グローバルな霊性の先駆者と見なされるかもしれない。

世界の変化に応じて、グローバルな市民社会における宗教の役割も、
しばしば革新的で驚くべきかたちに変化する。
グローバル時代において宗教は絶えず刷新されていく。
それゆえ、グローバル化に対するひとつの宗教的応答が、
霊的な生活の新たな形態になるというのも、あながち夢想とは言えないだろう。





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