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2009.01.15
夢・目標・希望
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2009.01.15
カルトと言われても
僧侶は宗教家でありたい。
読経屋や葬式屋では悲しすぎる。
何の生産もしないのだから、せめて人々の魂の救済に生きよう。
カルトと言われるのを恐れてだんまりしている場合ではない。
常識家ぶった僧侶なんていらない。
「私は、ブッダの涅槃の境地も、
バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。
インドに於いては、仏教も外道もない、真理は一つ、
真実に実在する世界は一つなのです。
この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、
インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。
彼らは皆、その同一の有を、ただしそれぞれの視位から、
それぞれの制約に於いて見ているのです。
ブッダも同じなのです。」
(津田真一国際仏教学大学院大学教授)
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読経屋や葬式屋では悲しすぎる。
何の生産もしないのだから、せめて人々の魂の救済に生きよう。
カルトと言われるのを恐れてだんまりしている場合ではない。
常識家ぶった僧侶なんていらない。
「私は、ブッダの涅槃の境地も、
バラモンの哲人たちの梵我一如の境地も全く同じものなのだ、と確信しております。
インドに於いては、仏教も外道もない、真理は一つ、
真実に実在する世界は一つなのです。
この点ではヴェーダーンタとかサーンキャとか、
インド哲学の主要な体系も、すべて同じことなのです。
彼らは皆、その同一の有を、ただしそれぞれの視位から、
それぞれの制約に於いて見ているのです。
ブッダも同じなのです。」
(津田真一国際仏教学大学院大学教授)



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2009.01.15
神秘思想の深層
神秘思想に西洋も東洋もありません。
世界宗教は、全て同じ大陸から生まれています。
科学的言語は、いまや世界共通です。
世界には、合理主義と神秘主義の対立があるだけなのです。
今、世界では、さまざまな矛盾をもたらしてきた合理主義への批判が高まっている。
しかし、実はヨーロッパの側でも、
すでに前世紀の早い段階から、それはなされていたのだった。
こうした反合理主義者たちの中で最も尖鋭だったのが、
「神秘思想」を奉ずる近代オカルティストたちだったのである。
そして彼らによって、アジアのさまざまな精神的伝統も再評価されたのだ。
近代のオカルティストは、アジアに眼を向ける一方で、
体制的なキリスト教会により異教や異端、
あるいは魔術の名の下に追放されたヨーロッパの「闇の文化」にも眼を向けた。
彼ら近代オカルティストたちの批判は、当時の合理主義と、
体制化された伝統的キリスト教の世界観、価値観に向けられたものであった。
そこで彼らは古代の精神文化を見直し、
そこにアジアとかヨーロッパとかの区別を超えた、普遍的な真理を発見したと信じたのである。
この普遍主義は、近代から現代へと連続するヨーロッパ神秘思想の一大特徴となる。
無論、人智学を唱えたルドルフ・シュタイナーのように、
ヨーロッパの伝統にこだわる人々はいた。
しかし、その彼とて「個々の宗教は絶対の真理そのものではない」、
と考えた神智学の影響下に出たのだし、
また自らの著作や講演で仏陀やカルマに関して述べているのである。
神智学では、自らを単なる教義ではなく、真理の顕現だと考えた。
ブラヴァツキーは「真理より高い宗教はない」という、
古代ローマの神秘家プロティノスの師で神秘哲学の祖といわれる、
アンモニオス・サッカスの言葉を引用している。
スピリチュアリズムも、先に述べた二つの前提を認めさえすれば、
個々の教義や信仰は問題にしなかった。
このような普遍主義は、実はインドの格言「真理こそ最高の法である」から来ているのである。
この言葉は、1892年にシカゴで催された万国宗教者会議で、
ヒンドゥーの聖人と謳われた、ヴィヴェーカーナンダが語ったものだ。
この発想は古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』の、
「ただ一つのものが拡がって、この世のすべてとなった」という一節による。
すなわち、唯一の真理が、さまざまに表現されるという意味である。
こうした神秘思想の普遍主義的な傾向の中で、
近代オカルティストたちはアジアとヨーロッパを一体化しようとした。
しかし、これは果たして、近代から現代にかけての特有な、単なる一思潮にすぎないのか。
または単なるオカルティストたちの理想、あるいは妄想にすぎないのであろうか。
しかし、歴史的事実は、そうではないことを示しているのである。
「シャーマン」は、
仏教で出家者を指すパーリ語の「サマナ(沙門)」から来ていると言われるが、
シャーマニズムという宗教現象は仏教よりはるかに古く、
旧石器時代の狩猟文化にまで遡るものである。
また空間的にもユーラシアの各地に広く分布し、
その本質は、ルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデの言うように、
まさに古代のエクスタシーの技術であった。
このエクスタシーにより、脱魂現象に由来するさまざまな不思議が生じて、
それが魔術への信仰につながっていった。
中世ヨーロッパの「闇の文化」を特徴づけるものが、
異端思想とともにこの魔術であったことは疑えない。
その魔術がルネッサンスで見直されて、
近代の神秘思想の形成に大きな影響を与えたのも事実である。
それゆえ、シャーマニズムは、ヨーロッパの神秘思想の深層と称しても過言ではないのである。
神秘思想を扱ううえでは、源流とか深層といった面からの考察とともに、
その内容の構造をも問題としなければならない。
すると一見無関係な東西・古近の相互の神秘思想の間に、
興味ある類似が見出せるばかりか、
かえってこの種の発想の根底にあるものが浮び上がってくる。
その結果、個々の思想そのものも、よりよく理解できる場合が少なくない。
たとえば、日本の真言密教の「五輪成身観」と、
近代の魔術儀式の代表である黄金の暁教団における「タットワ瞑想」がある。
ともにインドの五大、つまり地、水、火、風、空の思想に発するが、
その技法によって喚起されるイメージや行の目的は両者で別個のものである。
それにもかかわらず、色と形の有する意義と、
意識の深層をエネルギー化することの重要性は両者に共通なのである。
さらにスピリチュアリズムの述べる霊体や幽体は、
古代インドのウパニシャッドの説く身体の多層性に照応し、
それをよく理解することによリヨーガの行ばかりか、
中国の仙道で言うような超常的な体験の意義も明らかになる。
しかも、それは単に理論や思想の問題だけでなく、実際の体験上からも言えるのである。
神秘修行の実践を志す人々は、ともすれば歴史や理論を軽視する傾向がある。
その種のことは、もっぱら研究者が扱えばいいのだと考えるのである。
しかしこれは短絡的にすぎるだろう。
なぜなら、西洋魔術のイメージ操作をやってみれば、
それがヨーガの瞑想法と通底するのに、ただちに気づくはずだからだ。
実践家の重視する技法を真に理解し、その修行を効果的なものにするためにも、
歴史や理論を通じて、自らの足元を確認する作業は必要だろう。
しかもこのような確認作業は、自らの属する特定の流派だけでなく、
その枠を超えて広く眼を見開くのが効果的なのだ。
それにより、かえって自己の位置が確認できるのである。
神秘思想が述べているような、高大な天空へ飛び上がろうと志すなら、
まずその足下の大地をしっかりと踏み締めねばならない。
そして、神秘思想という茫漠たる大海を無事に渡るには、
常に自らの位置を確認することを、心がけねばならないと思う。
岡田明憲「ユーラシアの神秘思想」
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世界宗教は、全て同じ大陸から生まれています。
科学的言語は、いまや世界共通です。
世界には、合理主義と神秘主義の対立があるだけなのです。
今、世界では、さまざまな矛盾をもたらしてきた合理主義への批判が高まっている。
しかし、実はヨーロッパの側でも、
すでに前世紀の早い段階から、それはなされていたのだった。
こうした反合理主義者たちの中で最も尖鋭だったのが、
「神秘思想」を奉ずる近代オカルティストたちだったのである。
そして彼らによって、アジアのさまざまな精神的伝統も再評価されたのだ。
近代のオカルティストは、アジアに眼を向ける一方で、
体制的なキリスト教会により異教や異端、
あるいは魔術の名の下に追放されたヨーロッパの「闇の文化」にも眼を向けた。
彼ら近代オカルティストたちの批判は、当時の合理主義と、
体制化された伝統的キリスト教の世界観、価値観に向けられたものであった。
そこで彼らは古代の精神文化を見直し、
そこにアジアとかヨーロッパとかの区別を超えた、普遍的な真理を発見したと信じたのである。
この普遍主義は、近代から現代へと連続するヨーロッパ神秘思想の一大特徴となる。
無論、人智学を唱えたルドルフ・シュタイナーのように、
ヨーロッパの伝統にこだわる人々はいた。
しかし、その彼とて「個々の宗教は絶対の真理そのものではない」、
と考えた神智学の影響下に出たのだし、
また自らの著作や講演で仏陀やカルマに関して述べているのである。
神智学では、自らを単なる教義ではなく、真理の顕現だと考えた。
ブラヴァツキーは「真理より高い宗教はない」という、
古代ローマの神秘家プロティノスの師で神秘哲学の祖といわれる、
アンモニオス・サッカスの言葉を引用している。
スピリチュアリズムも、先に述べた二つの前提を認めさえすれば、
個々の教義や信仰は問題にしなかった。
このような普遍主義は、実はインドの格言「真理こそ最高の法である」から来ているのである。
この言葉は、1892年にシカゴで催された万国宗教者会議で、
ヒンドゥーの聖人と謳われた、ヴィヴェーカーナンダが語ったものだ。
この発想は古代インドの聖典『リグ・ヴェーダ』の、
「ただ一つのものが拡がって、この世のすべてとなった」という一節による。
すなわち、唯一の真理が、さまざまに表現されるという意味である。
こうした神秘思想の普遍主義的な傾向の中で、
近代オカルティストたちはアジアとヨーロッパを一体化しようとした。
しかし、これは果たして、近代から現代にかけての特有な、単なる一思潮にすぎないのか。
または単なるオカルティストたちの理想、あるいは妄想にすぎないのであろうか。
しかし、歴史的事実は、そうではないことを示しているのである。
「シャーマン」は、
仏教で出家者を指すパーリ語の「サマナ(沙門)」から来ていると言われるが、
シャーマニズムという宗教現象は仏教よりはるかに古く、
旧石器時代の狩猟文化にまで遡るものである。
また空間的にもユーラシアの各地に広く分布し、
その本質は、ルーマニアの宗教学者ミルチャ・エリアーデの言うように、
まさに古代のエクスタシーの技術であった。
このエクスタシーにより、脱魂現象に由来するさまざまな不思議が生じて、
それが魔術への信仰につながっていった。
中世ヨーロッパの「闇の文化」を特徴づけるものが、
異端思想とともにこの魔術であったことは疑えない。
その魔術がルネッサンスで見直されて、
近代の神秘思想の形成に大きな影響を与えたのも事実である。
それゆえ、シャーマニズムは、ヨーロッパの神秘思想の深層と称しても過言ではないのである。
神秘思想を扱ううえでは、源流とか深層といった面からの考察とともに、
その内容の構造をも問題としなければならない。
すると一見無関係な東西・古近の相互の神秘思想の間に、
興味ある類似が見出せるばかりか、
かえってこの種の発想の根底にあるものが浮び上がってくる。
その結果、個々の思想そのものも、よりよく理解できる場合が少なくない。
たとえば、日本の真言密教の「五輪成身観」と、
近代の魔術儀式の代表である黄金の暁教団における「タットワ瞑想」がある。
ともにインドの五大、つまり地、水、火、風、空の思想に発するが、
その技法によって喚起されるイメージや行の目的は両者で別個のものである。
それにもかかわらず、色と形の有する意義と、
意識の深層をエネルギー化することの重要性は両者に共通なのである。
さらにスピリチュアリズムの述べる霊体や幽体は、
古代インドのウパニシャッドの説く身体の多層性に照応し、
それをよく理解することによリヨーガの行ばかりか、
中国の仙道で言うような超常的な体験の意義も明らかになる。
しかも、それは単に理論や思想の問題だけでなく、実際の体験上からも言えるのである。
神秘修行の実践を志す人々は、ともすれば歴史や理論を軽視する傾向がある。
その種のことは、もっぱら研究者が扱えばいいのだと考えるのである。
しかしこれは短絡的にすぎるだろう。
なぜなら、西洋魔術のイメージ操作をやってみれば、
それがヨーガの瞑想法と通底するのに、ただちに気づくはずだからだ。
実践家の重視する技法を真に理解し、その修行を効果的なものにするためにも、
歴史や理論を通じて、自らの足元を確認する作業は必要だろう。
しかもこのような確認作業は、自らの属する特定の流派だけでなく、
その枠を超えて広く眼を見開くのが効果的なのだ。
それにより、かえって自己の位置が確認できるのである。
神秘思想が述べているような、高大な天空へ飛び上がろうと志すなら、
まずその足下の大地をしっかりと踏み締めねばならない。
そして、神秘思想という茫漠たる大海を無事に渡るには、
常に自らの位置を確認することを、心がけねばならないと思う。
岡田明憲「ユーラシアの神秘思想」



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