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2009.01.16
大自然と共に
食の安全が問われています。
人間の浅はかな知恵が、作物の豊穣を疎外しています。
大自然の神秘には敵いません。
以下引用
自然農法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自然農法(しぜんのうほう)とは、不耕起(耕さない)、不除草(除草しない)、
不施肥(肥料を与えない)、無農薬(農薬を使用しない)を特徴とする農法。
肥料や農薬を使用する従来農法(有機農法も含む)と異なり、
基本的に播種と収穫以外の作業を行わず、自然に任せた栽培を行う。
しかし、油粕や米ぬかだけは撒く人や、耕起だけは行う人、
草を取らずとも刈ってしまう人も自然農法の実践者として名乗る事があるため、
その栽培法は多様である。
日本や世界各地に実践者がいる。
実践者
以下、代表的な自然農法の実践者を挙げる。
福岡正信
1937年に帰農、実験的に自然農法を始める。
高知県農業試験場勤務を経て、1947年からは自然農法一筋に生きる。
栽培形態が最も自然に近い独創的な農法を実践、普及。
多様な植物の種子を百種類以上集め、
粘土と共に混合・団子状にした粘土団子を作ったことでも知られる。
岡田茂吉
1935年に「健康」の生命原理と「無肥料栽培」の根本原理を説く。
1934年(昭和9年)の東北の大冷害で農家の悲惨な状況を助けたいという思いからもあった。
1936年から東京都世田谷区上野毛の邸宅にて実験的に作物を作り始め、
1942年からは水稲にも取り組む。1950年(昭和25年)から「自然農法」へと改称し、
1953年には「自然農法普及会」を発足させた。
1951年にはアメリカの初代J.I.ロデール(現在のロデール研究所)とも親交を交わしている。
1949年には、瑞泉郷構想を発表すると共に、
静岡県熱海市西山の地に現在でいう統合医療による診療所と多角的農業の実験展示ほ場、
花卉栽培、山水を生かした庭園などを建設し、農医連携の考えをもっていた。
岡田の在世時には完成しなかったが、
その遺志を受け継いだ団体によって静岡県伊豆の国市に瑞泉郷構想は実現した。
岡田の自然農法は、堆肥は活用するが、金肥や人肥、厩肥などの肥料や農薬を使用せず、
土本来が持っている作物を育てる力を発揮させ、活用する。
現在、普及にあたっては、ガイドラインが存在する。
移行期間には認可を得て資材を使うこともあるが、
土に力があれば資材も使用しないで充分育つと考えているので、
資材は一時的使用となっている。
【理念】 大自然を尊重し、その摂理を規範に順応する。
【原理】 生きている土の偉大な能力を発揮させる。
比嘉照夫
琉球大学教授。EM菌を利用したもの。
川口由一
農薬を用いた農業で体を壊し、無農薬、無肥料、不耕の農業を始める。
また、漢方医学と出会い、「生命の営みに沿った農」を模索。
引用終り
しかし、問題は「農協」です。
ここにも、戦後の科学的(唯物論)社会主義思想の影響が残っています。
仏教界と同じですね。
評論家の日下公人先生は、こう指摘されています。
「その実体は、自民党と結託して、農民から票をとることで、
政治家や農協の農村支配につながっている。
本来はよい農産物をつくってもらうための農政であるはずなのに、
いつの間にか、それが票のためになっている。
そういうことがあって、農業の担い手は票を持っている日本人でないとダメということになり、
外国人の農業への参入や海外での農業はとんでもないという考えにつながるのである。
日本の農業については、いろいろな問題があるが、
農業をやろうと思っても、簡単には参入できないようになっていることが大きな問題である。
原則としては、農業後継者と認められなければ、農地を持てないのである。
農地を所有するためには、農業後継者にならなければならないが、
農業後継者と認定するのはその村の農業委員会である。
だから、そこで認定されなければ農地を持つことができない。
たとえ農業をやりたいから農地を持ちたいといっても、
自由に借りたり持ったりすることができない。
これでは、憲法の職業選択の自由を奪っていることになる。
最近では、小泉改革によって、株式会社が農地を持つことも可能になったが、
それでも条件が厳しいので、ほとんど実現していない。
農業委員会を構成しているのは、その地域で農業後継者と認められて、
いま農地を持っている人たちで、そういう人たちは旧来の権益を守ろうとする。
さらにこれまでの既得権益を守ろうとしているのが、農協(JA)である。
もともと農協は太平洋戦争中に生産物を一元的に集約する目的でできた統制団体で、
農業会が、戦後の1948年に改組する形で発足したものである。
それを、農林水産省が農業政策の下部組織として使うようになり、さまざまな特権を与えてきた。
もともとは、農林水産省の出先機関として活動してきたのである。
いまは全国農業共同組合中央会が組織する農協グループをJAと呼んでいる。
その組織率は強力で、ほとんどの農家がJA(農筋)の会員になっているために、
地方においては膨大な票田になっている。
農協は、農業従事者のほとんどを自分の傘下に置いて、それで金融機関になって、
農業をしている人たちに金を貸し、ほとんど高利貸しになっている。
たとえば、北海道の牧場主は、
『牛を建物の中で飼え。その建築費を貸してやる。20年で返すように』と農協からいわれた。
しかし、牛は凍え死ぬことなどないので、外で飼ってもまったく差し支えない。
だから、『小屋を建てる必要はない』と拒否したいが、
もしもそれをすると村八分にされるという。
農協から金を借りるようにあらゆる圧力をかけ、
金を借りずに、新技術で農業をする人がいると、あらゆる邪魔をして追い出したりする。
メロンやスイカなど果物は温室で栽培できる。
ところが農協の人間が見に来て、
『このメロンはプランターで、地面についてないから農地法違反のメロンだから買えない』、
などとクレームをつける。
そうなると農協を通せないので、独自の流通ルートをつくらなければいけなくなる。
農協はそんなふうに、新しい工夫をして農業をやろうとしている人の邪魔をしている。
最近は農家から顧客への直結が、ネット販売などで広がって、
農協の存在意義は低下しているが、だからこそ、
これまでの方式にしがみついて旧態依然とした農業を存続させようとしている。」

農業は最重要の人間の営みです。
今後、大きな改革が望まれます。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
人間の浅はかな知恵が、作物の豊穣を疎外しています。
大自然の神秘には敵いません。
以下引用
自然農法
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
自然農法(しぜんのうほう)とは、不耕起(耕さない)、不除草(除草しない)、
不施肥(肥料を与えない)、無農薬(農薬を使用しない)を特徴とする農法。
肥料や農薬を使用する従来農法(有機農法も含む)と異なり、
基本的に播種と収穫以外の作業を行わず、自然に任せた栽培を行う。
しかし、油粕や米ぬかだけは撒く人や、耕起だけは行う人、
草を取らずとも刈ってしまう人も自然農法の実践者として名乗る事があるため、
その栽培法は多様である。
日本や世界各地に実践者がいる。
実践者
以下、代表的な自然農法の実践者を挙げる。
福岡正信
1937年に帰農、実験的に自然農法を始める。
高知県農業試験場勤務を経て、1947年からは自然農法一筋に生きる。
栽培形態が最も自然に近い独創的な農法を実践、普及。
多様な植物の種子を百種類以上集め、
粘土と共に混合・団子状にした粘土団子を作ったことでも知られる。
岡田茂吉
1935年に「健康」の生命原理と「無肥料栽培」の根本原理を説く。
1934年(昭和9年)の東北の大冷害で農家の悲惨な状況を助けたいという思いからもあった。
1936年から東京都世田谷区上野毛の邸宅にて実験的に作物を作り始め、
1942年からは水稲にも取り組む。1950年(昭和25年)から「自然農法」へと改称し、
1953年には「自然農法普及会」を発足させた。
1951年にはアメリカの初代J.I.ロデール(現在のロデール研究所)とも親交を交わしている。
1949年には、瑞泉郷構想を発表すると共に、
静岡県熱海市西山の地に現在でいう統合医療による診療所と多角的農業の実験展示ほ場、
花卉栽培、山水を生かした庭園などを建設し、農医連携の考えをもっていた。
岡田の在世時には完成しなかったが、
その遺志を受け継いだ団体によって静岡県伊豆の国市に瑞泉郷構想は実現した。
岡田の自然農法は、堆肥は活用するが、金肥や人肥、厩肥などの肥料や農薬を使用せず、
土本来が持っている作物を育てる力を発揮させ、活用する。
現在、普及にあたっては、ガイドラインが存在する。
移行期間には認可を得て資材を使うこともあるが、
土に力があれば資材も使用しないで充分育つと考えているので、
資材は一時的使用となっている。
【理念】 大自然を尊重し、その摂理を規範に順応する。
【原理】 生きている土の偉大な能力を発揮させる。
比嘉照夫
琉球大学教授。EM菌を利用したもの。
川口由一
農薬を用いた農業で体を壊し、無農薬、無肥料、不耕の農業を始める。
また、漢方医学と出会い、「生命の営みに沿った農」を模索。
引用終り
しかし、問題は「農協」です。
ここにも、戦後の科学的(唯物論)社会主義思想の影響が残っています。
仏教界と同じですね。
評論家の日下公人先生は、こう指摘されています。
「その実体は、自民党と結託して、農民から票をとることで、
政治家や農協の農村支配につながっている。
本来はよい農産物をつくってもらうための農政であるはずなのに、
いつの間にか、それが票のためになっている。
そういうことがあって、農業の担い手は票を持っている日本人でないとダメということになり、
外国人の農業への参入や海外での農業はとんでもないという考えにつながるのである。
日本の農業については、いろいろな問題があるが、
農業をやろうと思っても、簡単には参入できないようになっていることが大きな問題である。
原則としては、農業後継者と認められなければ、農地を持てないのである。
農地を所有するためには、農業後継者にならなければならないが、
農業後継者と認定するのはその村の農業委員会である。
だから、そこで認定されなければ農地を持つことができない。
たとえ農業をやりたいから農地を持ちたいといっても、
自由に借りたり持ったりすることができない。
これでは、憲法の職業選択の自由を奪っていることになる。
最近では、小泉改革によって、株式会社が農地を持つことも可能になったが、
それでも条件が厳しいので、ほとんど実現していない。
農業委員会を構成しているのは、その地域で農業後継者と認められて、
いま農地を持っている人たちで、そういう人たちは旧来の権益を守ろうとする。
さらにこれまでの既得権益を守ろうとしているのが、農協(JA)である。
もともと農協は太平洋戦争中に生産物を一元的に集約する目的でできた統制団体で、
農業会が、戦後の1948年に改組する形で発足したものである。
それを、農林水産省が農業政策の下部組織として使うようになり、さまざまな特権を与えてきた。
もともとは、農林水産省の出先機関として活動してきたのである。
いまは全国農業共同組合中央会が組織する農協グループをJAと呼んでいる。
その組織率は強力で、ほとんどの農家がJA(農筋)の会員になっているために、
地方においては膨大な票田になっている。
農協は、農業従事者のほとんどを自分の傘下に置いて、それで金融機関になって、
農業をしている人たちに金を貸し、ほとんど高利貸しになっている。
たとえば、北海道の牧場主は、
『牛を建物の中で飼え。その建築費を貸してやる。20年で返すように』と農協からいわれた。
しかし、牛は凍え死ぬことなどないので、外で飼ってもまったく差し支えない。
だから、『小屋を建てる必要はない』と拒否したいが、
もしもそれをすると村八分にされるという。
農協から金を借りるようにあらゆる圧力をかけ、
金を借りずに、新技術で農業をする人がいると、あらゆる邪魔をして追い出したりする。
メロンやスイカなど果物は温室で栽培できる。
ところが農協の人間が見に来て、
『このメロンはプランターで、地面についてないから農地法違反のメロンだから買えない』、
などとクレームをつける。
そうなると農協を通せないので、独自の流通ルートをつくらなければいけなくなる。
農協はそんなふうに、新しい工夫をして農業をやろうとしている人の邪魔をしている。
最近は農家から顧客への直結が、ネット販売などで広がって、
農協の存在意義は低下しているが、だからこそ、
これまでの方式にしがみついて旧態依然とした農業を存続させようとしている。」

農業は最重要の人間の営みです。
今後、大きな改革が望まれます。



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2009.01.16
宇宙樹
現代の仏陀は、霊的に見た真実の世界観を示されています。
このような驚愕の事実を教えることができるのは、大如来だけなのです。
古来、宗教的な世界では、
「宇宙には、『宇宙樹』とでも言うべき大きな木がある。
宇宙のなかに一本の生命の木、生命の大樹が生えている」という言い伝えがあります。
実際に、霊的に見る世界は、望遠鏡で見る世界とは違っています。
宇宙のなかに一本の大きな木があって、それが何本もの大きな枝に分かれ、
その枝がさらに分かれ、何度も分かれていって、いろいろなところに伸びているのです。
この生命の大樹は「宇宙木」とも言われています。
これは、私だけが言っているのではありません。
肉眼で見た人は誰もいませんが、昔から、そういう伝説があるのです。
宇宙を貫く、この大木は、大きな視点で見ると、
地球というレベルを超えて、全宇宙にまで、その枝を伸ばしている大木です。
これを地球的視点から見ると、
地球という霊系団のなかにも、一本の大きな大きな柱のような木が生えています。
その生命の大樹の名を、「エル・カンターレ」といいます。
このエル・カンターレという存在が、地球に生きる、すべての生命の根源なのです。
ここから霊的なエネルギーが流れ出しています。
この生命の大樹、生命の大木から、大きな枝がたくさん出ています。
そして、地球の霊系団のなかで、この大きな枝に当たるものが「民族」なのです。
いろいろな国の民族が、この大きな枝の部分に当たります。
では、民族を決めるものは何でしょうか。
それが「宗教」です。
「民族の違い」とは、実は「宗教の違い」なのです。
それぞれの民族は、
「新しい教えを創唱した宗教指導者によって導かれた人々の群れが、その始まりである」、
ということになります。
そして、そこから大きな枝が何本も分かれ、
いろいろな時代に、いろいろな宗教ができて、いろいろな民族が繁栄したわけです。
このように、文化や文明の基底、基本には宗教があります。
何千年かの間、一つの民族が、さまざまな傾向性を持った文化を生み出し、
そこで、人々は何度かの転生、生まれ変わりを経験しながら、
その宗教のなかでの一定の文化というものを経験しています。
この「民族」という一本の大きな太い枝の先のほうを見ると、
さらに枝がどんどん分かれていきます。
それぞれの枝は、国としてまとまっている場合もありますし、
国を超えた幾つかの地方、アジアやヨーロッパなどの地方にまとまっている場合もありますし、
世界中に広がっている場合もあります。
その太い枝が細分化されて、国別、地域別、
あるいは、そのなかの一定の考えを持った人の集団のところへと枝が伸びているのです。
生命の枝は次々と細分化されていきます。
大きな枝から中ぐらいの枝になり、さらに細い枝が伸びています。
そして、この細い枝のいちばん先のほうには、末端の小さな枝が無数に出ていて、
たくさんの葉っぱが繁っているように見えます。
さらに近寄ってよく見ると、一つの小さな枝の先端に、六枚ぐらいの葉っぱがついています。
この枝についている六枚の葉っぱを「一つの生命体」として見るのです。
これを「魂の兄弟」といいます。
「魂の兄弟」は、原則として、「本体」という、魂の中心となる“司令塔”の部分、
“頭”になる部分と、その兄弟である五人の魂で、“一つ”にまとまっています。
この六人の魂全体で、“一つの生命体”になるのです。
それぞれの魂は、順番に、この地上に生まれます。
死んで霊界に還っても、地上に生きていたときの姿のままで生活していることが多いのですが、
それでも、本体と分身の全体で、まとまった一つの個性として、
「自分たちは、こういう魂である」という自覚を共有しているのです。
それぞれの魂には違いがあって、外見上は、地上に生きていた時代の姿の違いにも見えます。
しかし、魂の面から、まとまった一つの個性として見ると、
それぞれの魂が地上で経験した記憶が、
いろいろな断面として重なり合っているようにも見えるのです。
例えば、「江戸時代の記憶」「鎌倉時代の記憶」「平安時代の記憶」というように、
それぞれの時代に地上で生きた自分の姿が魂の記憶のなかにあり、
それを映画のスクリーンに映すように表現すると、
違う個性の人が何人かいるようにも見えるわけです。
そのように、人間の魂は、六人単位ぐらいのエネルギー量を持っていて、
そのうちの一人分ぐらいのエネルギーが肉体に宿り、この地上に生まれてくるのです。
そして、何十年かの修行を経て、新しい個性を持ってあの世に還ります。
今、生きているみなさんであれば、
二十世紀から二十一世紀にかけての新しい時代経験を積み、新しい勉強をし、
新しい人生の糧を得て、あの世に還っていきます。
そして、その記憶を魂の兄弟たちと共有することになっているわけです。
魂のなかには、古い古い昔の記憶もあるのですが、それはしだいに薄れていくので、
新しい時代に生まれ、新しい知識や経験を身につけていくのです。
こうした新しい人生観を知らなければ、
みなさんは、バラバラに分かれた“個人”として生きているつもりになりやすいでしょう。
そして、西洋的な価値観でいけば、
「個人主義で、競争して勝者になった者が偉い」、
「周りの者を蹴落としていくか、それとも敗残者になっていくか」と考えるような人もいます。
勝ち負けに一喜一憂して、
心が天国的な状態にも地獄的な状態にも揺れ動くこともあるでしょう。
しかし、実際は、「生命の大樹」というものが一本あり、それが大きく地球圏に広がっており、
さらには、地球圏を飛び越えて、
実は、生命が住んでいるほかの星まで、その枝が伸びているのです。
「大きな一本の宇宙の大木があるのだ。
すべての魂は、実は、つながっているのだ。
競争社会において勝ち負けを競っている相手であっても、
実は、自分にとって、まったくの敵やライバルではなく、
縁生の過程で何度も出会っている人たちであることが多いのだ。
魂的には、本当は一本の木につながっているのだ。」
こういうことを知っていただきたいのです。
だから、私は、みなさんに愛を説いています。
「愛し合いなさい。お互いに愛し合いなさい」と言っているのは、
あなたがたは他人ではないからです。
誰もが、実はつながっているのです。
もともとのエネルギーは、生命のエネルギー体としてはつながっていますし、
いろいろな時代に、どこかの地域で出会っている人もたくさんいるのです。
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このような驚愕の事実を教えることができるのは、大如来だけなのです。
古来、宗教的な世界では、
「宇宙には、『宇宙樹』とでも言うべき大きな木がある。
宇宙のなかに一本の生命の木、生命の大樹が生えている」という言い伝えがあります。
実際に、霊的に見る世界は、望遠鏡で見る世界とは違っています。
宇宙のなかに一本の大きな木があって、それが何本もの大きな枝に分かれ、
その枝がさらに分かれ、何度も分かれていって、いろいろなところに伸びているのです。
この生命の大樹は「宇宙木」とも言われています。
これは、私だけが言っているのではありません。
肉眼で見た人は誰もいませんが、昔から、そういう伝説があるのです。
宇宙を貫く、この大木は、大きな視点で見ると、
地球というレベルを超えて、全宇宙にまで、その枝を伸ばしている大木です。
これを地球的視点から見ると、
地球という霊系団のなかにも、一本の大きな大きな柱のような木が生えています。
その生命の大樹の名を、「エル・カンターレ」といいます。
このエル・カンターレという存在が、地球に生きる、すべての生命の根源なのです。
ここから霊的なエネルギーが流れ出しています。
この生命の大樹、生命の大木から、大きな枝がたくさん出ています。
そして、地球の霊系団のなかで、この大きな枝に当たるものが「民族」なのです。
いろいろな国の民族が、この大きな枝の部分に当たります。
では、民族を決めるものは何でしょうか。
それが「宗教」です。
「民族の違い」とは、実は「宗教の違い」なのです。
それぞれの民族は、
「新しい教えを創唱した宗教指導者によって導かれた人々の群れが、その始まりである」、
ということになります。
そして、そこから大きな枝が何本も分かれ、
いろいろな時代に、いろいろな宗教ができて、いろいろな民族が繁栄したわけです。
このように、文化や文明の基底、基本には宗教があります。
何千年かの間、一つの民族が、さまざまな傾向性を持った文化を生み出し、
そこで、人々は何度かの転生、生まれ変わりを経験しながら、
その宗教のなかでの一定の文化というものを経験しています。
この「民族」という一本の大きな太い枝の先のほうを見ると、
さらに枝がどんどん分かれていきます。
それぞれの枝は、国としてまとまっている場合もありますし、
国を超えた幾つかの地方、アジアやヨーロッパなどの地方にまとまっている場合もありますし、
世界中に広がっている場合もあります。
その太い枝が細分化されて、国別、地域別、
あるいは、そのなかの一定の考えを持った人の集団のところへと枝が伸びているのです。
生命の枝は次々と細分化されていきます。
大きな枝から中ぐらいの枝になり、さらに細い枝が伸びています。
そして、この細い枝のいちばん先のほうには、末端の小さな枝が無数に出ていて、
たくさんの葉っぱが繁っているように見えます。
さらに近寄ってよく見ると、一つの小さな枝の先端に、六枚ぐらいの葉っぱがついています。
この枝についている六枚の葉っぱを「一つの生命体」として見るのです。
これを「魂の兄弟」といいます。
「魂の兄弟」は、原則として、「本体」という、魂の中心となる“司令塔”の部分、
“頭”になる部分と、その兄弟である五人の魂で、“一つ”にまとまっています。
この六人の魂全体で、“一つの生命体”になるのです。
それぞれの魂は、順番に、この地上に生まれます。
死んで霊界に還っても、地上に生きていたときの姿のままで生活していることが多いのですが、
それでも、本体と分身の全体で、まとまった一つの個性として、
「自分たちは、こういう魂である」という自覚を共有しているのです。
それぞれの魂には違いがあって、外見上は、地上に生きていた時代の姿の違いにも見えます。
しかし、魂の面から、まとまった一つの個性として見ると、
それぞれの魂が地上で経験した記憶が、
いろいろな断面として重なり合っているようにも見えるのです。
例えば、「江戸時代の記憶」「鎌倉時代の記憶」「平安時代の記憶」というように、
それぞれの時代に地上で生きた自分の姿が魂の記憶のなかにあり、
それを映画のスクリーンに映すように表現すると、
違う個性の人が何人かいるようにも見えるわけです。
そのように、人間の魂は、六人単位ぐらいのエネルギー量を持っていて、
そのうちの一人分ぐらいのエネルギーが肉体に宿り、この地上に生まれてくるのです。
そして、何十年かの修行を経て、新しい個性を持ってあの世に還ります。
今、生きているみなさんであれば、
二十世紀から二十一世紀にかけての新しい時代経験を積み、新しい勉強をし、
新しい人生の糧を得て、あの世に還っていきます。
そして、その記憶を魂の兄弟たちと共有することになっているわけです。
魂のなかには、古い古い昔の記憶もあるのですが、それはしだいに薄れていくので、
新しい時代に生まれ、新しい知識や経験を身につけていくのです。
こうした新しい人生観を知らなければ、
みなさんは、バラバラに分かれた“個人”として生きているつもりになりやすいでしょう。
そして、西洋的な価値観でいけば、
「個人主義で、競争して勝者になった者が偉い」、
「周りの者を蹴落としていくか、それとも敗残者になっていくか」と考えるような人もいます。
勝ち負けに一喜一憂して、
心が天国的な状態にも地獄的な状態にも揺れ動くこともあるでしょう。
しかし、実際は、「生命の大樹」というものが一本あり、それが大きく地球圏に広がっており、
さらには、地球圏を飛び越えて、
実は、生命が住んでいるほかの星まで、その枝が伸びているのです。
「大きな一本の宇宙の大木があるのだ。
すべての魂は、実は、つながっているのだ。
競争社会において勝ち負けを競っている相手であっても、
実は、自分にとって、まったくの敵やライバルではなく、
縁生の過程で何度も出会っている人たちであることが多いのだ。
魂的には、本当は一本の木につながっているのだ。」
こういうことを知っていただきたいのです。
だから、私は、みなさんに愛を説いています。
「愛し合いなさい。お互いに愛し合いなさい」と言っているのは、
あなたがたは他人ではないからです。
誰もが、実はつながっているのです。
もともとのエネルギーは、生命のエネルギー体としてはつながっていますし、
いろいろな時代に、どこかの地域で出会っている人もたくさんいるのです。



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