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2009.01.17
中途報告
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2009.01.17
祝福の詩
今ここにある光に気づこう。
閉ざしているのは己の心。
人は、すでに救われている。
あらゆるものに祝福されている。
悔恨を放棄すれば
胸にこのうえない甘美が流れ込み
人は笑わずにはいられない
歌わずにはいられない
人はあらゆるものに祝福され
見るものすべてが祝福されている
W.B.イエイツ
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
閉ざしているのは己の心。
人は、すでに救われている。
あらゆるものに祝福されている。
悔恨を放棄すれば
胸にこのうえない甘美が流れ込み
人は笑わずにはいられない
歌わずにはいられない
人はあらゆるものに祝福され
見るものすべてが祝福されている
W.B.イエイツ



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2009.01.17
世界を変える人
これほどの絶望にもかかわらず、立ち上がる人がいる。
失敗を恐れず、勇気を持って生きていかなければ。
現代において冷たい天国(地獄)を体験した人間がいるとすれば、
ロメオ・ダレール中将はその代表例だ。
ダレールは、ルワンダに派遣された国連の小規模な平和維持軍(PKF)の司令官だった。
1994年の晩春から夏にかけての100日間で、
フツ族過激派が80万人以上のツチ族とフツ族穏健派を大量虐殺したとき、
彼は言語に絶する恐怖を目撃した。
ダレール率いるPKFは、大虐殺計画の事前証拠をつかんでおり、
ダレールはフツ族が隠している武器を押収する計可を求めていたが、
国連の上層部からは、現地当局に警告せよ、
自力でフツ族の民兵を武装解除しようとはするな、という指示を受けた。
死体が道や川を埋めつくしたとき、
ダレールは現地で起きていることに世界の関心を引きつけようとしたが、無駄だった。
いまでは軍事専門家も実現可能だったととらえているが、
フツ族勢力と戦うための5000人の武装兵士と自由裁量権があれば、
大虐殺を速やかに停止できる、とダレールは主張した。
だがまたしても、安全保障理事会理事国の国内政治と国際政治に押されて、
国連はダレールの提言を却下した。
ダレールはアメリカに、虐殺を扇動するフツ族によるラジオ放送を阻止するよう要請した。
しかし、クリントン政権はそれさえも拒否した。
それどころか、ルワンダ大統領の護衛にあたっていた10人のベルギー人PKF兵士が、
死亡するという事件のあと、史上最悪の大虐殺がくり広げられているというのに、
ダレールの部隊は500人に削減された。
ダレールは、世界の指導者たちの消極的な姿勢に不満が募り、落胆し、
くり返し上層部と衝突した―が、徒労に終わった。
国際社会は大虐殺の定義を論じることに終始し、責任をどこかに転嫁し、
介入しない理由探しをしていた。
なかには、この悲劇をダレールのせいにする声もあった。
ヨーロッパでは、彼の「失敗」が新聞の一面をにぎわした。
ベルギー上院は、自国兵士の戦死に感情を害し、彼に「不注意かつ未熟」という熔印を押した。
ダレール率いる非武装のPKFは3万人のルワンダ人の命をどうにか救ったが、
彼にとっては、それはあまりに不十分な数字だった。
ルワンダの道という道で絶えず目にしていた殺された人々の亡霊につきまとわれながら、
ダレールはカナダに帰国した。
不名誉と恥と罪の意識から逃れるために、何度も自殺を企てるような精神状態だった。
ようやく、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていることがわかり、
精神科の治療を受けることになる。
このとき、病名を公表するという勇気ある態度をとったが、
それは軍人にはめずらしい行為だった。
ところが、2000年7月、ケベック州ハル市にある自宅アパートの向かいにある公園で、
酔いつぶれているところを発見された。
かつては誇り高く、殊勲ある人物であり、公僕であり、
PKF兵士であった人間の人生が打ちくだかれてしまった。
まもなく、ダレールは健康上の理由でカナダ陸軍を除隊した。
ダレールは激しい不信感や罪の意識と闘いつづけているが、
ルワンダの悪夢を国際社会や耳を傾けてくれるすべての人々に伝えようと社会復帰した。
最近は活発に講演をおこなっているが、
そのスピーチで強調されることは、私たちに共通の人間性、そして、私たちが罪なき人々を、
彼らが世界のどこに住んでいようと、守る責任を共有しているということだ。
2005年にトロントで開催された国際会議でおこなった基調講演では、
負傷した子供の叫び声や生存者のやるせないすすり泣きで、
いまでも夜中に目覚めるときがあると話した。
電話で助けを求めてきたある男が、
受話器の向こうで死んだときの完全な無力感についても打ち明けた。
感覚が記憶している死体の腐敗臭や、
切り落とされた四肢が道端に積み上げられている光景が突如よみがえる恐怖を抱えながら、
ダレールは日々を生きている。
それだけではない。
ダレールはいまも、重い責任を感じている。
明らかに彼を慰めようとしてのことだったのだが、
この会議で一人の若い女性が立ち上がり、
あなたはあの状況で人ができることはすべてやった、と意見を述べた。
間髪入れずダレールはこう返答した。
「司令官は司令官です。それ以外の何者でもない。私は司令官でした。
80万人が死にました。私が責任を負っていた任務は大惨事と化し、その司令官は私でした。
私は上層部と国際社会に行動を起こすよう説得するのに失敗しました。
それだけの技量や影響力がなかったのです。
司令官は司令官であって、それがすべてです。私は司令官だったのです。」
自らの過失に対する究極の問いに対峙し、ダレールは絶望の底からはい上がり、
国際社会がこのような破壊的な失策をくり返さないよう、果敢に活動している。
彼は一市民として講演や執筆に携わり、
世界に平和と正義を実現することをめざす人々の輪に加わった。
著書『悪魔との握手』は評論家にも一般読者にも絶賛され、
2004年にカナダ総督文学賞ノンフィクション部門、
2004年カナダ書店協会オーサー・オブ・ザ・イヤー賞および、
最優秀ノンフィクション作品賞を受賞している。
これを原作とするドキュメンタリー映画は、
2005年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞した。
また、ダレールは、カナダ総督からカナダ国際連合協会のピアソン平和メダルを授与され、
現在はカナダ上院議員となっている。
これだけの経歴があってもなお、
ダレールは「守る責任」を果たせなかった自分の深い無念を、言葉と行動で表しつづけている。
スピーチでは、特に若者に対して、
「一人ひとりが変化を起こすことができるのだから、無関心でいてはいけない」と訴える。
国連のルワンダ国際戦犯法廷で証言するためにアフリカにも赴いている。
スーダンのダルフール紛争における虐殺を阻止するために、
国際社会の介入を求めて奔走している。
フランシス・ウェストリー他「誰が世界を変えるのか」
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失敗を恐れず、勇気を持って生きていかなければ。
現代において冷たい天国(地獄)を体験した人間がいるとすれば、
ロメオ・ダレール中将はその代表例だ。
ダレールは、ルワンダに派遣された国連の小規模な平和維持軍(PKF)の司令官だった。
1994年の晩春から夏にかけての100日間で、
フツ族過激派が80万人以上のツチ族とフツ族穏健派を大量虐殺したとき、
彼は言語に絶する恐怖を目撃した。
ダレール率いるPKFは、大虐殺計画の事前証拠をつかんでおり、
ダレールはフツ族が隠している武器を押収する計可を求めていたが、
国連の上層部からは、現地当局に警告せよ、
自力でフツ族の民兵を武装解除しようとはするな、という指示を受けた。
死体が道や川を埋めつくしたとき、
ダレールは現地で起きていることに世界の関心を引きつけようとしたが、無駄だった。
いまでは軍事専門家も実現可能だったととらえているが、
フツ族勢力と戦うための5000人の武装兵士と自由裁量権があれば、
大虐殺を速やかに停止できる、とダレールは主張した。
だがまたしても、安全保障理事会理事国の国内政治と国際政治に押されて、
国連はダレールの提言を却下した。
ダレールはアメリカに、虐殺を扇動するフツ族によるラジオ放送を阻止するよう要請した。
しかし、クリントン政権はそれさえも拒否した。
それどころか、ルワンダ大統領の護衛にあたっていた10人のベルギー人PKF兵士が、
死亡するという事件のあと、史上最悪の大虐殺がくり広げられているというのに、
ダレールの部隊は500人に削減された。
ダレールは、世界の指導者たちの消極的な姿勢に不満が募り、落胆し、
くり返し上層部と衝突した―が、徒労に終わった。
国際社会は大虐殺の定義を論じることに終始し、責任をどこかに転嫁し、
介入しない理由探しをしていた。
なかには、この悲劇をダレールのせいにする声もあった。
ヨーロッパでは、彼の「失敗」が新聞の一面をにぎわした。
ベルギー上院は、自国兵士の戦死に感情を害し、彼に「不注意かつ未熟」という熔印を押した。
ダレール率いる非武装のPKFは3万人のルワンダ人の命をどうにか救ったが、
彼にとっては、それはあまりに不十分な数字だった。
ルワンダの道という道で絶えず目にしていた殺された人々の亡霊につきまとわれながら、
ダレールはカナダに帰国した。
不名誉と恥と罪の意識から逃れるために、何度も自殺を企てるような精神状態だった。
ようやく、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を患っていることがわかり、
精神科の治療を受けることになる。
このとき、病名を公表するという勇気ある態度をとったが、
それは軍人にはめずらしい行為だった。
ところが、2000年7月、ケベック州ハル市にある自宅アパートの向かいにある公園で、
酔いつぶれているところを発見された。
かつては誇り高く、殊勲ある人物であり、公僕であり、
PKF兵士であった人間の人生が打ちくだかれてしまった。
まもなく、ダレールは健康上の理由でカナダ陸軍を除隊した。
ダレールは激しい不信感や罪の意識と闘いつづけているが、
ルワンダの悪夢を国際社会や耳を傾けてくれるすべての人々に伝えようと社会復帰した。
最近は活発に講演をおこなっているが、
そのスピーチで強調されることは、私たちに共通の人間性、そして、私たちが罪なき人々を、
彼らが世界のどこに住んでいようと、守る責任を共有しているということだ。
2005年にトロントで開催された国際会議でおこなった基調講演では、
負傷した子供の叫び声や生存者のやるせないすすり泣きで、
いまでも夜中に目覚めるときがあると話した。
電話で助けを求めてきたある男が、
受話器の向こうで死んだときの完全な無力感についても打ち明けた。
感覚が記憶している死体の腐敗臭や、
切り落とされた四肢が道端に積み上げられている光景が突如よみがえる恐怖を抱えながら、
ダレールは日々を生きている。
それだけではない。
ダレールはいまも、重い責任を感じている。
明らかに彼を慰めようとしてのことだったのだが、
この会議で一人の若い女性が立ち上がり、
あなたはあの状況で人ができることはすべてやった、と意見を述べた。
間髪入れずダレールはこう返答した。
「司令官は司令官です。それ以外の何者でもない。私は司令官でした。
80万人が死にました。私が責任を負っていた任務は大惨事と化し、その司令官は私でした。
私は上層部と国際社会に行動を起こすよう説得するのに失敗しました。
それだけの技量や影響力がなかったのです。
司令官は司令官であって、それがすべてです。私は司令官だったのです。」
自らの過失に対する究極の問いに対峙し、ダレールは絶望の底からはい上がり、
国際社会がこのような破壊的な失策をくり返さないよう、果敢に活動している。
彼は一市民として講演や執筆に携わり、
世界に平和と正義を実現することをめざす人々の輪に加わった。
著書『悪魔との握手』は評論家にも一般読者にも絶賛され、
2004年にカナダ総督文学賞ノンフィクション部門、
2004年カナダ書店協会オーサー・オブ・ザ・イヤー賞および、
最優秀ノンフィクション作品賞を受賞している。
これを原作とするドキュメンタリー映画は、
2005年のサンダンス映画祭で観客賞を受賞した。
また、ダレールは、カナダ総督からカナダ国際連合協会のピアソン平和メダルを授与され、
現在はカナダ上院議員となっている。
これだけの経歴があってもなお、
ダレールは「守る責任」を果たせなかった自分の深い無念を、言葉と行動で表しつづけている。
スピーチでは、特に若者に対して、
「一人ひとりが変化を起こすことができるのだから、無関心でいてはいけない」と訴える。
国連のルワンダ国際戦犯法廷で証言するためにアフリカにも赴いている。
スーダンのダルフール紛争における虐殺を阻止するために、
国際社会の介入を求めて奔走している。
フランシス・ウェストリー他「誰が世界を変えるのか」



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