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2009.01.19 奇妙な現実
「現実世界」は科学界では、どう認識されているのでしょうか?

その最新の実験結果は、もはや我々の常識を超えています。

意識革命は静かに進行中です。




この世界のありとあらゆるものはつながっています。
まさにそのとおりです!
このニュースはすべての常識を覆し、
現代科学の常識を根底から揺さぶるのです。

科学的な実験結果は、私たちは万物とつながっていることを証明しているだけでなく、
つながりが生まれるのは私たちが存在するからだ、ということを証明してみせたのです。
私たちは万物とのつながりを意識的に利用することができます。
科学者が発見したこの事実は、宇宙全体を動かしているのと同じパワーを、
私たちも利用できる可能性があることを表しています。
この地球上に住むみなさんや私、そして人類はみな一つにつながっています。
私たちはそのつながりをとおして、
原子や惑星、人間のDNAまですべてを創造するフォースと直接つながっているのです!

宇宙のフォースを利用するには、自分は宇宙とは別個の存在ではなく、
宇宙の一部であると考えなくてはなりません。
すべてのものがつながっている状態では、
宇宙を構成している「物質」(波とかエネルギーの粒子)は、
私たちが以前から知っている時間や空間の法則など、
まるで関係ないかのようにふるまいます。
詳細を聞くと、何かSFの世界のように聞こえるかもしれませんが、
たとえば光の粒子である光子は、同時に二筒所に存在することが観測されています。
つまり、数マイル離れた場所に同時に存在することができるのです。
人間のDNAから物質の原子まで、
自然界にあるものは、アルベルト・アインシュタインの予測とは異なり、
光の速度よりも速い速度で情報を共有しているようです。
ある実験では、データは送信する前にすでに目的地に着いていることが証明されています!
過去には、そのような現象は起こりえないと考えられていましたが、
現在では、そのような現象は事実として観測され、
しかも、単に微粒子の変則性というおもしろい現象だけにとどまりません。
量子の素粒子が自由に動き回るさまは、
既存の物理学の常識を超えた世界に目を向けたとき、
宇宙の仕組みが明らかになる可能性を示唆しています。

こうした結果を生み出した実験を個々に見ると、どれもたしかに素晴らしい研究であり、
さらに研究を進めていく価値があるものばかりです。
しかし、全部をひとまとめにしてみると、こうした研究は、
人間は従来の物理学の法則に制限されないことを示唆していることがわかります。
物質は光よりも速く移動することができ、同時にニ筒所に存在することができるのです。 
もし物質にできるのなら、人間にもできるはずです!
現在の技術革新を後押しし、私たちの想像力をかきたてるのは、
まさにこうした可能性にほかなりません。

やっとわかりかけてきたのは、
私たちは、今の人生で目にするすべてのものとつながっているだけではなく、
すでに起きたこと、まだ起きていないこと、ともつながっているということです。
そして、私たちが今この瞬間に経験していることは、
目に見えない宇宙の領域ですでに起きたことの結果なのです。
このような関係は、きわめて重大なことを示唆しています。
知性を持ったエネルギーフィールドが地球の平和から個人的な癒しまで、
あらゆるものをつなぐ世界では、昔は空想とか奇跡に近かったことが突然、
私たちの人生では現実として起こりえることを示唆しています。

知性を備えたエネルギーフィールドが、
宇宙の仕組においてそんなに重要な役割りを果たしているのなら、
なぜ最近まで、そのことに気づかなかったのでしょうか?
実は、そう遠くない昔のこと、
知性を持ったエネルギーフィールドをとおして人間はつながっているのか否かという、
謎の解明に挑んだ科学者たちがいました。
そのようなフィールドが存在するのか否かを証明することで、
この問題に決着をつけようとしたのです。
着想はよかったのですが、それから百年以上たった現在も、
当時の有名な実験結果の解釈をめぐりいまだに論争が続いています。
その結果、二十世紀に活躍した科学者の間では、
本来、空の状態にあるはずの空間に存在する、
すべてのものをつなぐエネルギーの統一フィールドのことに言及しようものなら、
それこそ、もの笑いのタネになって大学の教壇に立てなくなるか、
大学から追放されかねない、という状況でした。
まじめな科学的議論の場に、
この統一場の話を持ち出すことは認められず、許されませんでした。
しかし、もっと昔にさかのぼると、状況は少し異なっていました。

宇宙をつなぐものとはいったい何なのかは依然謎ですが、
それに名前をつけることで、その存在を認めようという試みは何度となく繰り返されてきました。
たとえば、仏教経典では、偉大な神霊インドラの住処は、
宇宙全体を覆うクモの巣ができた場所として描かれています。
「はるか遠くにある偉大な神インドラの神聖な住まいには、
熟練した職人によってかけられた素晴らしい網が、四方八方に無限に伸びている」。
古代ギリシア神話の時代から、
すべてをつなぐエネルギーの統一フィールドの存在を信じていた人は、
それをエーテルと呼びました。
ギリシア神話では、エーテルは空間そのものの本質と考えられ、
「神々の吐息」として描かれていました。
ピタゴラスもアリストテレスもエーテルを、火、空気、水、土の四元素に次いで、
万物を構成する謎の五番目の元素と考えました。
それからずっと後の時代になっても、
錬金術師は古代ギリシア人が使った用語をそのまま使って私たちの住む世界を描きました。
こうした用語は、近代科学の誕生までずっと使い続けられました。

現在の科学者の伝統的な見解とは異なりますが、歴史に名を残した科学者の中には、
エーテルの存在を信じている人たちがいました。
そして彼らの多くは、その考え方をもう一歩進めて、
物理学の法則どおりに物事が起きるためには、エーテルは必要不可欠だと主張しました。 
1600年代に、近代科学の「父」アイザック・ニュートンは、
全宇宙に浸透する目に見えない物質を描写するのに、エーテルという言葉を使いました。
このエーテルこそが、重力や人間の肉体の感覚を生み出すもとであると考えたのです。
彼はそれを精霊のようなものと考えましたが、残念ながら彼も認めているように、
当時はエーテルの存在を確認するための計測機器がありませんでした。
そして時代は十九世紀になり、
電磁理論を提唱したジェームズ・クラーク・マクスウェルが登場すると、
彼によってエーテルの正体がはじめて科学的に解明されました。
彼はエーテルを「目に見える肉体よりももっと微細な物質であり、
明らかに空の状態にある箇所に存在すると考えられる」と説明しました。

二十世紀になっても、者名な科学者の中には、
古代からある用語を用いて空を埋めるエッセンスについて論じる人たちもいました。
彼らはエーテルを、
物理的な物質と純粋エネルギーの間のどこかに一貫して実在する物質と考えました。
光の波が空の状態に見える空間をA地点からB地点へ移動できるのは、
実はこのエーテルをつたって移動していくからだと理論づけたのです。
「エーテルはエネルギーと振動をともなった電磁場が局在する場所であり、
物質と呼ぶのにふさわしい特性をある程度備えていると考えられる」と、
ノーベル賞を受賞した物理学者のヘンドリック・ローレンツは1906年に述べています。
ローレンツの方程式は、
その後、アインシュタインが相対性理論を構築する際に用いたといわれています。
アインシュタインの理論によって、宇宙におけるエーテルの存在感が低下した後も、
彼自身は、空という状態の中にあるものを説明する何かが発見されるだろうと信じていました。
それは、「エーテルのない空間など考えられない」と述べていることからもわかります。
ローレンツも古代ギリシア人も、
エーテルはエネルギー波が移動する管のようなものだと考えましたが、
アインシュタインもこれと同じような考えを持っていました。
エーテルは物理学の法則が存在するために、絶対必要であると考え、
「もし仮にエーテルが存在しないとしたら、空間では光が伝わらないばかりか、
空間や時間を定める基準が存在しないことになる」と言っています。
アインシュタインはエーテルの存在を肯定しつつも、
一方では、慎重な姿勢を崩しませんでした。
すなわち、エーテルを、
一般的な意味でいうところのエネルギーと解釈するべきではないと考えていたのです。
次のアインシュタインの言葉はそのことをよく表しています。
「エーテルは質量を持つ媒質の特徴を備えているとは考えにくく、時間の経過とともに、
その動きを追うことができる部分(索粒子)から構成されているとは考えられません」。
アインシュタインはこのように述べることで、
エーテルは普通の物質とは違った性質を持っているために、
その存在を認めても、彼自身の理論と矛盾しないと述べています。

今でもエーテルの名前を口にしただけで、その存在を認めるか否かで、
喧々諤々の議論が交わされます。 
またエーテルという言葉を聞くと、
エネルギーフィールドが存在するか否かの論争に決着をつけるべく行なわれた、
ある一つの有名な実験を思い出します。
ところが、この類の実験によくあることですが、結果はこの問題に終止符を打つどころか、
さらに多くの疑問を提示することになり、大きな論争を引き起こしたのです。

一世紀以上も前に行なわれたこの実験は、
実験をデザインした二人の科学者の名前で呼ばれています。
アルバート・マイケルソンとエドワード・モーレイの二人です。
マイケルソンとモーレイの実験の唯一の目的は、
謎の物質エーテルが本当に存在するのかどうかを確かめることでした。
この実験の背景にある理論はたしかに革新的でした。
もし、エーテルが存在するなら、それはどこにでもある、
静かな、静的なエネルギーに違いないとマイケルソンとモーレイは考えました。
ここで重要な点は、マイケルソンとモーレイの実験で使用された計測機器は、
エーテルの風を検知しなかったということです。 
1881年と1887年の実験ではエーテルの風が見つからなかったため、
エーテルは存在しないという同様の結論に至ったと思われます。
マイケルソンは権成のある学会誌『American Journal of Science』で、
歴史上「失敗に終わった最も偉大な実験」と呼ばれたこの実験結果を、
次のように解釈しました。
「静的なエーテル場が存在するという仮説は棄却されました。
仮説の立て方が間違っていたと結論づけざるをえません」。

マイケルソンとモーレイの実験は、
エーテルの存在を証明するという点では「失敗」だったかもしれませんが、
そもそもエーテルは、
科学者が当初予測したような動きを見せない可能性を示した点は評価できます。
運動が検知されなかったからといって、エーテルが存在しないということにはなりません。
1887年の実験結果によリエーテルは存在しないことが証明された、
と考える現代の科学者は、すべての事象はお互い関係なく、
独立して起こるという大前提のもとで物事を考えます。 
世界のある場所で誰かが行なった行為は、ほかの地域や、
地球を半周したところにいる人にはまったく無関係で、何の影響も及ぼさないと考えます。
1887年のこの実験は、
間違いなく私たちの人生や地球に計り知れない影響を及ぼす世界観を築くベースとなりました。
このような思考が身に染み付いた結果、人間はある場所での自分たちの行動は、
ほかの場所へ何の影響も及ぼさないと信じて国を治め、都市に電力を供給し、
核実験を行ない、天然資源を枯渇するまで使い果たします。
1887年の実験以来、私たちはどういう信念にもとづいて文明を発展させてきたかというと、
それは、すべては別個の存在で、何のつながりもないという考え方です。
しかし、この考え方が間違っていることは、最近の実験で明らかにされてきているのです!

エーテルの存在を確かめる最初の実験から一世紀以上経ったいま、
新たな研究によってエーテルもしくは、それに似たものの存在が示唆されています。
ただ、マイケルソンとモーレイが予測したような形で現れていないだけです。
そのフィールドは1800年代半ばに発見されたほかのエネルギーと同様、
静止した、電磁場から成り立っていると考えられていたため、
従来のエネルギーの延長線上でエーテルを探していたのです。
ところが、エーテルは、
ほかのエネルギーとはまったく異なる性質を有していることが判明したのです。

1986年、英科学誌『ネイチャー』は、
「特殊相対性」と題した、ひときわ目を引く論文を掲載しました。
その論文は、E・W・シルバートゥースという科学者が行なった実験に関するものでしたが、
その研究費は米国空軍が負担していました。
この実験結果はマイケルソンとモーレイの実験結果の根幹を揺さぶるだけでなく、
人間と宇宙のつながりに関する常識を根底から覆してしまうほどの可能性をはらんでいます。
シルバートゥースは高感度の計測機器を用いて1887年の実験と同じ実験を繰り返した結果、
エーテルフィールドで運動を検知したと報告しました。
さらにその運動は、宇宙を移動する地球の動きに連動していることも発見したのです。
これはまさに、1887年にすでに予測されていたことです!
本実験とその後の実験により、エーテルの存在が指摘されるようになりました。
これは1944年にプランクが指摘したとおりです。

現代科学による実験は、いずれもエネルギーフィールドの存在を指摘していますが、
それを二度と「エーテル」と呼ぶことはできません。
科学者の間では、エーテルという名を口にするだけで、
「似非科学」とか「でたらめ」などと一蹴されてしまうからです!
私たちの住む、この世界全体に浸透するエネルギーフィールドの存在について語るときは、
別の用語が用いられます。
エーテルの存在を証明する実験は、ごく最近行なわれたものばかりなので、
まだ名前はついていません。
しかし、それを何と呼ばうと、何かが存在することだけは確かです。 
この世界や宇宙にあるものすべてをつなぎ、
私たちに影響を与えているもの…それがどのような影響を与えるかは、
やっとわかりかけてきたところです。

いったい、どういう経緯でこのような状況になったのでしょうか? 
宇宙の仕組みを理解する重要なカギが存在することに、
なぜ今まで気がつかなかったのでしょうか? 
この問いかけに対する答えは、十九世紀、二十世紀に輩出した偉大な科学者の間で、
いまだに続く、白熱の議論と激しい論争を巻き起こした探求の核心にかかわる問題です。
その探求とは、宇宙における私たちの役割は何であると考えるのか、
そしてその考え方を、私たちがどう解釈するかということです。
重要なのは、宇宙の万物をつなぐエネルギーは、
それがつないでいるものの一部でもあるということです!

グレッグ・ブレイデン「聖なるマトリックス」




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輪廻転生は、巧妙な「神仕組み」です。

それは、神による罰でも、定められた不幸な運命を強いるものでもありません。

私達は、自らの力、自由意志によって、未来を切り開いていかなければなりません。

「永遠は私のもの」なのです。

シュタイナー思想の研究者であり仏教の密教僧でもある西川隆範氏の解説です。




人間は死んだら終わりなのか、それとも死後の人生があるのか、
あるいは輪廻して来世があるのか。
そのそれぞれで、現世の方針が多少なりとも変わってくるのではないでしょうか。
日本に住む私たちには、「生まれ変わり」という考え方は身近かなものです。
地獄・餓鬼・蓄生・阿修羅・人・天の六道を輪廻する、
あるいは欲界・色界・無色界の三界を輪廻する、と仏教は説いてきました。
釈迦(ゴータマ仏陀)は悟りを開いた夜、
まず生きものが輪廻するさまを見、ついで自分の前世を思い出していったと言います。
それから、因縁を洞察して悟ったというのです。
つまり、悟りを開く前に前世の想起がなされたことになります。
今日の科学では前世・来世があるかないか、証明も否定もできませんが、
ここでは輪廻転生がありうるという立場で話を進めてみます。

よく指摘されることですが、たしかに輪廻思想・業思想は、
不幸な人々に現状を肯定させるために用いられることがありました。
いま不運なのは前世の報いなのだから諦めなさい、という説明です。
しかし、業(カルマ)という考え方は、過去から現在を説明すると同時に、
現在から未来を築く積極的な考え方です。
前世を認識することによって今の状況の原因を解明すると同時に、
今の生き方が未来を作っていくと考えます。
現世しかない場合、
生まれた環境や巡り合うことがらが人によって違うので、運命の不公平を感じてしまいます。
今の状態には原因があるわけですから、その原因を知ることによって対策を検討できます。
前世が分かれば今どのように生きていくといいのか、その方向が見えてきます。
どこをどう改善すればよりよい未来が開かれるか、
それを発見するのがカルマ探究の眼目です。

ただ、前世を知るにふさわしい時期というものがあります。
前世を知ると、その前世に束縛されて今を自由に生きられない、という事態も起こります。
たとえば自分が前世で立派な人物だった場合、
いまの自分も偉い人間のように思い込むことがあります。
あるいは、いま自分が親しくしている人が、前世で自分に酷いことをしたのが分かると、
愛情・友情に微妙な影が落ちるかもしれません。
ですから、普段から修養を心がけている人が、
前世を知ってもそのような影響を受けない強い心魂になり、
前世を知ることが現世のためにプラスになる場合、前世が分かる機会がやってくるはずです。





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