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2009.01.28
至高の存在
神と仏の関係はどうなっているのでしょうか?
現代の仏陀は、学者には解り得ない史実を明かされています。
仏陀の生存中には、天上界の神々を尊崇しませんでした。
当時、仏陀は、この世に生きている存在であり、地上で法を説いていました。
仏陀は、「私は至高のものである。私に勝る神々なし。
私についてきなさい。私のほうを信じなさい」と説き、
天上界にある神々への尊敬は説かなかったのです。
したがって、仏陀在世中は仏陀が中心であって、
仏陀を直接に礼拝できる人は、仏陀に手を合わせて礼拝していました。
やがて、仏教は、仏陀に直接会えないような人にまで広がっていきました。
そのため、在家信者のなかには、仏像をつくった人たちもいます。
一方、「仏像をつくることも、仏陀のお姿を描くことも、おそれ多い」と考え、
法輪という一つの車輪のようなものを描き、
それによって、仏陀が法を説き、
その法が、魔軍を打ち砕きながら、この世に伝道されている姿を表した人たちもいます。
あるいは、仏陀の姿ではなく、
仏陀がその下で悟りを開いた菩提樹の木と、
仏陀が禅定していた場所だけを描いた人たちもいます。
これは一種の信仰形態です。
仏陀が人間であって人間ではないことを表しているのです。
姿形なき仏陀として、そういういろいろな絵が遺っていますが、
それらが一種の信仰の対象だったことは間違いありません。
仏陀の生存時を知っている弟子たちにとっては、信仰とは、生きている人に対するものでした。
ところが、時代が下って大乗の時代になると、当然、仏陀を見たことがない人ばかりなので、
人々は、あの世にある仏陀、直接見たことはない仏陀を信仰するわけであり、
キリスト教などの宗教の「神に対する信仰」と同じような形態になりました。
そして、しだいに、東大寺にある昆盧遮那仏などで表現されるような、
人間を超えた大きな力への信仰になったのです。
仏陀在世中は、悟りを開いて教えを説いている仏陀が信仰の中心になり、
仏陀の帰天後は、天上界にある仏陀意識が信仰の中心になるのです。
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現代の仏陀は、学者には解り得ない史実を明かされています。
仏陀の生存中には、天上界の神々を尊崇しませんでした。
当時、仏陀は、この世に生きている存在であり、地上で法を説いていました。
仏陀は、「私は至高のものである。私に勝る神々なし。
私についてきなさい。私のほうを信じなさい」と説き、
天上界にある神々への尊敬は説かなかったのです。
したがって、仏陀在世中は仏陀が中心であって、
仏陀を直接に礼拝できる人は、仏陀に手を合わせて礼拝していました。
やがて、仏教は、仏陀に直接会えないような人にまで広がっていきました。
そのため、在家信者のなかには、仏像をつくった人たちもいます。
一方、「仏像をつくることも、仏陀のお姿を描くことも、おそれ多い」と考え、
法輪という一つの車輪のようなものを描き、
それによって、仏陀が法を説き、
その法が、魔軍を打ち砕きながら、この世に伝道されている姿を表した人たちもいます。
あるいは、仏陀の姿ではなく、
仏陀がその下で悟りを開いた菩提樹の木と、
仏陀が禅定していた場所だけを描いた人たちもいます。
これは一種の信仰形態です。
仏陀が人間であって人間ではないことを表しているのです。
姿形なき仏陀として、そういういろいろな絵が遺っていますが、
それらが一種の信仰の対象だったことは間違いありません。
仏陀の生存時を知っている弟子たちにとっては、信仰とは、生きている人に対するものでした。
ところが、時代が下って大乗の時代になると、当然、仏陀を見たことがない人ばかりなので、
人々は、あの世にある仏陀、直接見たことはない仏陀を信仰するわけであり、
キリスト教などの宗教の「神に対する信仰」と同じような形態になりました。
そして、しだいに、東大寺にある昆盧遮那仏などで表現されるような、
人間を超えた大きな力への信仰になったのです。
仏陀在世中は、悟りを開いて教えを説いている仏陀が信仰の中心になり、
仏陀の帰天後は、天上界にある仏陀意識が信仰の中心になるのです。



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2009.01.28
入我我入
仏教は、仏に成るための教えであり、虚無主義とは対極にある。
仏に成るとは、仏神を信じ、仏神と一体になること。
我も仏も無く、自と他の区別も無い境地。
これを無我と言う。
地・水・火・風・空の五大元素によってなる肉体が、我ではない。
肉体への執着こそが、迷いの根本原因。
その姿は、まるで牢獄に捕われた小人のよう。
本来の人間は、もっと広大で、自由自在な存在である。
空海は言う、「仏性を開発せよ、そして無限の可能性を解き放て!」。
諸仏をわが身中に引入す、これを入我という。
わが身を諸仏の身中に引入す、これを我入という。
入我我入の故に、
諸仏の三無数劫の中に修集するところの功徳、我が身に具足しぬ。
また一切衆生の身中の本来自性の理と、
われ、及び諸仏の自性の理と平等にして差別なし。
しかも衆生は知せず、覚せずして生死に輪廻す。
「秘蔵記」
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仏に成るとは、仏神を信じ、仏神と一体になること。
我も仏も無く、自と他の区別も無い境地。
これを無我と言う。
地・水・火・風・空の五大元素によってなる肉体が、我ではない。
肉体への執着こそが、迷いの根本原因。
その姿は、まるで牢獄に捕われた小人のよう。
本来の人間は、もっと広大で、自由自在な存在である。
空海は言う、「仏性を開発せよ、そして無限の可能性を解き放て!」。
諸仏をわが身中に引入す、これを入我という。
わが身を諸仏の身中に引入す、これを我入という。
入我我入の故に、
諸仏の三無数劫の中に修集するところの功徳、我が身に具足しぬ。
また一切衆生の身中の本来自性の理と、
われ、及び諸仏の自性の理と平等にして差別なし。
しかも衆生は知せず、覚せずして生死に輪廻す。
「秘蔵記」



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