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古代のインド仏典には、
自らの出身地へ伝道に赴き、当時はまだ仏教が盛んではなかった西インドにおいて、
仏教の大発展の基礎をつくったと言われるプールナの逸話が遺されています。

お釈迦さまは、
組織をつくり修行者を育成して、伝道活動を強力に推し進められました。

伝道には、たいへんな忍耐と覚悟が必要とされます。

それは全身全霊をもって行う命がけの修行であり、慈悲行でもあるのです。




「プールナよ、この教誠により、私はお前を奮い立たせた。
お前はどこに住みたいか。どこで生活したいか。」

「世尊よ、簡略な教誠により、世尊は私を奮い立たせて下さいました。
私はシュローナーパラーンタカ国に住みたいのです。
シュローナーパラーンタカ国に住居を構えたいのです。」

「プールナよ、シュローナーパラーンタカ国の人々は、
凶暴で、野蛮で、荒々しく、人を罵り、中傷し、罵倒する。
もしもプールナよ、シュローナーパラーンタカ国の人々が面と向かい、
粗悪で、卑劣で、乱暴な言葉をもって、お前を罵り、中傷し、罵倒するとすれば、
その場合、お前は一体どうするつもりだ。」

「世尊よ、もしもシュローナーパラーンタカ国の人々が面と向かい、粗悪で、卑劣で、
乱暴な言葉をもって私を罵り、中傷し、罵倒したならば、その場合、私はこう考えるでしょう。
『おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と善良なのだ。
おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と温和なのだ。
彼らは面と向かい、粗悪で、虚偽に満ち、乱暴な言葉で私を罵り、中傷し、
罵倒したりするけれども、手や土塊で傷つけたりしないではないか!』と。」

「もしも、プールナよ、シュローナーパラーンタカ国の人々が、お前を手で殴ったり、
手や土塊で傷つけたりしたら、その場合、お前は一体どうするつもりだ。」

「世尊よ、もしもシュローナーパラーンタカ国の人々が、私を手や土塊で傷つけたりしたら、
その場合、私はこう考えるでしょう。
『おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と善良なのだ。
おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と人情が厚いのだ。
彼らは私を手や土塊で傷つけたりはするが、
棒や刀で傷つけたりはしないではないか!』と。」

「もしもプールナよ、シュローナーパラーンタカ国の人々が、お前を棒や刀で傷つけたりしたら、
その場合、お前は一体どうするつもりだ。」

「世尊よ、もしもシュローナーパラーンタカ国の人々が、私を棒で殴ったり、
刀で切りつけたりしたならば、その場合、私はこう考えるでしょう。
『おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と善良なのだ。
おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と人情が厚いのだ。
彼らは私を棒や刀で傷つけたりするが、完全に私の命を断ちはしないではないか!』と。」

「もしもプールナよ、シュローナーパラーンタカ国の人々が、
お前の命を完全に断とうとすれば、その場合、お前は一体どうするつもりだ。」

「世尊よ、もしもシュローナーパラーンタカ国の人々が私の命を完全に断とうとすれば、
その場合、私はこう考えるでしょう。
『世尊のお弟子さんの中には、この臭穢な肉体に悩まされ、非常に恥じ、
嫌悪の情を抱いて、刀を手にし、毒を飲み、縄で首を吊り、
また断崖から身投げした人さえもいる。
おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と優しいのだ。
おお、シュローナーパラーンタカ国の人々は何と人情が厚いのだ。
彼らは私をこの臭穢な肉体から、そう苦労せずに解放してくれるとは!』と。」

「プールナよ、善いかな、善いかな。
プールナよ、お前は、忍耐と柔和とを兼備している。
お前はシュローナーパラーンタカ国に住めるし、
シュローナーパラーンタカ国に住居を構えられよう。
さあ、プールナよ、お前は自ら解脱して他を解脱せしめ、
自ら渡って他を渡らしめ、自ら安穏を得て他に安穏を得せしめ、
自ら般涅槃し他を般涅槃せしめよ。」


「ディビヤ・アヴァダーナ」



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数多くの予言を世界中の政府機関に送りつけ、
人類に警告を与え続けている現代の預言者ジュセリーノ氏は、
未来を見通す能力だけではなく、
高い知性を備えたスピリチュアリズムの伝道師でもあるのです。




この世の知識を包括的にとらえたとき、
スピリチュアリズムの立場は、機械文化に慣れ親しんだ多くの人々には、
現代とは相容れないもののように見えるようです。
また、スピリチュアリズムを、科学・哲学・宗教の伝統的分野とつなげて考えるのは、
あまりに突飛で、ばかげた試みだとみなしている人もいます。
でも、歴史的事実をないがしろにしてはいけません。
科学の哲学や、宗教の心理学が登場するようになったことは、
スピリチュアリズムが文化の進展のために必要とされていることを示しています。 
一方、科学と宗教を切り離そうとする試みはことごとく頓挫しているのです。

科学と宗教を切り離そうとした過去の例として、
オーギュスト・コントの実証主義が挙げられるでしょう。
実証主義は科学にもとづいて、超自然的なものや宗教的なものをすべて、
ファイルに綴じ込んでしまおうとしましたが、
道徳的秩序を継続しようとする社会の要求により、
実証主義そのものが宗教のひとつの発展形とされてしまいました。
明確な実証主義を達成しようとする思索者たちの試みは、
抽象的で超自然的な神の概念によって粉々にされ、
実証主義それ自体が神殿や儀式などを持つことで宗教っぽくなってしまったのです。
また、マルクス主義も、科学的な視点で、
資本主義をいやというほど分析することによって樹立されたものです。 
思索者たちは論理的な物質主義の論拠として、
世界から超自然的・宗教的な概念を切り離そうとしました。 
ところがその結果、無産階級の神秘主義者を生み出すところに追い込まれてしまいました。 
マルクス主義は社会宗教に転換し、人間は神の立場になり、
国家は巨大な教会になってしまったのです。 
マルクス主義を基盤とする組織構造は、まるで素人牧師が運営する、
にわか仕立ての宗教集団のようになってしまいました。 
このイデオロギー体系は、人の力への現世的な盲信と、仕事への崇拝を中心に発展し、
宗教じみた祝福や呪いのたぐいにも決して不足することはありませんでした。

信仰について語るとき、アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド、エルンスト・カッシーラー、
マルティン・ハイデガーといった哲学者の研究が思い起こされます。
三人は、科学的研究はすべて信仰にもとづいていることを明らかにしました。
典型的な自然科学では、科学者はまず現象の調査を行い、
それから帰納的な方法を用いて一元的で確実な結論に達しようとします。 
しかし、宇宙の現象をすべて調査するのは物理的に不可能ですから、
「宇宙には整然とした法則が存在する」という仮定に頼るしかありません。
さもなければ、科学的真実は調査可能な範囲内に限定されてしまうからです。
結果、科学者は演繹的思考へと導かれ、
宇宙法則への信仰に支えられた仕事をすることになります。
科学者の仮定は、
偶発性と厳密な条件のもとに打ち立てられた信仰の原理と同じとも言えます。 
宗教心の強い人々も科学者と同じように、神への信仰を確立しているのです。

ジャングルで行われる原始的秘術から今日の科学・宗教にいたるまで、
知識の基盤はたったひとつしかありません。
それは信仰の原理です。 
知識には数多くの分野がありますが、
それらはお互いに否定しあうのではなく、実際には補完しあっています。
スピリチュアリズムの考え方も論理的な矛盾はいっさい見あたらず、
明白で否定できないもののように見えます。 
スピリチュアル・サイエンスは、
一般には霊が存在するという抽象的な仮定に端を発していると思われがちですが、
実際には科学と同じように現象の調査から始まるものです。 
現象を厳格に研究し、帰納的な手法を通して、
世界を構成する理論のレベルにまで上げる学問であり、
カバーする範囲はこの世のオカルト面すべてにおよびます。 
スピリチュアル・サイエンスの業績は、一世紀以上も続いており、
これほど圧倒的な功績は科学史上でもあまり類を見ません。
霊的現象はあらゆる場面で目撃されているにもかかわらず、
現代社会において市民権を持つまでにいたったのは、
スピリチュアリズムと、それによって引き起こされたスピリチュアル・サイエンスのみです。
それらが果たした業績のひとつは、「自動書記」を世界に知らしめたことでしょう。
また、スピリチュアリズムを支持した、アラン・カーデック、フランシスコ・シャビエル、
ベゼーハ・デ・メネゼスといった人々の存在を忘れてはいけません。


「リアル・シークレット」




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