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形骸化した三法(仏・法・僧)体制では、生きた法は説けない。

伝統仏教に救済力は無い。

僧侶の現代的意義は何であるのか。

答えが見つからない。

道を求めども、心は晴れず。

ブログ更新も虚し。

疎外感、無力感に苛まれる。

自分も救えないのに、他人を癒すことなどできない。

自己嫌悪の日々。

人生は素晴らしいものだが、安易ではない。

命を燃やさなければ何事も実現しない。

僧侶には、体験に基づく確信が必要だ。

自信は、覚醒から生まれる。

日々、精進します。




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2009.02.13 四禅定
お釈迦さまは、段階を経て、順次精妙な境地へと深めていく瞑想法を説かれました。

四禅定は、心の完成(悟り)への道において不可欠な行法です。




「【第一禅定】修行僧は、愛欲を離れ、不正なことをせず、
まだ思慮と考察とをともなっているが、
この世の悪から遠ざかり離れることによって生じた喜びと安楽をえて、
第一の精神集中(初禅)に入っています。
かれは、この身体を、遠ざかり離れることによって生じた喜びと安楽で満たし、
浸し、充満させ、あまねく満たしています。
たとえば、腕のよい沐浴下僕が、金属の容器に入浴用の粉をふりまいて、
水を少しずつ落としてこねると、その粉の塊りに油気がしみこんでいき、
内も外も全体に油気がしみこんでいく。
しかも、漏れて流れ出ることがないようなものです。

【第二禅定】さらにまた、修行僧は、
第一の精神集中(初禅)の思考と考察を止めることによって、
心の内部で平静になり、心の一点への集中があり、
思慮と考察とを離れた心の安定から生ずる喜びと安楽をえて、
第二の精神集中(第二禅定)に入っています。
たとえば、水の湧き出る湖があって、そこには川の流れの流入口もなく、
しかも、天が適切に雨を降らすこともないとします。
そのとき、その湖底から、冷たい水の流れが湧き上がり、湖をその冷たい水で、
満たし、浸し、充満させ、あまねく満たしているので、
湖の全体が冷たい水でいっぱいになっているとします。
まさにそのように修行僧は、その身体を、心からの安定によって生じた喜びと安楽で満たし、
浸し、充満させ、あまねく満たしています。

【第三禅定】さらにまた、修行僧は、第二禅の喜びをも離れることによって、
心の平静(捨)があり、気を落ち着け(念)、正しく自覚し、安楽を身体で感受する、
聖者たちが『心を平静にし、気を落ち着け、安楽の中にいる』と語っている、
第三の精神集中(第三禅定)に入っています。
たとえば、青い蓮の茂る池、紅い蓮の池、白い蓮の池で、それぞれの蓮が水中で生じ、
水中で成長して、水中に出ずに水中にもぐったままで繁茂しています。
それらのものは、青い蓮にせよ、紅い蓮にせよ、白い蓮にせよ、
先端から根元まで、どの部分も、冷たい水が、満たし、浸し、充満させ、
あまねく冷たい水でいっぱいになっています。
まさにそのように修行僧は、その身体を、喜びのない安楽で満たし、
浸し、充満させ、あまねく満たしています。

【第四禅定】さらにまた、修行僧は、第三禅の安楽を断ち、苦をも断つことによって、
すでに以前に喜びも悲しみも消滅しているから、苦もなく、安楽もなく、
最も清らかな心の平静と気を落ち着けること、
とがある第四の精神集中(第四禅定)にはいっています。
たとえば、人が白い布を頭からスッポリかぶって全身を包んでいるとすれば、
かれの身体は全身どこも白い布でおおわれていないところはないでしょう。
それと同様に、修行僧は、その身体を、清純で純粋な心で満たし、
浸し、充満させ、あまねく満たしています。
これが心の完成です。」

パーリ原始仏典長部第2経「沙門果経」




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