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現代人は、「科学」という名の唯物論を信奉し、
合理的に説明のつかないものを排除する傾向があります。

外部の現象を五感を通して得た知識だけが、科学的真実だというわけです。

しかし、昔の人々は、自らの内なる声にも注意を払っていました。
また、霊能者やシャーマン、修行僧達の言説を、大いに尊重してきました。

実際には、そのような内的知が、伝統文化の基盤となっているのです。




古代の人々の間では、ヴィジョンすなわち洞察力は、
非常に重要な機能だと考えられていました。
予言者ないしは神託僧は、常に共同体の重要な一員でありました。
直感的な洞察ないしは体験は、知識の源として、神々からのお告げとして、
また、予言者が特別な力をもつ証拠として考えられていたのです。

古代ギリシア人やローマ人にとっては、
理性的な知識(分析的、論理的な推論)と直感的な知識とは共に有効なものであったのです。
事実、直感は特別なものと信じられていて、
理性的な結論よりも上位におかれることもしばしばでありました。

プラトンに流れを発する観念論哲学は、
直感を信頼できる知識の根源である、との考えにもとづいているのです。
知ることのできるのは心的推論のみであり、
それゆえ、真実とは本質的に精神的なもの、
すなわち心的なものだ、と観念論は主張しているのです。

アリストテレスは、思考とはイメージから成り立っているのだ、と考えていました。
そのイメージが、内部の知識を表にあらわす情緒を喚起する力をもっている。
直感的に推論することは、最初に浮かんだ原理を図式的に示すことだ、
とアリストテレスは述べています。
アリストテレスは直感を、理解の跳躍であり、
他の知的な手段によっては到達不可能な、
大きな概念を把握することができる基本的に知的なプロセスである、と定義しています。

仏陀は、究極的な真理や知恵の根源は、理性ではなく、直感であると説いています。
そこから、禅の瞑想では、物を識別する意識的な心が静められてはじめて、
直感的な心が開放され、瞑想するものが真理や知恵を求められるようになる、
という考えが生まれたのです。

東洋哲学では、精神の成長過程にあって発展をとげる心的機能とは直感である、
と考えられているのです。
中国や日本の瞑想家たち―中国の禅宗、日本の禅―では、率直な探求を強調しています。
その完全なる指図を受けることによって、
合理的な話し方による説明をものともしないような経験や洞察力が目覚めるのです。
仏教の僧侶にとっては、このような目覚め(悟り)が内的真理や知恵の啓示なのです。

ヒンドゥー教徒にあっては、直感的洞察は、
瞑想や修練をつんだ精神のコントロールを通して得られるとされています。
直感は通常、普遍的な宇宙の問題を明らかにするのであって、
具体的な問題を解き明かすわけではありません。
直感的な経験は精神性や美学と密接に結びついています。
ヒンドゥー教徒が実践するヨガの目的のひとつは、直感の系統的訓練なのです。
直感は意識の一段高い次元であって、しっかりとした信頼にあたいする機能と考えられており、
その高い次元から幅広い情報がえられる、というのです。

心理学者カール・ユングは、知的機能における直感の役割に注意を向けています。
彼は、情報は、二つの方法、ひとつは五感をとおして外部から、
もうひとつは直感を通して心の中から受け取られると言っています。


ドリス・J・シャルクロス/ドロシー・A・シスク「ひらめきの心理学」




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2009.02.18 真の自己信頼
結局、すべての宗教が教えるところは、
我々は「神の子」、「仏の子」であるということです。

この事実を受け入れることが、信仰です。

神仏の無限の力に不可能はありません。

つい、この世の現実に負けそうになりますが、この信仰こそが道を開く鍵なのです。

光明思想の大家、谷口雅春氏のお言葉です。




自己を信頼し得ない者は、何事も大成することはできないのである。
しかし、自己を信ずるとは、身長一メートル数十センチ、
体重数十キロの肉体より発するところの僅かなる力を信ずるのではないのである。
本当の自己信頼の底の底には、肉体の自己だけではなく、肉体の奥に存在するところの、
霊妙きわまりなき存在なる「霊的自我」―その「霊的自我」を信ずることによって、
「宇宙の霊的自我」―即ち「神」と共同体なる自己を発見し、
その自己を信ずるものでなければならないのである。
肉体に奥に宿るところの「霊的自我」を通して、私たちは「神」と一体となり、
神と協力することが出来、神の無限大の能力を、
自己を媒介として実現することができるのである。

「霊的自我」を自覚するとき、人間は「有限的存在」の自覚から、
「無限の存在」の自覚に置き換るのである。
それを「我の置換」といっている。
キリスト教ではコンヴァーション(廻心)又は―「新たに生れる」と言う。
心が一回転して、物質的肉体の自覚から、霊的自我への自覚へと振向くのである。
パウロの「もはや、我れ生くるに非ず、神の生命ここにあって生くるなり」、
の自覚を得るのである。
黒住宗忠教祖の「もはや、宗忠生くるに非ず、天照大御神の生命ここにあって生くるなり」、
の自覚を得るのである。
これを宗忠は「天命直受」と称した。
パウロにあっては「内在のキリスト」の発見である。
釈尊はこれを『涅槃経』に於いて「一切衆生、悉く仏性あり」と説き給い、
親鸞聖人は『涅槃経』の意を汲んで、
「大信心は仏性なり仏性即ち如来なり」と和讃の中で説いておられるのである。

希望を実現するには、
先ず宇宙普遍の大生命なる無量寿、無碍光の神(又は仏)なる本体を信ずること。
その大生命が岐れて我らに流れ入りて、
個人たる自分の「真の自我」として自己に宿っていることを信ずること。
更に宇宙普通の大生命と、
自分の「真の自我」とが互に一体であって交通しているものであることを信ずることである。
そこから真の自己信頼の堅信が得られて来るのである。
神又は阿弥陀仏を遠く遥かなる天上にのみましますとか、
西方極楽浄土にましますとか考えて、神または仏を、
自分から遠き距離にいます処の、手の届きがたきものだと考えてはならないのである。
そのような考えは自己を神(又は仏)から引き離して、
孤独の感じを潜在意識の中に醸成することになるのである。
神の自己信頼は、わが内に神がいますという一体感に目覚めるほかはないのである。
まことにも神は、わが内にいますのである。

神と自分とを結び合わす導管に栓をなすものは、
不安、恐怖、取越苦労の想念感情である。
これらの想念感情は恰もゴムのパイプを固く縛ることによって、
そのパイプの孔を塞いでしまうように、自分の生命を固く縛って、
神からの啓示を来なくさせてしまうのである。
どんな偉大な力が内部に宿っているにしても、
その人の生命の出口を固く縛って動けなくしてしまうならば、
その人はどうすることもできなくなるのである。
恐怖を去れ、不安を去れ、取越苦労を去れ、
それが、実相・内在の神に通ずる導管を塞ぐ汚物を清掃することになるのである。
この恐怖・不安・取越苦労の汚物を清掃除去するものが「信仰」なのである。
キリストは大浪で船が覆えろうとしているのを恐怖して叫んでいる弟子たちに、
「信仰うすき者よ」と言っているし、病気治しに失敗して帰って来た弟子に対しても、
「信仰うすき者よ」と叱咤しているのである。
そして、
「もし芥子種ほどの信だにあらば、この山に動いて入れと言うと雖も必ずならん」、
と言っているのである。

山をも動かす信仰は如何にして得られるであろうか。
それは「新たに生れる」ことによってである。
換言すれば、この「肉体の自我」の否定によってである。
キリストは「人新たに生れずば神の国を見ること能わず」と言っている。
「肉体」を自分の本体だと思っている限りに於いて、「肉体」の能力は有限であるから、
巨大なる問題に面したとき、恐怖・不安を感ずることはやむを得ないのである。
そこにキリストの言ったような、
「われみずからにては何事をも為し得ず」と言う「肉体の自我」の否定が起るのである。
しかし単に「肉体の自我」を否定しただけであるなら、
それは単なる消極的な退嬰に過ぎないのである。
その「否定」は、次なる「大肯定」―「天の父われにいまして御業を成さしめ給うなり」、
の自覚を得る基盤とならなければならないのである。
即ち「肉体の自分」を否定し、「天の父の内在」の肯定である。
これが「新たに生れる」であり、「新我の設定」であり「我の置換」である。

神を信ずること、神の善にして、無限の智慧・愛・生命・供給・歓喜・調和を信ずること。
その神が自己の内に宿っていることを信ずること。
自己の「内なる神」と「普遍なる神」との一体を信ずること。
「普遍の神」と「内在の神」とが一体であるがゆえに、
自己の欲することを神に対して呼びかければ、
「普遍の神」はその欲する事物を成就するために、
必要なるあらゆる要素を集めて、引寄せて下さることを信ずること。
以上のことを信じて祈るとき、
自己の正しき願いは、何事でも成就しないということはないのである。
正しき願いとは、その願いが「愛」に背かない願いであることである。
即ちその願いの成就によって、他の人の願いが妨げられたり、
他の人が損をしたり迷惑したりすることのない願いの事である。





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2009.02.18 無念
立ち直れそうもありません。

もうやけくそです。







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