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2009.02.21 生命賛歌
人は100%死を迎える。

ならば、死を怯えて生きる?

死を楽しみにして生きる?

どちらが得だろうか?


「どうせ死ぬ」と「人生は一度きり」は同じではない。

間違いなく、死後の世界は存在し、輪廻転生は事実である。


自分の死よりも、他人の死の方が辛いという人がいる。

でも、本当は、取り残されて孤独になる自分が辛いのだ。


どちらにしても、死は自我と直結している。


死ねば、自我が消えてなくることへ恐怖。

死へのプロセスである肉体の不自由さ、老廃、痛痒、麻痺、溶解への憂慮。


すべてが、とりこし苦労である。


生命は永遠だ。


「生きているうちに不死を得よ!」

実は、これが人生の命題なのだ。




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2009.02.21 九つの失
解脱上人と呼ばれた法相宗の高僧、貞慶は、
当時流行していた専修念仏を説く法然の仏教には、
「九つの失(しつ)」があることを指摘して、朝廷にその禁止を求めました。

この直訴は、念仏宗の底流にある「愛」を見落としている面がありますが、
現代の「仏教に神秘なし」などという仏教者に対してこそ、該当するのです。


一、新宗を立てる(唯物論を説く)失

二、新像(偽本尊)を図する失

三、釈尊を軽んずる失

四、万善を妨げる(業報輪廻を否定する)失

五、霊神に背く失

六、浄土(死後の世界)に暗き失

七、念仏(修行法)を誤る失

八、釈衆(僧団)を損ずる失

九、国土を乱す(反日コミンテルン思想を吹聴する)失

「興福寺奏状」




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2009.02.21 真の盟友
本気で泣きました。






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2009.02.21 心霊科学
今日、科学と非科学の境界線が揺らいでいます。

諸学問間の垣根も取り去られはじめています。

宗教と科学に関しても、
全く別物で交わることのないもの、という考えは古くなりつつあります。

この課題を提示する有力な光源である近代欧米の「心霊科学」について、
京都大学大学院の稲垣直樹教授は、このように論じています。




知の営為は、それがどんなに普遍的なものと見えようとも、
あるいは、それを当事者がどんなに普遍的なものと確信しようとも、
その時代、ないしは時代と地域に限定されたある種の知の様式、
パラダイムに則って、そのパラダイムの範囲内でしか行われない。
現代の知的営為が過去と比べてはるかに重要で、
はるかに進んだフロンティアと映ろうとも、百年後、三百年後には、
それは過去のほとんどナンセンスな営みとも思われかねないだろう。
それぞれの時代と地域の価値観に規定されながら人間は思考し行動する以外になく、
そのようなパラダイムとの動的な関係においてこそ、
人間の営為はもっとも本質的で真正な姿を現す。
「近代」という壮大なマクロ・パラダイムのなかにいまも我々はいる。
そうした「近代」が成立したのは、
十八世紀終盤から十九世紀初頭のヨーロッパにおいてであった。

さしあたり、一つのことだけを問題にしよう。
それはいまも我々が執拗に信奉してやまない「科学主義」あるいは、
それが昂じた「科学万能主義」と呼ばれるものである。
いまだに我々は科学的であること、科学的に思考することに最大限の価値を見いだす。
我々の日常の思考は科学的であることを求められ、非科学的であることは悪とされる。
このような科学信仰が台頭した、それどころか、
科学そのものが今日に近い意味で成立したのが十九世紀ヨーロッパにおいてであり、
たかだか百五十年か二百年前のことなのである。

科学の伸張は宗教の退潮と表裏一体の関係にあった。
ヨーロッパのコンテクストでいう宗教とは当然ながらキリスト教であった。
フランス革命期のキリスト教排斥運動から始まり、
フランスでは、世俗の権力である近代国民国家が、
教会権力から社会の支配権を奪う闘争が十九世紀全体の百年間を通して続いた。
二十世紀に入り、一九〇五年の政教分離法公布によって、
政治社会制度のすべてが宗教から独立する旨の宣言がなされた。
政教分離法は、「教会と国家の分離の法律」であり、
この法律の最大のターゲットはカトリック教会であった。
これが科学史上のより大きな潮流に包含されることも明白である。
歴史家ハーバート・バターフィールドは、
ヨーロッパ十七世紀に起こった「科学革命」によって近代科学の方法が確立したとした。
これを、科学史家・村上陽一郎は十七世紀から十九世紀を経て現代に至る、
キリスト教から近代科学へのヘゲモニーの移行と捉え、
「聖俗革命」と命名したのは周知のとおりである。

フランス十九世紀において、産業革命の進行やブルジョアジーの価値観の浸透、
さらに何よりも近代国家機構の整備・充実とともに、
いよいよカトリック教会は社会を支配する力を弱める。
そして、その本来の領域であるはずの、
現実を超えた世界、死後の世界についても、
教会は信を失い、その表象を支えきれなくなる。
こうしたカトリック教会に替わって、超越世界の表象を支えることを期待されたのが、
事もあろうに科学―当時、現実世界の支配権を獲得しつつあった科学であった。
「科学主義」は科学に取りいれられないものがその存在を否定され、
排斥されるという今日的な意味を持つ以前に、
あらゆる事象が科学に取りこめるという意味を持ったのである。
これが「心霊科学」が成立した背景である。
これが科学として通用していたところに、
当時のパラダイムの特殊性があることは言うまでもない。

「心霊科学」は二つの柱から成りたっていた。 
一つは「霊」との交信により、
死後の世界についての情報と認識を「科学的に」得ようとした「霊界通信」。
もう一つは超常現象を、
それへの「心霊」の関与を前提として「科学的に」分析しようとした「心霊研究」であった。
これは当時としては「科学」の最先端、すなわち「科学のフロンテイア」であった。
そして、そのフロンティアは宗教と踵を接するどころか、
宗教のなかに深々と食い込んでいたのである。




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