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2009.03.05
スピリチュアルタブー
「スピリチュアル」な事象には、未だに強固な反対者が存在します。
特に共産主義国や日本では、異常なほどの拒絶反応が見られます。
何故、このようなタブーが存在するのでしょうか?
近代スピリチュアリズムは、
まとまった学術研究の対象となることが比較的少ないかわりに、
奇妙なエピソードとして言及されることは多い。
ときおり評価の高い学術論文の主題となった場合でも、距離をおいたスタイルをとる、
つまり無防備な擁護論と、対するに品位を貶めるような言葉を、
しかも自分の意見ではなく、他者の評価を引用する形でちりばめる、
という一定の傾向がある。
たとえば「心霊主義の実践と信念は、どんな意味を持っていたのか、
このような問題の全体像を示す試み」をみごとに行なったと評される、
ジャネット・オッペンハイムも、「19世紀の心霊主義者たちは、
20世紀の研究者の嘲笑の対象、研究には値しないと考えられた」という批判を引用した上で、
19世紀の英国学士院のフェローやノーベル賞を得た少なからぬ科学者の一部にとって、
「心霊主義と心霊研究は非常に真面目な研究対象だった」と弁護している。
こうしたスタンスがとられるのは、19世紀末のトップクラスの科学者、知識人の一部が、
霊媒の発言やデモンストレーションにまともに向き合っていたことと、
それが容赦なく批判されたことへの、警戒感の反映であろう。
「優れた」とされる知性が、「研究に値しない」と思われる現象に取り組んでいたのであれば、
その知性が劣っていたか、
あるいはその現象が重大な含意をもつものだったか、どちらかである。
いずれにせよ、この話題にかかわりあいをもてば、
現代の知識人たちも心穏やかではいられなくなる。
シュタイナーは、「スピリチュアリズムの歴史」と題する講演の冒頭で、
この主題には「熱狂的な支持者と暴力的な反対者」がいること、
反対者は「きわめて激しく反対する」か、「迷信と呼んで嘲る」か、
「軽い、気の利いた、愚弄するような言葉で脇へ払い除ける」かであること、
スピリチュアリズムは、
「そのような激しい感情を、ほぽ瞬間的に引き起こす」テーマであること、などを指摘している。
最初期から今日にいたるまで、まったく同様の反応が指摘され続けているが、
シュタイナーがことさらに言及しているように、このような正反対の、
しかも激しい反応が同時に起こることには、重大な含意がある。
別の人間が別の文脈でいったことをここで再び引用すれば、
「これはつねに最良の兆候である。
自分が、非真実や誤謬や嫉妬に触れることを言い当てたとわかるからだ」といわれたり、
「人々の理解がまちまちでこのように正反対の極瑞な評価を受けるということは、
人間の存在の中にある何か予想されないもの、苦痛に満ちたもの、
何かがまんのできないものに彼が触れたからである」といわれたりするとおり、
反射的な拒絶が起こるところは、タブーが潜んでいるポイントである。
かつてタブーであった「性」と「死」が、もはやタブーではなくなり、
アカデミズムでもジャーナリズムでも定番の演題となった今日、
「死後生存」「霊」を語るタブーだけは濃厚に残っている。
津城寛文「霊の探求」
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特に共産主義国や日本では、異常なほどの拒絶反応が見られます。
何故、このようなタブーが存在するのでしょうか?
近代スピリチュアリズムは、
まとまった学術研究の対象となることが比較的少ないかわりに、
奇妙なエピソードとして言及されることは多い。
ときおり評価の高い学術論文の主題となった場合でも、距離をおいたスタイルをとる、
つまり無防備な擁護論と、対するに品位を貶めるような言葉を、
しかも自分の意見ではなく、他者の評価を引用する形でちりばめる、
という一定の傾向がある。
たとえば「心霊主義の実践と信念は、どんな意味を持っていたのか、
このような問題の全体像を示す試み」をみごとに行なったと評される、
ジャネット・オッペンハイムも、「19世紀の心霊主義者たちは、
20世紀の研究者の嘲笑の対象、研究には値しないと考えられた」という批判を引用した上で、
19世紀の英国学士院のフェローやノーベル賞を得た少なからぬ科学者の一部にとって、
「心霊主義と心霊研究は非常に真面目な研究対象だった」と弁護している。
こうしたスタンスがとられるのは、19世紀末のトップクラスの科学者、知識人の一部が、
霊媒の発言やデモンストレーションにまともに向き合っていたことと、
それが容赦なく批判されたことへの、警戒感の反映であろう。
「優れた」とされる知性が、「研究に値しない」と思われる現象に取り組んでいたのであれば、
その知性が劣っていたか、
あるいはその現象が重大な含意をもつものだったか、どちらかである。
いずれにせよ、この話題にかかわりあいをもてば、
現代の知識人たちも心穏やかではいられなくなる。
シュタイナーは、「スピリチュアリズムの歴史」と題する講演の冒頭で、
この主題には「熱狂的な支持者と暴力的な反対者」がいること、
反対者は「きわめて激しく反対する」か、「迷信と呼んで嘲る」か、
「軽い、気の利いた、愚弄するような言葉で脇へ払い除ける」かであること、
スピリチュアリズムは、
「そのような激しい感情を、ほぽ瞬間的に引き起こす」テーマであること、などを指摘している。
最初期から今日にいたるまで、まったく同様の反応が指摘され続けているが、
シュタイナーがことさらに言及しているように、このような正反対の、
しかも激しい反応が同時に起こることには、重大な含意がある。
別の人間が別の文脈でいったことをここで再び引用すれば、
「これはつねに最良の兆候である。
自分が、非真実や誤謬や嫉妬に触れることを言い当てたとわかるからだ」といわれたり、
「人々の理解がまちまちでこのように正反対の極瑞な評価を受けるということは、
人間の存在の中にある何か予想されないもの、苦痛に満ちたもの、
何かがまんのできないものに彼が触れたからである」といわれたりするとおり、
反射的な拒絶が起こるところは、タブーが潜んでいるポイントである。
かつてタブーであった「性」と「死」が、もはやタブーではなくなり、
アカデミズムでもジャーナリズムでも定番の演題となった今日、
「死後生存」「霊」を語るタブーだけは濃厚に残っている。
津城寛文「霊の探求」



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2009.03.05
古くて新しい神話
輪廻転生の神話は、西洋の人々をも魅了して止みません。
神学教義に反するキリスト教圏でさえ、それを受け入れる人は増えています。
やがて、行きつけの小さな書店の前に立っている自分を見出す。
それは古びた建物であり、内に包蔵するのも、同様に古びた書物である。
持主は奇妙な男、前世紀の生きた遺物である。
このあくせくした時代は、ほとんどかれを必要としないが、
かれもまた同様に、この時代を必要としてはいない。
珍しい、人に知られていないことに詳しく、珍書や古書のみを扱っている。
学問のわき道や、道を外れた事柄については、
書物が与え得る限りの並々ならぬ知識をわがものとしている。
私は時おり、ぶらりとこの古い店にやって来て、
かれとそれらのことを話し合うのがすきなのだ。
私は店に入ってかれに挨拶をする。
しばらくの間、子牛の皮で製本された書物の黄ばんだページをめくったり、
色あせた折りたたみ本を近々とのぞき込んだりしている。
一冊の古びた書物が私の注意を惹く。
ちょっと面白そうに思われるので、私はそれをもっと注意深く調べる。
眼鏡をかけた店の主人は私の関心に眼をとめ、
例によって、その書物の主題―輪廻―についての議論である、
と自分が想像しているものをやり始める。
老人はいつもの通り議論をひとり占めにする。
かれはこの本の著者よりも詳しく、
その馴みの無い学説の賛否両論について知っている様子で、長々としゃべる。
このことについて述べている諸々の古典に精通しているのだ。
突然、私は、店の向うの隅に、一人の男の動く気配をきき、ふりかえって、
やや高価な書物のおいてある奥の小部屋を隠す暗がりから、
一個の背の高い人影が現れるのを見る。
見なれぬ人はインド人だ。
かれは貴族らしい身のこなしでわれわれの方に歩いて来、店の主人と向き合う。
「わが友よ」と、かれは静かに言う、
「邪魔することを許して下さい。
君が話していた問題には、私も非常に興味を持っているものだから、
君の言うことを聞かずにはいられなかったのです。
いま君は、人間はこの世にくり返し生まれ変って来るものだというこの思想を、
最初に述べている古典の著者たちの言葉を引用しておられる。
あの哲学的なギリシア人や賢明なアフリカ人や、
初期のキリスト教の神父たちの中の心の深い人々は、
この学説をよく理解していた、ということは私も認めます。
しかし、この思想は、ほんとうはどこで生まれたのだと君は思いますか?」
かれは一瞬、間をおくけれど、返事を待ってはいない。
「こう言うことを許して下さい。」とかれは微笑しつつ続ける、
「古代世界において転生説を最初に認めたのは誰か、
ということになると、インドに行かなければなりません。
それは遠い古代においてすでに、私の国の人々の間では主要な教義だったのです。」
かれの少しばかり教訓的な感じのするこの宣言は、
カウンターの向うにいる老いた紳士には気にいらない。
実際、それに対する強硬な反論が提出される。
「どうしてそんなことがあり得ましょう―キリスト教以前の時代、
東地中海の諸都市が文化と文明の中心として栄えていた時に?
古代の最高の知性は、
アテネやアレキサンドリヤを含むこの地域に生きていたのではありませんか。
ですからたしかに、彼らの思想が南方にまた東方に伝えられて、
ついにインドに達したのでしょう。」と、懐疑的な発言が出る。
インド人は寛大に微笑する。
「そうではなかったのです。
実際に起ったのは、君の主張とは全く反対の事実だったのです。」
「まあ!あなたは、進歩的な西洋が、
その哲学を遅れている東洋から受けなければならなかった、
とまじめにおっしゃるのですか。
そんなことはあり得ませんよ!」と本屋の主人は忠告する。
「なぜあり得ないのですか。
君のアプレイウスをもう一度読んでご覧なさい。
わが友よ、そして、
ピタゴラスがインドに来てバラモンたちの教えを受けた経緯をお学びなさい。
それから、かれがヨーロッパに帰った後に、輪廻の学説を教えはじめたことに注目なさい。
これはほんの一例にすぎません。
私は他の例も知っています。
遅れた東洋という君の言葉をきくと可笑しくなりますよ。
幾千年の昔、
君たちの国の人々などは、まだそんな問題があるということさえも知らなかった頃に、
われわれの国の賢者たちは、最も深遠な問題を思索していたのです。」
かれはプツリと話をとめ、われわれをじっと見つめて、
自分の言葉が相手の心に落着くのを待っている。
本屋の主人は少々困惑しているらしい。
私は、この老人がこんなに黙り込んだり、
これほどはっきりと他者の知的権威に感銘を受けたことを見せたのを、かつて見たことがない。
ポール・ブラントン「秘められたインド」
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神学教義に反するキリスト教圏でさえ、それを受け入れる人は増えています。
やがて、行きつけの小さな書店の前に立っている自分を見出す。
それは古びた建物であり、内に包蔵するのも、同様に古びた書物である。
持主は奇妙な男、前世紀の生きた遺物である。
このあくせくした時代は、ほとんどかれを必要としないが、
かれもまた同様に、この時代を必要としてはいない。
珍しい、人に知られていないことに詳しく、珍書や古書のみを扱っている。
学問のわき道や、道を外れた事柄については、
書物が与え得る限りの並々ならぬ知識をわがものとしている。
私は時おり、ぶらりとこの古い店にやって来て、
かれとそれらのことを話し合うのがすきなのだ。
私は店に入ってかれに挨拶をする。
しばらくの間、子牛の皮で製本された書物の黄ばんだページをめくったり、
色あせた折りたたみ本を近々とのぞき込んだりしている。
一冊の古びた書物が私の注意を惹く。
ちょっと面白そうに思われるので、私はそれをもっと注意深く調べる。
眼鏡をかけた店の主人は私の関心に眼をとめ、
例によって、その書物の主題―輪廻―についての議論である、
と自分が想像しているものをやり始める。
老人はいつもの通り議論をひとり占めにする。
かれはこの本の著者よりも詳しく、
その馴みの無い学説の賛否両論について知っている様子で、長々としゃべる。
このことについて述べている諸々の古典に精通しているのだ。
突然、私は、店の向うの隅に、一人の男の動く気配をきき、ふりかえって、
やや高価な書物のおいてある奥の小部屋を隠す暗がりから、
一個の背の高い人影が現れるのを見る。
見なれぬ人はインド人だ。
かれは貴族らしい身のこなしでわれわれの方に歩いて来、店の主人と向き合う。
「わが友よ」と、かれは静かに言う、
「邪魔することを許して下さい。
君が話していた問題には、私も非常に興味を持っているものだから、
君の言うことを聞かずにはいられなかったのです。
いま君は、人間はこの世にくり返し生まれ変って来るものだというこの思想を、
最初に述べている古典の著者たちの言葉を引用しておられる。
あの哲学的なギリシア人や賢明なアフリカ人や、
初期のキリスト教の神父たちの中の心の深い人々は、
この学説をよく理解していた、ということは私も認めます。
しかし、この思想は、ほんとうはどこで生まれたのだと君は思いますか?」
かれは一瞬、間をおくけれど、返事を待ってはいない。
「こう言うことを許して下さい。」とかれは微笑しつつ続ける、
「古代世界において転生説を最初に認めたのは誰か、
ということになると、インドに行かなければなりません。
それは遠い古代においてすでに、私の国の人々の間では主要な教義だったのです。」
かれの少しばかり教訓的な感じのするこの宣言は、
カウンターの向うにいる老いた紳士には気にいらない。
実際、それに対する強硬な反論が提出される。
「どうしてそんなことがあり得ましょう―キリスト教以前の時代、
東地中海の諸都市が文化と文明の中心として栄えていた時に?
古代の最高の知性は、
アテネやアレキサンドリヤを含むこの地域に生きていたのではありませんか。
ですからたしかに、彼らの思想が南方にまた東方に伝えられて、
ついにインドに達したのでしょう。」と、懐疑的な発言が出る。
インド人は寛大に微笑する。
「そうではなかったのです。
実際に起ったのは、君の主張とは全く反対の事実だったのです。」
「まあ!あなたは、進歩的な西洋が、
その哲学を遅れている東洋から受けなければならなかった、
とまじめにおっしゃるのですか。
そんなことはあり得ませんよ!」と本屋の主人は忠告する。
「なぜあり得ないのですか。
君のアプレイウスをもう一度読んでご覧なさい。
わが友よ、そして、
ピタゴラスがインドに来てバラモンたちの教えを受けた経緯をお学びなさい。
それから、かれがヨーロッパに帰った後に、輪廻の学説を教えはじめたことに注目なさい。
これはほんの一例にすぎません。
私は他の例も知っています。
遅れた東洋という君の言葉をきくと可笑しくなりますよ。
幾千年の昔、
君たちの国の人々などは、まだそんな問題があるということさえも知らなかった頃に、
われわれの国の賢者たちは、最も深遠な問題を思索していたのです。」
かれはプツリと話をとめ、われわれをじっと見つめて、
自分の言葉が相手の心に落着くのを待っている。
本屋の主人は少々困惑しているらしい。
私は、この老人がこんなに黙り込んだり、
これほどはっきりと他者の知的権威に感銘を受けたことを見せたのを、かつて見たことがない。
ポール・ブラントン「秘められたインド」



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2009.03.05
戦後坊主
仏教僧はよく言う。
「仏教の信仰と、キリスト教の信仰は違う」と。
うんざりするほど聞かされてきた。
何が言いたいのか?
つまり、「宗教として、仏教の方がキリスト教より優越する」と。
「仏教は合理的であるのに対して、
キリスト教は、創造神などを認めており、
ダーウィニズムに反した非科学的宗教(?)である」と。
このようなことを強調したいのであろう。
しかし、これは、
他を知ることなく、己の信じるものこそ絶対だと狂信している姿のようにも見える。
科学分野では西洋に圧倒されたので、宗教ぐらいは勝ちたいとの打算が見える。
あまりにも軽薄である。
そのような仏教僧は、自説や常識を信じているだけなのだ。
もしくは、イデオロギーと真理を混同しているのだ。
霊的生命を無視した信仰などありえない。
信仰において、仏教もキリスト教も違いはない。
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「仏教の信仰と、キリスト教の信仰は違う」と。
うんざりするほど聞かされてきた。
何が言いたいのか?
つまり、「宗教として、仏教の方がキリスト教より優越する」と。
「仏教は合理的であるのに対して、
キリスト教は、創造神などを認めており、
ダーウィニズムに反した非科学的宗教(?)である」と。
このようなことを強調したいのであろう。
しかし、これは、
他を知ることなく、己の信じるものこそ絶対だと狂信している姿のようにも見える。
科学分野では西洋に圧倒されたので、宗教ぐらいは勝ちたいとの打算が見える。
あまりにも軽薄である。
そのような仏教僧は、自説や常識を信じているだけなのだ。
もしくは、イデオロギーと真理を混同しているのだ。
霊的生命を無視した信仰などありえない。
信仰において、仏教もキリスト教も違いはない。



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