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2009.03.11
人類の師
現代の仏陀は、全世界に向けて驚くべきメッセージを発信されています。
奇跡の言霊です。
私は私の言葉で新しい文明を創り上げていくことを決めたのです。
私の言葉は人類を救うための魔法の解決策なのです。
新しき時代は私の言葉によって、奇跡の言葉によって創り上げられるのです。
なぜなら、私の言葉は天上界からもたらされるものだからです。
光が、この光が世界の人々を救うのです。
今こそ、世界中のすべての悪と戦う時です。
天使を信じ、神、仏陀を信じることです。
覚えておいてほしいのです。
天上界からの救済を。
天上界からの救済の力は数千年、止まることはなかったのです。
続いてきたのです。
今も続いています。
私は、私たちは、いつもいつの日でも一瞬たりとも休まず戦い続けてきたのです。
世界中の邪悪な存在たちと戦い続けてきたのです。
彼らもかつては人間でした。
私は人類の師です。
あなた方の主なのです。
私は世界をどのように救い、
どうやって悲惨な魂たちを助けるか教えてあげたいのです。
これらの邪悪な人々、悪魔、サタン、ルシフェル、ベルゼベフ。
彼らはこの地上で活動することを許されていません。
彼らが人間の運命を翻弄することを私は許しません。
彼らは私の教えを曲解しました。
この世的執着の虜になったのです。
この世界は本来の真実なる世界ではありません。
人間の目から見たら、この世は、素晴らしいものに見えるでしょう。
しかし、神の目から見たら小さなものなのです。
だから、言いたいのです。
この世がすべてだと誤解してはなりません。
そう思ってはならないのです。
真実の世界は見ることができません。
しかし、今日、あなた方は何か違ったものを感じたかもしれません
天上界からの違った変わった力というものを感じたかもしれません。
これが天上界からのパワーなのです。
私には、あなた方に、実在界の本当の意味を教える責任があるのです。
この世の混乱・混沌を終わらせなければならないのです。
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奇跡の言霊です。
私は私の言葉で新しい文明を創り上げていくことを決めたのです。
私の言葉は人類を救うための魔法の解決策なのです。
新しき時代は私の言葉によって、奇跡の言葉によって創り上げられるのです。
なぜなら、私の言葉は天上界からもたらされるものだからです。
光が、この光が世界の人々を救うのです。
今こそ、世界中のすべての悪と戦う時です。
天使を信じ、神、仏陀を信じることです。
覚えておいてほしいのです。
天上界からの救済を。
天上界からの救済の力は数千年、止まることはなかったのです。
続いてきたのです。
今も続いています。
私は、私たちは、いつもいつの日でも一瞬たりとも休まず戦い続けてきたのです。
世界中の邪悪な存在たちと戦い続けてきたのです。
彼らもかつては人間でした。
私は人類の師です。
あなた方の主なのです。
私は世界をどのように救い、
どうやって悲惨な魂たちを助けるか教えてあげたいのです。
これらの邪悪な人々、悪魔、サタン、ルシフェル、ベルゼベフ。
彼らはこの地上で活動することを許されていません。
彼らが人間の運命を翻弄することを私は許しません。
彼らは私の教えを曲解しました。
この世的執着の虜になったのです。
この世界は本来の真実なる世界ではありません。
人間の目から見たら、この世は、素晴らしいものに見えるでしょう。
しかし、神の目から見たら小さなものなのです。
だから、言いたいのです。
この世がすべてだと誤解してはなりません。
そう思ってはならないのです。
真実の世界は見ることができません。
しかし、今日、あなた方は何か違ったものを感じたかもしれません
天上界からの違った変わった力というものを感じたかもしれません。
これが天上界からのパワーなのです。
私には、あなた方に、実在界の本当の意味を教える責任があるのです。
この世の混乱・混沌を終わらせなければならないのです。



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2009.03.11
祈りと奇跡
祈りや奇跡は、宗教の生命です。
これは、仏教においても同じことです。
知識人は経典や真言による祈願をすぐ「祈祷仏教」といって軽蔑するけれども、
祈願や祈祷は本来の意味では、宗教の生命である。
平安時代の仏教は祈祷仏教、伽藍仏教になったから、
鎌倉新仏教が誕生した、などと単純に説くのは、もう止めた方がよい。
このような歴史の形式化、教科書化こそ、宗教のためにもっとも有害である。
ただ祈祷が一部の貴族や権力者のためだけにおこなわれたり、
祈祷が形式化して、苦行精神を喪失した場合は、批判されなければならない。
しかし、ほんとうの祈祷は、誠心と慈悲心の交流合一であって、その実践は呪術と苦行にある。
これがすすんでは、社会的救済にまで発展することもあるが、
それはあくまでも「祈り」の表現と実践にほかならないのである。
従来の呪術論は、
呪文(真言)や呪物や呪的行為(印や呪的動作)の表面的な形態だけをとりあげて、
その内面を無視して来たようにおもわれる。
とくに呪術と宗教の関係はキリスト教を基準にして論じられたために、呪術は宗教ではなく、
未開野蛮であり、異端的・悪魔的であり、悪であるときめつけられていた。
その尻馬にのった日本の宗教学者や哲学者やインテリ一般も、呪術といえば顔をそむけ、
迷信の親玉のようにかんがえて、行者とか祈祷師を蛇蝎視する。
天台や真言などの密教を中心とする宗派は、「祈祷仏教」の烙印をおされるのをおそれて、
祈祷を隠そうとし、教学や哲学にだけ精を出すことに懸命である。
宗教は超現実性と超人間性を本質とするがゆえに、神または仏と奇跡が要請される。
この超現実的な奇跡をおこすための実践方法として呪術があり、
その実践者こそ宗教者であり僧侶、神官である。
したがって、祈りと苦行の裏付けをもった呪術は真の宗教であり、
信者の心身に奇跡をおこすものといって差し支えない。
その代わり、祈りと苦行の実践を欠いた呪術は、いかに道具立ては立派でも、
虚偽の宗教であるといわなければならない。
五来重「日本の庶民仏教」
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これは、仏教においても同じことです。
知識人は経典や真言による祈願をすぐ「祈祷仏教」といって軽蔑するけれども、
祈願や祈祷は本来の意味では、宗教の生命である。
平安時代の仏教は祈祷仏教、伽藍仏教になったから、
鎌倉新仏教が誕生した、などと単純に説くのは、もう止めた方がよい。
このような歴史の形式化、教科書化こそ、宗教のためにもっとも有害である。
ただ祈祷が一部の貴族や権力者のためだけにおこなわれたり、
祈祷が形式化して、苦行精神を喪失した場合は、批判されなければならない。
しかし、ほんとうの祈祷は、誠心と慈悲心の交流合一であって、その実践は呪術と苦行にある。
これがすすんでは、社会的救済にまで発展することもあるが、
それはあくまでも「祈り」の表現と実践にほかならないのである。
従来の呪術論は、
呪文(真言)や呪物や呪的行為(印や呪的動作)の表面的な形態だけをとりあげて、
その内面を無視して来たようにおもわれる。
とくに呪術と宗教の関係はキリスト教を基準にして論じられたために、呪術は宗教ではなく、
未開野蛮であり、異端的・悪魔的であり、悪であるときめつけられていた。
その尻馬にのった日本の宗教学者や哲学者やインテリ一般も、呪術といえば顔をそむけ、
迷信の親玉のようにかんがえて、行者とか祈祷師を蛇蝎視する。
天台や真言などの密教を中心とする宗派は、「祈祷仏教」の烙印をおされるのをおそれて、
祈祷を隠そうとし、教学や哲学にだけ精を出すことに懸命である。
宗教は超現実性と超人間性を本質とするがゆえに、神または仏と奇跡が要請される。
この超現実的な奇跡をおこすための実践方法として呪術があり、
その実践者こそ宗教者であり僧侶、神官である。
したがって、祈りと苦行の裏付けをもった呪術は真の宗教であり、
信者の心身に奇跡をおこすものといって差し支えない。
その代わり、祈りと苦行の実践を欠いた呪術は、いかに道具立ては立派でも、
虚偽の宗教であるといわなければならない。
五来重「日本の庶民仏教」



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2009.03.11
僧侶の苦悩
現代のお坊さんの苦悩は深いのです。
仏教は悟りの宗教、宇宙の真理を諦める宗教だから、
生きた者のための宗教でこそあれ、
死人をあつかう宗教ではないという勇ましい発言もよく聞かれる。
いかにも御尤もなので、
そのような坊さんは死者はどうなっても構わないのだから、どうか葬式は辞退してほしい。
いまでは病気になやめる生者のためには病院があり、
貧苦になやめる生者のためには不十分ながらも社会福祉がある。
それでもみたされない精神的な悩みをもつ生者のためには、
精神医学や精神分析の有能なカウンセラーが、白衣を着て作り笑いしながら待っている。
そこで「何々を語る会」や「何々を読む会」などという懇談会、
読書会を寺でひらくことになるが、それもあまり面白くないので、
月を追ってさびれてゆく現状である。
やはり宗教は「生」とおなじというよりは、生よりも重い「死」のためにあるといってよいだろう。
一億二千万の人口には一億二千万の死がかならずある。
その死をうけとり、その霊にやすらかな無限の世界をあたえるのは、宗教のほかにはない。
これは日本仏教にはかぎらないのであるが、
とくに日本人は死者の霊魂の実在をつよく信じ、これを鎮めたり慰めたりして、
やがてその恩寵をもとめる民族であった。
それも先祖から子孫へとつたわる系譜的霊魂の実在を信じたから、
葬式と供養が日本の「家」の原理をささえ、社会秩序と歴史の原理の根底をなしている。
日本仏教はただ葬式だけを執行して来たのでなく、
葬式を通して日本人の精神生活をゆたかにし、社会と歴史をささえて来たといえる。
坊さんの執行する一つ一つの葬式は暗くささやかであるかもしれないが、
日本仏教として総合された役割は大きかった。
そのために大きく言えば、日本の仏教文化は花開いたのである。
葬式と供養の場として寺が建てられ、仏像がつくられ、経典が写された。
平安鎌倉の写経奥書も、石造美術の銘文も、
目ざす死者の成仏と往生のためでないものはない。
阿弥陀如来像というものは、
かつて日本に存在したもっとも華麗な寺であった道長の法成寺九躰阿弥陀像をはじめ、
村々の阿弥陀堂の本尊にいたるまで、臨終仏や供養仏として造立されたものばかりである。
拝観者や展覧会のために造られた作品でないことはいうまでもない。
「山越の弥陀図」や「聖衆来迎図」などの絵画もおなじことであるし、
融通念仏や六斎念仏、あるいは歌念仏や和讃、踊念仏、大念仏、
念仏狂言から盆踊にいたるまで、葬式と供養の必要が生みだした日本人の宗教文化であった。
このような宗教文化創造の原動力は、
日本人の死者の霊魂の実在観と不滅観であったと私はかんがえている。
日本の映画ぐらい葬式やお墓の出てくる国はすくないと聞いているが、
これは日本人のセンチメンタリズムのためばかりでなく、
死者や霊魂への関心が大きいことをしめすものだろうとおもう。
したがって葬式というものは、欧米のように人生の通過儀礼として、
一人の人間が社会から消えてゆく儀礼であるよりは、
その霊魂をやすらかにするための宗教的実践であることが要求される。
それでは葬墓にかかわる宗教的実践とは何かといえば、
まず何よりも霊魂の実在と不滅を確認する修行であるとおもう。
仏教各宗には加行や修法、籠山行や回峯行、坐禅や念仏行、
抖擻や荒行などの実践行がととのっている。
これらはいま形式化したものが多いけれども、
もとは死にいたるまでの厳しい苦行であった。
ということは行者一人の悟りのためというよりは、
死の体験を通して獲得される、霊魂の世界の確認にほかならなかった。
よく修行者が頓死して、地獄や極楽をめぐってくる蘇生譚が、
古代・中世のみならず、近世になってもくり返しくり返し書かれたり、語られたりしている。
智光・礼光の話や日蔵(道賢上人)の話などはとくに有名であるが、
これをたんなる唱導のための作り話としたり、中国の説話の焼直しとするのでは、
あれほどつよく民衆の心をとらえた理由が説明できない。
これは修行の目的に霊魂の世界の確認をもとめるものがあり、
その世界で肉親知人の死者に会ったり、
ときには菅原道真のような有名人に会ったり、天皇や女帝に会ったりして、
その消息をつたえるメディアム(霊媒)のはたらきがもとめられたからであろう。
宗教者や「ひじり」には常識的な現世とはちがった、
非常識な霊界へ出入りする霊的能力が要求されていた。
しかも霊魂の世界に出入りし得る人にして、
はじめて地獄や極楽をかたる資格があったのである。
その体験なしに浄土をかたっても、それはすべて嘘になってしまう。
お経や浄土変に描いてあるといっても、
取り次ぐ坊さんが信じていないことには、すこしも迫力がない。
またそのような浄土を体認した人でなければ、
死者を確実に浄土に往生させる能力があるとは信じられなかったのである。
したがって日本仏教が真の葬式仏教になるためには、
僧侶が霊魂の実在と不滅を体験する宗教的実践を前提としなければならない。
いま葬式仏教を自嘲する人は、葬式を執行しながらも、
そこに霊魂の実在を確信できないことを表明した正直な人であるし、
それにもかかわらず、
莫大なお布施をもらうことを後ろめたいと感ずる善良な人であるとおもう。
五来重「日本の庶民仏教」
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仏教は悟りの宗教、宇宙の真理を諦める宗教だから、
生きた者のための宗教でこそあれ、
死人をあつかう宗教ではないという勇ましい発言もよく聞かれる。
いかにも御尤もなので、
そのような坊さんは死者はどうなっても構わないのだから、どうか葬式は辞退してほしい。
いまでは病気になやめる生者のためには病院があり、
貧苦になやめる生者のためには不十分ながらも社会福祉がある。
それでもみたされない精神的な悩みをもつ生者のためには、
精神医学や精神分析の有能なカウンセラーが、白衣を着て作り笑いしながら待っている。
そこで「何々を語る会」や「何々を読む会」などという懇談会、
読書会を寺でひらくことになるが、それもあまり面白くないので、
月を追ってさびれてゆく現状である。
やはり宗教は「生」とおなじというよりは、生よりも重い「死」のためにあるといってよいだろう。
一億二千万の人口には一億二千万の死がかならずある。
その死をうけとり、その霊にやすらかな無限の世界をあたえるのは、宗教のほかにはない。
これは日本仏教にはかぎらないのであるが、
とくに日本人は死者の霊魂の実在をつよく信じ、これを鎮めたり慰めたりして、
やがてその恩寵をもとめる民族であった。
それも先祖から子孫へとつたわる系譜的霊魂の実在を信じたから、
葬式と供養が日本の「家」の原理をささえ、社会秩序と歴史の原理の根底をなしている。
日本仏教はただ葬式だけを執行して来たのでなく、
葬式を通して日本人の精神生活をゆたかにし、社会と歴史をささえて来たといえる。
坊さんの執行する一つ一つの葬式は暗くささやかであるかもしれないが、
日本仏教として総合された役割は大きかった。
そのために大きく言えば、日本の仏教文化は花開いたのである。
葬式と供養の場として寺が建てられ、仏像がつくられ、経典が写された。
平安鎌倉の写経奥書も、石造美術の銘文も、
目ざす死者の成仏と往生のためでないものはない。
阿弥陀如来像というものは、
かつて日本に存在したもっとも華麗な寺であった道長の法成寺九躰阿弥陀像をはじめ、
村々の阿弥陀堂の本尊にいたるまで、臨終仏や供養仏として造立されたものばかりである。
拝観者や展覧会のために造られた作品でないことはいうまでもない。
「山越の弥陀図」や「聖衆来迎図」などの絵画もおなじことであるし、
融通念仏や六斎念仏、あるいは歌念仏や和讃、踊念仏、大念仏、
念仏狂言から盆踊にいたるまで、葬式と供養の必要が生みだした日本人の宗教文化であった。
このような宗教文化創造の原動力は、
日本人の死者の霊魂の実在観と不滅観であったと私はかんがえている。
日本の映画ぐらい葬式やお墓の出てくる国はすくないと聞いているが、
これは日本人のセンチメンタリズムのためばかりでなく、
死者や霊魂への関心が大きいことをしめすものだろうとおもう。
したがって葬式というものは、欧米のように人生の通過儀礼として、
一人の人間が社会から消えてゆく儀礼であるよりは、
その霊魂をやすらかにするための宗教的実践であることが要求される。
それでは葬墓にかかわる宗教的実践とは何かといえば、
まず何よりも霊魂の実在と不滅を確認する修行であるとおもう。
仏教各宗には加行や修法、籠山行や回峯行、坐禅や念仏行、
抖擻や荒行などの実践行がととのっている。
これらはいま形式化したものが多いけれども、
もとは死にいたるまでの厳しい苦行であった。
ということは行者一人の悟りのためというよりは、
死の体験を通して獲得される、霊魂の世界の確認にほかならなかった。
よく修行者が頓死して、地獄や極楽をめぐってくる蘇生譚が、
古代・中世のみならず、近世になってもくり返しくり返し書かれたり、語られたりしている。
智光・礼光の話や日蔵(道賢上人)の話などはとくに有名であるが、
これをたんなる唱導のための作り話としたり、中国の説話の焼直しとするのでは、
あれほどつよく民衆の心をとらえた理由が説明できない。
これは修行の目的に霊魂の世界の確認をもとめるものがあり、
その世界で肉親知人の死者に会ったり、
ときには菅原道真のような有名人に会ったり、天皇や女帝に会ったりして、
その消息をつたえるメディアム(霊媒)のはたらきがもとめられたからであろう。
宗教者や「ひじり」には常識的な現世とはちがった、
非常識な霊界へ出入りする霊的能力が要求されていた。
しかも霊魂の世界に出入りし得る人にして、
はじめて地獄や極楽をかたる資格があったのである。
その体験なしに浄土をかたっても、それはすべて嘘になってしまう。
お経や浄土変に描いてあるといっても、
取り次ぐ坊さんが信じていないことには、すこしも迫力がない。
またそのような浄土を体認した人でなければ、
死者を確実に浄土に往生させる能力があるとは信じられなかったのである。
したがって日本仏教が真の葬式仏教になるためには、
僧侶が霊魂の実在と不滅を体験する宗教的実践を前提としなければならない。
いま葬式仏教を自嘲する人は、葬式を執行しながらも、
そこに霊魂の実在を確信できないことを表明した正直な人であるし、
それにもかかわらず、
莫大なお布施をもらうことを後ろめたいと感ずる善良な人であるとおもう。
五来重「日本の庶民仏教」



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