| Home |
2009.03.20
カタルシス
スポンサーサイト
2009.03.20
想念の力
引き寄せの法則は、日本発祥です。
多くの病気はヴィールス、細菌、真菌、リケッチャ、原虫など、
種々の名称の微生物が人体に寄生することによって起るということが、
一般に医学者からみとめられている事実である。
しかし、その微生物は如何にして発生したか、
また既に発生した微生物が人体に寄生するにしても、或る人には感染しないのに、
或る人には感染するという差別を生ずるのは、如何なる理由によるのであるか、
ということについてはあまり研究が行き届いていないのである。
母乳のみによって育てられている嬰児には大腸菌が存在しないのは何故であるか。
重症の結核患者が、心が一転すれば、薬剤使用の有無に拘らず、
結核菌が消滅してしまうのは何故であるか。
こんな事は精神を除外した唯物論では解決ができないのである。
人体に寄生する菌の発生と消滅とには、神からの摂理と、
人間の精神の影響との二つの要素が原因となっていると言うほかはないのである。
微生物は「心」によって発生するのである。
摂理とは「神の心」であり、病菌とは、「人間の迷いの心」の具象化であるのである。
地球は摂氏幾十万度の高温のガス体だった時があるから、
一切の微生物はその頃、完全に滅菌消毒せられていたのである。
その後、微生物は如何にして生じたかは、
生物学も医学もその原因を解明することはできないのである。
物質が偶然的原因で、適当な構成成分が集ったとき、
自然界の法則によって化学変化が起り、一種の蛋白質のようなものが発生し、
それが生物発生の起源であるなどと、ソ連の生物学者オパーリンなどは説くのであるが、
蛋白質の一種やアミノ酸の数種が光合成化学などによって出来る実験に成功したところが、
蛋白質やアミノ酸は、生物でも微生物でもないのである。
それは生物が生産した産物と同種のものが出来たというだけであって、
生物発生の実験にはならないのである。
生物が発生するには、自然界の法則で合成された成分を「想念」が、
その想念した「生物体」としての形態になるよう配列する必要があるのである。
想念こそが微生物発生の原因である。
自動車王ヘンリー・フォード第一世は、
われわれが心に深く念ずれば、想念の極微の霊子体とでもいうべきものができて、
それがメッセンジャーとなって空間をわたって必要なところへ到達し、
必要な要素を想念の発信者に対して持って来るのだ、
という説を述べているのは興味あることである。
想念が極微のスピリチュアル・エンティティを作るとすれば、
その霊子体が現象界に具体化すれば、微生物となってあらわれるのである。
その極微の霊子体は、現象界に事物をあらわす「生きた霊的素粒子」とでも言うものであり、
それに病気の想念が乗れば、病菌ともなり、
それに生命の想念が乗れば、健康なる新生細胞ともなり、
それに貧乏の想念が乗れば、
貧乏になる要素を引き寄せて来る微小体の霊的メッセンジャーともなるのである。
貧乏になる要素を引き寄せる「微小体」なる霊的メッセンジャーは、
ある意味では「貧乏の黴菌」だともいえる訳で、
病気が感染するが如く貧乏も感染するといい得るのである。
谷口雅春「希望を叶える365章」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
多くの病気はヴィールス、細菌、真菌、リケッチャ、原虫など、
種々の名称の微生物が人体に寄生することによって起るということが、
一般に医学者からみとめられている事実である。
しかし、その微生物は如何にして発生したか、
また既に発生した微生物が人体に寄生するにしても、或る人には感染しないのに、
或る人には感染するという差別を生ずるのは、如何なる理由によるのであるか、
ということについてはあまり研究が行き届いていないのである。
母乳のみによって育てられている嬰児には大腸菌が存在しないのは何故であるか。
重症の結核患者が、心が一転すれば、薬剤使用の有無に拘らず、
結核菌が消滅してしまうのは何故であるか。
こんな事は精神を除外した唯物論では解決ができないのである。
人体に寄生する菌の発生と消滅とには、神からの摂理と、
人間の精神の影響との二つの要素が原因となっていると言うほかはないのである。
微生物は「心」によって発生するのである。
摂理とは「神の心」であり、病菌とは、「人間の迷いの心」の具象化であるのである。
地球は摂氏幾十万度の高温のガス体だった時があるから、
一切の微生物はその頃、完全に滅菌消毒せられていたのである。
その後、微生物は如何にして生じたかは、
生物学も医学もその原因を解明することはできないのである。
物質が偶然的原因で、適当な構成成分が集ったとき、
自然界の法則によって化学変化が起り、一種の蛋白質のようなものが発生し、
それが生物発生の起源であるなどと、ソ連の生物学者オパーリンなどは説くのであるが、
蛋白質の一種やアミノ酸の数種が光合成化学などによって出来る実験に成功したところが、
蛋白質やアミノ酸は、生物でも微生物でもないのである。
それは生物が生産した産物と同種のものが出来たというだけであって、
生物発生の実験にはならないのである。
生物が発生するには、自然界の法則で合成された成分を「想念」が、
その想念した「生物体」としての形態になるよう配列する必要があるのである。
想念こそが微生物発生の原因である。
自動車王ヘンリー・フォード第一世は、
われわれが心に深く念ずれば、想念の極微の霊子体とでもいうべきものができて、
それがメッセンジャーとなって空間をわたって必要なところへ到達し、
必要な要素を想念の発信者に対して持って来るのだ、
という説を述べているのは興味あることである。
想念が極微のスピリチュアル・エンティティを作るとすれば、
その霊子体が現象界に具体化すれば、微生物となってあらわれるのである。
その極微の霊子体は、現象界に事物をあらわす「生きた霊的素粒子」とでも言うものであり、
それに病気の想念が乗れば、病菌ともなり、
それに生命の想念が乗れば、健康なる新生細胞ともなり、
それに貧乏の想念が乗れば、
貧乏になる要素を引き寄せて来る微小体の霊的メッセンジャーともなるのである。
貧乏になる要素を引き寄せる「微小体」なる霊的メッセンジャーは、
ある意味では「貧乏の黴菌」だともいえる訳で、
病気が感染するが如く貧乏も感染するといい得るのである。
谷口雅春「希望を叶える365章」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
2009.03.20
汝自身を知れ
真理は、外部を探しても見つかりません。
「汝自身を知れ」は、黄金則です。
神の性質は、あらゆる人間の生命の中に新しく示されている。
しかし、もし人が無関心にそこを通りすぎてしまうなら、
その啓示は、石ころだらけの土地に蒔かれた種子のようなものである。
誰ひとり、この神のさとりから、しめ出されてはいない。
人が自分で自分をしめ出しているのだ。
君を生まれさせた、あの生命は、おお人よ!
君が思い及ぶより遥かに高貴で、遥かに偉大なのだ。
それの君に対する慈悲にみちた配慮を信じ、
かすかな直観の中で、君のハートにささやかれた精妙な指示に服せよ。
この世の生活に疲れたらいつでも、わが内に聖所を見出すべきである。
いささかの平安と、力の盛り上がりと、
ほのかな光とを求めて、それに向かって出かけて行くがよい。
真の自己に触れ得た瞬間には、
自分はそこから無限の助力を引き出すことができ、
完全な報いを見出すことができるのだ、という確信をもって―。
学者たちはモグラのように、学問という家の壁を形成するところの、
次第に高くなる古今の文献の山積みの中を掘り下げて行くのだが、
彼らもこれより深い秘密を学ぶことはできない。
人の自己そのものが神である、という至高の真理以上に高い真理を知ることはできない。
不死の生命への希望、完全な愛への希望、保証された幸福への希望は、
ついには確実にみたされるであろう。
世間は、この世で最も優れた思想、を求めて古代の予言者たちを仰ぎ、
この世で最も高貴な道徳を求めて、
ほこりだらけの諸々の時代の前にぺこぺことおじぎをする。
しかし、人が星のように輝くかれ自身の本性の尊厳なる啓示を受けたとき、かれは圧倒される。
今や、思いと感情の中で価値あるものはことごとく、
求めないでもかれの足下にやって来る。
かれの心の世を隔絶した静寂の中に、神聖なヴィジョンが生まれる。
彼らの民族にその祖先が神であることを教えた、
ヘブライやアラビヤの予言者たちが見たヴィジョンに劣らず神聖なヴィジョンである。
これと同じ輝かしい光によって、ブッダはニルヴァーナの真理を悟り、これを人々に伝えた。
そしてこの悟りがよびさます愛は、
マリヤ・マグダレーナをして、
前非を悔いてイエスの足下に泣き伏させたほど、すべてのものを抱擁する愛なのである。
これらの不滅の真理は、我ら人類のはじめのときから存在しているのだけれど、
その荘厳な偉大さの上には、ちりも積ることができないでいる。
かつて生存した人間に、
人に解放されているこのより深い生命の暗示を受けなかった者はいない。
これらの真理を認めようとする者は、
それがかれの思いの間で小惑星の間の星々のようにきらめくに至るまで、
それを知性だけで理解しようとしてはいけない。
それらがかれにもっと神的な行動をうながすようになるまで、
それらをハートによってわがものとしなければいけない。
ポール・ブラントン「秘められたインド」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
「汝自身を知れ」は、黄金則です。
神の性質は、あらゆる人間の生命の中に新しく示されている。
しかし、もし人が無関心にそこを通りすぎてしまうなら、
その啓示は、石ころだらけの土地に蒔かれた種子のようなものである。
誰ひとり、この神のさとりから、しめ出されてはいない。
人が自分で自分をしめ出しているのだ。
君を生まれさせた、あの生命は、おお人よ!
君が思い及ぶより遥かに高貴で、遥かに偉大なのだ。
それの君に対する慈悲にみちた配慮を信じ、
かすかな直観の中で、君のハートにささやかれた精妙な指示に服せよ。
この世の生活に疲れたらいつでも、わが内に聖所を見出すべきである。
いささかの平安と、力の盛り上がりと、
ほのかな光とを求めて、それに向かって出かけて行くがよい。
真の自己に触れ得た瞬間には、
自分はそこから無限の助力を引き出すことができ、
完全な報いを見出すことができるのだ、という確信をもって―。
学者たちはモグラのように、学問という家の壁を形成するところの、
次第に高くなる古今の文献の山積みの中を掘り下げて行くのだが、
彼らもこれより深い秘密を学ぶことはできない。
人の自己そのものが神である、という至高の真理以上に高い真理を知ることはできない。
不死の生命への希望、完全な愛への希望、保証された幸福への希望は、
ついには確実にみたされるであろう。
世間は、この世で最も優れた思想、を求めて古代の予言者たちを仰ぎ、
この世で最も高貴な道徳を求めて、
ほこりだらけの諸々の時代の前にぺこぺことおじぎをする。
しかし、人が星のように輝くかれ自身の本性の尊厳なる啓示を受けたとき、かれは圧倒される。
今や、思いと感情の中で価値あるものはことごとく、
求めないでもかれの足下にやって来る。
かれの心の世を隔絶した静寂の中に、神聖なヴィジョンが生まれる。
彼らの民族にその祖先が神であることを教えた、
ヘブライやアラビヤの予言者たちが見たヴィジョンに劣らず神聖なヴィジョンである。
これと同じ輝かしい光によって、ブッダはニルヴァーナの真理を悟り、これを人々に伝えた。
そしてこの悟りがよびさます愛は、
マリヤ・マグダレーナをして、
前非を悔いてイエスの足下に泣き伏させたほど、すべてのものを抱擁する愛なのである。
これらの不滅の真理は、我ら人類のはじめのときから存在しているのだけれど、
その荘厳な偉大さの上には、ちりも積ることができないでいる。
かつて生存した人間に、
人に解放されているこのより深い生命の暗示を受けなかった者はいない。
これらの真理を認めようとする者は、
それがかれの思いの間で小惑星の間の星々のようにきらめくに至るまで、
それを知性だけで理解しようとしてはいけない。
それらがかれにもっと神的な行動をうながすようになるまで、
それらをハートによってわがものとしなければいけない。
ポール・ブラントン「秘められたインド」



クリックして愚僧の活動に御協力ください。
| Home |