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2009.03.23
普遍の法則
希望を叶える普遍の法則です。
神は普遍の智慧である。
我の知恵、彼の知恵というような差別的な相対的知恵ではないのである。
一切のところに満ちわたり、一切のものを秩序整然と並べるところの法則である。
私たちが、この普遍の智慧に波長を合わすとき、
それは個人の智慧となり、科学的知識となり、論理となり、哲学となり、
倫理となり、発明となり、発見となり、普遍の法則を自己薬籠中のものとして、
自由自在に自然界をも支配することができ、如何なる希望も叶うようになるのである。
肉体人間は、自己の内に神の智慧を感受する真空管を有し、
その真空管を調節することによって、神の智慧を現象界に実現することが出来るのである。
人間は、神の智慧を受け取って、
それを現象の此岸に具体的な形に実現するために、
神の智慧を搬ぶところの乗物のようなものである。
しかしながら、それを知らないで、いたずらに人間の頭脳的知恵ばかりに頼って、
煩労を重ねているのが一般人であるのは真に遺憾なことである。
谷口雅春「希望を叶える365章」
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神は普遍の智慧である。
我の知恵、彼の知恵というような差別的な相対的知恵ではないのである。
一切のところに満ちわたり、一切のものを秩序整然と並べるところの法則である。
私たちが、この普遍の智慧に波長を合わすとき、
それは個人の智慧となり、科学的知識となり、論理となり、哲学となり、
倫理となり、発明となり、発見となり、普遍の法則を自己薬籠中のものとして、
自由自在に自然界をも支配することができ、如何なる希望も叶うようになるのである。
肉体人間は、自己の内に神の智慧を感受する真空管を有し、
その真空管を調節することによって、神の智慧を現象界に実現することが出来るのである。
人間は、神の智慧を受け取って、
それを現象の此岸に具体的な形に実現するために、
神の智慧を搬ぶところの乗物のようなものである。
しかしながら、それを知らないで、いたずらに人間の頭脳的知恵ばかりに頼って、
煩労を重ねているのが一般人であるのは真に遺憾なことである。
谷口雅春「希望を叶える365章」



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2009.03.23
霊障の真実
現代では、心霊的な現象は、非科学的だとか迷信だとみなされます。
物質文明の中で、霊による影響は、完全に無視されています。
しかし、霊障や憑依現象というのは、現実に存在します。
工学博士であり、現役の科学者である畑中真太郎氏はこう言われています。
西洋医学や東洋医学など、
一般的に知られている医学の範疇にはない概念として、「霊障」が挙げられます。
人類の歴史からすると、
医学という学問が確立される前は、病気の治療は祈祷師が行っていました。
「霊障」とは、目に見えない「霊」の持つネガティブなエネルギーが、
ある人の肉体や精神に悪い影響を与えている状態を言います。
祈祷師はさまざまな儀式を通してお経や呪文などのアイテムを用い、
この「霊」のネガティブなエネルギーをその場から取り除く「除霊」を行ったり、
浄化して成仏させる「浄霊」を行ったりすることで、病気の治療を行ってきました。
現在でも病院や診療所などの施設のないジャングルの奥地に住む人々などは、
こういった方法を利用して病気の治療を行っていますし、
神社や仏閣へ行けば神主さんやお坊さんがお祓いをしてくれるでしょう。
こういった事実からすると、病気と霊とを切り離して議論すべきではなく、
すべてではないにせよ、何らかの関係があると考えるのが妥当です。
霊障は、人間霊と動物霊、生霊と死霊、地縛霊、水子など、
心霊科学的に言うと細かく分類できるようですが、
そういうものがあるかもしれないという認識程度にして、
むやみに興味を共振共鳴させないようにすることが大切です。
一般の方にはあまり知られていないかもしれませんが、
実は科学の分野でも霊障に関して一部では認めているのです。
最先端の医薬品の研究開発などでは動物実験が頻繁に行われています。
つまり、人間の病気治療のための医薬品の開発と言って、
厳しい見方をすれば会社や個人の利益のために、
罪もない動物たちが毎日大量に殺されていっていると主張している人もいます。
しかし霊など科学的ではないから信じないと話している一般的な科学者の世界でも、
こういった動物実験を行っている研究室では、
やはり動物たちの供養をしていることが多いのです。
実験と称して殺してしまった動物の霊が崇り、
わが身に不幸な出来事が降りかかったらどうしようと考えると、
やはり私は霊など信じないから関係ないと言っていられなくなるのかもしれません。
また、近年流行した鳥インフルエンザや、
牛海綿状脳症(狂牛病)といった家畜に起因する病気は、
スピリチュアルな世界から見ると、一種の動物の崇りと捉えることができます。
人間はあまりにも家畜を物扱いし、動物の命を尊ぶ心を失い、
動物の犠牲のもとに私たちは生かされているという、
家畜に対する感謝の心が欠如してしまっています。
そのことを、人間に認識させるために起こっているのです。
ですから、私たちも毎日の食事の中で、口にするすべての食べ物に対しては、
感謝と畏敬の念を忘れず、さまざまな動植物の生命が犠牲になることによって、
人間は生かされているということを認識することが重要であると感じています。
「スピリチュアル・ヒーリング」
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物質文明の中で、霊による影響は、完全に無視されています。
しかし、霊障や憑依現象というのは、現実に存在します。
工学博士であり、現役の科学者である畑中真太郎氏はこう言われています。
西洋医学や東洋医学など、
一般的に知られている医学の範疇にはない概念として、「霊障」が挙げられます。
人類の歴史からすると、
医学という学問が確立される前は、病気の治療は祈祷師が行っていました。
「霊障」とは、目に見えない「霊」の持つネガティブなエネルギーが、
ある人の肉体や精神に悪い影響を与えている状態を言います。
祈祷師はさまざまな儀式を通してお経や呪文などのアイテムを用い、
この「霊」のネガティブなエネルギーをその場から取り除く「除霊」を行ったり、
浄化して成仏させる「浄霊」を行ったりすることで、病気の治療を行ってきました。
現在でも病院や診療所などの施設のないジャングルの奥地に住む人々などは、
こういった方法を利用して病気の治療を行っていますし、
神社や仏閣へ行けば神主さんやお坊さんがお祓いをしてくれるでしょう。
こういった事実からすると、病気と霊とを切り離して議論すべきではなく、
すべてではないにせよ、何らかの関係があると考えるのが妥当です。
霊障は、人間霊と動物霊、生霊と死霊、地縛霊、水子など、
心霊科学的に言うと細かく分類できるようですが、
そういうものがあるかもしれないという認識程度にして、
むやみに興味を共振共鳴させないようにすることが大切です。
一般の方にはあまり知られていないかもしれませんが、
実は科学の分野でも霊障に関して一部では認めているのです。
最先端の医薬品の研究開発などでは動物実験が頻繁に行われています。
つまり、人間の病気治療のための医薬品の開発と言って、
厳しい見方をすれば会社や個人の利益のために、
罪もない動物たちが毎日大量に殺されていっていると主張している人もいます。
しかし霊など科学的ではないから信じないと話している一般的な科学者の世界でも、
こういった動物実験を行っている研究室では、
やはり動物たちの供養をしていることが多いのです。
実験と称して殺してしまった動物の霊が崇り、
わが身に不幸な出来事が降りかかったらどうしようと考えると、
やはり私は霊など信じないから関係ないと言っていられなくなるのかもしれません。
また、近年流行した鳥インフルエンザや、
牛海綿状脳症(狂牛病)といった家畜に起因する病気は、
スピリチュアルな世界から見ると、一種の動物の崇りと捉えることができます。
人間はあまりにも家畜を物扱いし、動物の命を尊ぶ心を失い、
動物の犠牲のもとに私たちは生かされているという、
家畜に対する感謝の心が欠如してしまっています。
そのことを、人間に認識させるために起こっているのです。
ですから、私たちも毎日の食事の中で、口にするすべての食べ物に対しては、
感謝と畏敬の念を忘れず、さまざまな動植物の生命が犠牲になることによって、
人間は生かされているということを認識することが重要であると感じています。
「スピリチュアル・ヒーリング」



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2009.03.23
愛と無我
現代の仏陀は、「正しき心の探求」を説かれています。
それは、「愛」と「無我」の発見でもあります。
心の探究とは、
それぞれの人の中にある、光の粒子、
根本仏の光のかけらを見つけることにほかなりません。
一つは実践の論理です。
自と他を分け隔てている壁を取り除き、「自と他は一体である」と知ることです。
「自分」と「他人」とに分かれて見えても、
「ある国民」と「別の国民」というように見えても、
あるいは、白人、黄色人種、黒人など、
さまざまな種類の人間があるように見えても、
実は、「人類よ、あれ」という、大きな大きな念いが、
プリズムの七色の光のように分かれて、
いろいろな人間ができているにすぎないのです。
その事実を知ったときに、自他は一体になります。
その「自他一体」を悟ったことを表す行為が、愛の行為であるのです。
愛とは、他人に尽くすことです。
人に与えることです。
それは「無償の愛」と言うべきものです。
この「与える愛」の中には、
他人を自分と同じように愛する思いだけでなく、
他人をよりよく愛する思いも必要です。
自分自身を「よりよくなれ」と思うように、他の人々が生きている会社や、
他の人々の存在についても、「よりよくなれ」と思うことが大切です。
これが「生かす愛」といわれるものです。
そして、個性ある数多くの存在が共同生活を行っているために、
さまざまな、ぶつかり合い、いがみ合い、意見の衝突、不平不満、
愚痴、足ることを知らぬ欲望、執着などが生まれてきますが、
これは、根本仏の心を思うことによって、越えていくことができるのです。
この自他の壁を超えていったとき、そこに「許し」というものが発生してきます。
それが「許す愛」です。
ゆえに、「許す愛」というのは、極めて宗教的な愛なのです。
深い深い心を持っていなければ、
自我と自我のぶつかり合いを超えることはできません。
人間は、「生かす愛」において、善悪の違いを教え、
悪を正し、善を推し進めることが大事です。
そして、一段と大きな境地になったときに、
善悪の彼岸を超えて許し合える世界を求めることができるようになります。
それが宗教的なる悟りです。
そして、さらにその奥にある境地は、
地上に生まれた自分が、仏神の手足となり、
仏神そのものの光の一部となって、世を照らしていこうとする心です。
時代を照らしていく心、時代をさわやかに駆け抜けていく心です。
この世に執着を持つのではなく、
この世を照らすことのみに自分の人生を使いきる心です。
そのような生き方を、私は「存在の愛」と名づけました。
それは、光がそこに存在するかのような生き方です。
仏がそこに存在し、神がそこに存在するかのような生き方であり、
一歩引いても、仏神の一部が、その時代、その地域に存在するかのような生き方です。
それが「存在の愛」の考え方です。
このような、実践の原理としての愛の考え方において、
人は自他の垣根を超えることができるのです。
心の探究のもう一つの方法は、
自分自身の内に穿ち入り、「内なる宇宙」というものを見つめることです。
自分の内にある、無限の世界に通じる部分を発見することによって、
深い深い悟りというものが現れてきます。
この世において受けた教育や訓練というものが、あくまでも、
この世の世界において数十年の人生をよりよく生きるための方便であることを知り、
自我の殻を意図的に脱いで、自分の内なる深い世界に入ることです。
これが、仏教で言う「無我」の世界です。
しかし、日常生活を送りながら、この無我の世界に入ることは、極めて困難です。
そのため、禅定、あるいは瞑想というものをするわけです。
この世的なる活動を止め、雑然とした心の動きを止め、穏やかな湖面のような心となって、
瞑想の状態、限りなく無我の状態に入っていきます。
自我が固まっている状態というのは、ちょうど、湖面に大きな波が立って、
その波が個性をもっているように見える状態なのです。
これに対して、無我の状態というのは、その大きな波が鎮まって、
湖面そのものが一体となり、一つとなるような、そうした澄みきった状態です。
湖面のさざなみの一つひとつが個人の自我なのです。
この自我の部分を鎮め、無我の世界に穿ち入り、
そして、ないだ心の中に、限りない深さを見ていくとき、
その湖の中に、仏の創った宇宙が見えてきます。
四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元の各世界、
そして、それ以上の世界へと通じる部分が見えてきます。
けれども、それが見えているうちは、まだ、「自分」という個が残っているのです。
もう一段、境地が進んでいくと、自分自身が宇宙の一部であり、
宇宙の構成要員であるということが分かってきます。
自分の心の中の宇宙を眺めていくうちに、
「自分もまた宇宙の一部であるのだ。
仏神の念いを受けて、宇宙を形あらしめている、光の粒子の一つなのだ。
他のものもまたそうである。
この地上世界もそうである。
四次元、五次元、六次元等、人間が死後に行くと言われる、
あの世の世界もまた、仏や神の念いの世界の表れである。」
ということが分かります。
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
それは、「愛」と「無我」の発見でもあります。
心の探究とは、
それぞれの人の中にある、光の粒子、
根本仏の光のかけらを見つけることにほかなりません。
一つは実践の論理です。
自と他を分け隔てている壁を取り除き、「自と他は一体である」と知ることです。
「自分」と「他人」とに分かれて見えても、
「ある国民」と「別の国民」というように見えても、
あるいは、白人、黄色人種、黒人など、
さまざまな種類の人間があるように見えても、
実は、「人類よ、あれ」という、大きな大きな念いが、
プリズムの七色の光のように分かれて、
いろいろな人間ができているにすぎないのです。
その事実を知ったときに、自他は一体になります。
その「自他一体」を悟ったことを表す行為が、愛の行為であるのです。
愛とは、他人に尽くすことです。
人に与えることです。
それは「無償の愛」と言うべきものです。
この「与える愛」の中には、
他人を自分と同じように愛する思いだけでなく、
他人をよりよく愛する思いも必要です。
自分自身を「よりよくなれ」と思うように、他の人々が生きている会社や、
他の人々の存在についても、「よりよくなれ」と思うことが大切です。
これが「生かす愛」といわれるものです。
そして、個性ある数多くの存在が共同生活を行っているために、
さまざまな、ぶつかり合い、いがみ合い、意見の衝突、不平不満、
愚痴、足ることを知らぬ欲望、執着などが生まれてきますが、
これは、根本仏の心を思うことによって、越えていくことができるのです。
この自他の壁を超えていったとき、そこに「許し」というものが発生してきます。
それが「許す愛」です。
ゆえに、「許す愛」というのは、極めて宗教的な愛なのです。
深い深い心を持っていなければ、
自我と自我のぶつかり合いを超えることはできません。
人間は、「生かす愛」において、善悪の違いを教え、
悪を正し、善を推し進めることが大事です。
そして、一段と大きな境地になったときに、
善悪の彼岸を超えて許し合える世界を求めることができるようになります。
それが宗教的なる悟りです。
そして、さらにその奥にある境地は、
地上に生まれた自分が、仏神の手足となり、
仏神そのものの光の一部となって、世を照らしていこうとする心です。
時代を照らしていく心、時代をさわやかに駆け抜けていく心です。
この世に執着を持つのではなく、
この世を照らすことのみに自分の人生を使いきる心です。
そのような生き方を、私は「存在の愛」と名づけました。
それは、光がそこに存在するかのような生き方です。
仏がそこに存在し、神がそこに存在するかのような生き方であり、
一歩引いても、仏神の一部が、その時代、その地域に存在するかのような生き方です。
それが「存在の愛」の考え方です。
このような、実践の原理としての愛の考え方において、
人は自他の垣根を超えることができるのです。
心の探究のもう一つの方法は、
自分自身の内に穿ち入り、「内なる宇宙」というものを見つめることです。
自分の内にある、無限の世界に通じる部分を発見することによって、
深い深い悟りというものが現れてきます。
この世において受けた教育や訓練というものが、あくまでも、
この世の世界において数十年の人生をよりよく生きるための方便であることを知り、
自我の殻を意図的に脱いで、自分の内なる深い世界に入ることです。
これが、仏教で言う「無我」の世界です。
しかし、日常生活を送りながら、この無我の世界に入ることは、極めて困難です。
そのため、禅定、あるいは瞑想というものをするわけです。
この世的なる活動を止め、雑然とした心の動きを止め、穏やかな湖面のような心となって、
瞑想の状態、限りなく無我の状態に入っていきます。
自我が固まっている状態というのは、ちょうど、湖面に大きな波が立って、
その波が個性をもっているように見える状態なのです。
これに対して、無我の状態というのは、その大きな波が鎮まって、
湖面そのものが一体となり、一つとなるような、そうした澄みきった状態です。
湖面のさざなみの一つひとつが個人の自我なのです。
この自我の部分を鎮め、無我の世界に穿ち入り、
そして、ないだ心の中に、限りない深さを見ていくとき、
その湖の中に、仏の創った宇宙が見えてきます。
四次元、五次元、六次元、七次元、八次元、九次元の各世界、
そして、それ以上の世界へと通じる部分が見えてきます。
けれども、それが見えているうちは、まだ、「自分」という個が残っているのです。
もう一段、境地が進んでいくと、自分自身が宇宙の一部であり、
宇宙の構成要員であるということが分かってきます。
自分の心の中の宇宙を眺めていくうちに、
「自分もまた宇宙の一部であるのだ。
仏神の念いを受けて、宇宙を形あらしめている、光の粒子の一つなのだ。
他のものもまたそうである。
この地上世界もそうである。
四次元、五次元、六次元等、人間が死後に行くと言われる、
あの世の世界もまた、仏や神の念いの世界の表れである。」
ということが分かります。



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