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2009.03.30
偉大なる王
紀元前200年ごろ、
インド大陸を統一したマウリヤ朝第三代のアショーカ王は、
仏教に帰依し、「法(ダルマ)による政治」を行いました。
アショーカ王は、
第三回仏典結集を行い、各地に無数の仏塔を立て、法の宣布に尽くしました。
彼の遺した碑文から、当時の信仰の様子を知ることが出来ます。
私が在俗信者であった2年半のうち1年間は熱心ではなかった。
その後、教団の求道者となり努力した期間は1年間であった。
かつてはインドにおいて神々を信じなかった人も今は信じるようになった。
これは精進の成果である。
ダルマ(教法)に対する至高の愛と、至高の自己審査と、
至高の従順と、至高の敬虔と、至高の熱心がなければ、
この世とあの世の両方を得ることは難しい。
ダルマによる征服こそ最善の征服である。
ダルマによる征服こそが私の領土においても、
世界中のいたるところにおいても最善の征服である。
教法による征服が全面的勝利であり、喜びを得させるものである。
しかしこのような現世における喜びも、
来世の勝利(救い)の喜びに比べたら軽いものに過ぎない。
来世の救いこそが大いなる目的であると私は信じている。
全国土の福祉を増進させることが私の義務と考える。
その基本は政務に対する精進と迅速な処理である。
すべての人の福祉を向上させることよりも高尚な事業は存在しない。
わたしがそのために努力を惜しまないのは、
私が命あるものに対して負っている債務を返すためであり、
また同時にいのちあるものがこの世で平安に暮らし、
来世において天国に至らせるためである。
この勅語が永久に存続し、わたしの子や孫がすべての人の福祉のために働き、
そのために最善の努力をするためにこの石碑は建てられた。
「アショーカ王碑文」
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インド大陸を統一したマウリヤ朝第三代のアショーカ王は、
仏教に帰依し、「法(ダルマ)による政治」を行いました。
アショーカ王は、
第三回仏典結集を行い、各地に無数の仏塔を立て、法の宣布に尽くしました。
彼の遺した碑文から、当時の信仰の様子を知ることが出来ます。
私が在俗信者であった2年半のうち1年間は熱心ではなかった。
その後、教団の求道者となり努力した期間は1年間であった。
かつてはインドにおいて神々を信じなかった人も今は信じるようになった。
これは精進の成果である。
ダルマ(教法)に対する至高の愛と、至高の自己審査と、
至高の従順と、至高の敬虔と、至高の熱心がなければ、
この世とあの世の両方を得ることは難しい。
ダルマによる征服こそ最善の征服である。
ダルマによる征服こそが私の領土においても、
世界中のいたるところにおいても最善の征服である。
教法による征服が全面的勝利であり、喜びを得させるものである。
しかしこのような現世における喜びも、
来世の勝利(救い)の喜びに比べたら軽いものに過ぎない。
来世の救いこそが大いなる目的であると私は信じている。
全国土の福祉を増進させることが私の義務と考える。
その基本は政務に対する精進と迅速な処理である。
すべての人の福祉を向上させることよりも高尚な事業は存在しない。
わたしがそのために努力を惜しまないのは、
私が命あるものに対して負っている債務を返すためであり、
また同時にいのちあるものがこの世で平安に暮らし、
来世において天国に至らせるためである。
この勅語が永久に存続し、わたしの子や孫がすべての人の福祉のために働き、
そのために最善の努力をするためにこの石碑は建てられた。
「アショーカ王碑文」



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2009.03.30
神と人の仲立ち
神に到るまでの中間的存在なくして、宗教は成り立ちません。
祈りは彼らを媒介として叶えられます。
心の雑音を避けよ。
純粋に神の放送に心の耳を傾けよ。
聖書は「心の清きものは神を見ることを得ん」と教えていられるのである。
「心の清きもの」とは「心の雑音」のないものである。
世俗的な利欲の観念や、肉体的享楽の不純な欲情の無きものである。
せめて、祈る時だけでも、
そのような世俗的及び物質的・肉体的な欲情をことごとく払拭して、
心を清くして、純粋に心を神に振り向けた者とならなければならないのである。
自分の力で心を純粋になし得えないときに、
心の雑音を濾過する媒介として、高級霊又は天使を必要とするのである。
即ち、キリスト教に於いてはイエス・キリストが「心の雑音」を濾過する媒介となり、
仏教に於いては阿弥陀仏とか観世音菩薩とかが「心の雑音」を濾過する媒介となるのである。
人間自身は未だ修養が足らず、「心の雑音」が始終に起るのであるけれども、
神に自分の祈りが達する途中に於いて、
観世音菩薩の慈悲により「心の雑音」が除去されて、
神の霊的放送と純粋に波長が合うようになり、
神の与えたまうた善き恵みのみが現象世界に肉眼に見えるように実現してくるのである。
谷口雅春「希望を叶える365章」
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祈りは彼らを媒介として叶えられます。
心の雑音を避けよ。
純粋に神の放送に心の耳を傾けよ。
聖書は「心の清きものは神を見ることを得ん」と教えていられるのである。
「心の清きもの」とは「心の雑音」のないものである。
世俗的な利欲の観念や、肉体的享楽の不純な欲情の無きものである。
せめて、祈る時だけでも、
そのような世俗的及び物質的・肉体的な欲情をことごとく払拭して、
心を清くして、純粋に心を神に振り向けた者とならなければならないのである。
自分の力で心を純粋になし得えないときに、
心の雑音を濾過する媒介として、高級霊又は天使を必要とするのである。
即ち、キリスト教に於いてはイエス・キリストが「心の雑音」を濾過する媒介となり、
仏教に於いては阿弥陀仏とか観世音菩薩とかが「心の雑音」を濾過する媒介となるのである。
人間自身は未だ修養が足らず、「心の雑音」が始終に起るのであるけれども、
神に自分の祈りが達する途中に於いて、
観世音菩薩の慈悲により「心の雑音」が除去されて、
神の霊的放送と純粋に波長が合うようになり、
神の与えたまうた善き恵みのみが現象世界に肉眼に見えるように実現してくるのである。
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