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2009.04.30 僧侶の生活
ある面では、この世が極楽のようになってきました。

現代には、楽しいことや時間を忘れさせてくれることがたくさんあります。

ゲーム、アニメ、旅行、グルメ、恋愛、ショッピングなどなど。

愚僧は、これらを嗜むことをあえて封印してきました。

何故なら、限りある時間を別のものに使おうと決意したからです。

仏法真理に生きることを優先したのです。

多少の孤独感はありましたが、そう辛いことではありませんでした。

その代償として、喜びと楽しみを発見しました。

仏法真理に生きると、時間の流れが変わってきます。

じっとしていることが、極めて楽しいのです。

趣味が、思索すること、読書すること、瞑想すること、祈ることとなるのです。

僧侶の生活は、ロハスな生活です。




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因果の理法は、普遍の法則です。

何人もこれから逃れることは出来ません。

これを生前中に知っているのと知らないのとでは、生き方が大きく変わってきます。

スピリチュアリストであったW・ステッド氏が、
死後、霊媒ウッドマン氏の自動書記能力を借りて、このように語っています。




宇宙の創造機構は、人間の想像を絶した緻密さをもって計画されました。
その究極の目的は、各個に自由闊達な発達と進化をもたらすことです。
そのための摂理は厳然としています。
不変絶対です。
各自は、良心という本能によって、
今自分の行なっていることが摂理に適っているか反しているかを直感しております。
交通取り締りのお巡りさんのような人から教わる必要はないのです。
もちろん、自分自身を欺いて「これでいいんだ」と主張することはできます。
しかし、そう主張しながらも、
心の奥では本当はいけないのだという意識を打ち消すことができずにいます。
私は敢えて申し上げます―この事実に例外はない、と。
つまり良心は必ず知っているということです。
ところが大体の人間は、知らないことにしたがるものなのです。
これは深刻な意義をもつ問題であることを認識してください。
この種の問題を大抵の人は善悪の観点からではなく、
損得の勘定によって判断しております。
動機の善悪の区別がつかないわけではありません。
ちゃんと識別できるのです。
そして、事実、本能的には正確な判断を下しているのです。
ところが厄介なことに、人間は習性や損得勘定、社交上の面子から、
因果律がめぐりめぐって生み出す結果を考慮せずに、目先の結果にこだわってしまいます。
実に残念なことです。
が、死後の世界との関連からいうと、「残念」では済まされない、
可哀そうな、あるいは気の毒な事態となっていくのです。
不快な思い、辛い苦しみのタネを蒔いていることになるのです。
精神的苦悶という、みずからこしらえた地獄が待ちうけているのです。

人間の自我、ないしは霊は、精神の中に存在しています。
言い換えると、霊が脳という器官を通して意識活動を始めた時から、
徐々に精神が構成されてまいります。
その脳は、生理学的に解剖しただけでも、
科学者にとって「最後の秘境」ともいうべき驚異の世界ですが、
これを自我の道具として観察した時、いっそう微妙で複雑で、謎は深まるばかりです。
たとえば、精神はあらゆる思考と行動の原動力であるという事実までは理解できます。
が、その思考と行動の全てが精神に「書き込まれている」、
つまり記憶されているそのメカニズムはどうなっているのかとなると、
到底理解できないでしょう。
仮にあなたがどこかの店で付けで買い物をします。
すると何日かして請求書が届きます。
それを払い込みます。
するとあなたは、その時点でその買い物と支払いに関する一切のことを忘れます。
ところが、その店には全ての記録がいつまでも残っています。
精神の記憶も同じです。
あなたの意識にはのぼらなくても、
内容のいかんにかかわらず、全てが記憶されているのです。
その勘定の決済日が死後に訪れるというわけです。
支払いを済ませば、帳簿の方はそれで用事がなくなり、安心です。
が、記録そのものは、その後もずっと残り続けます。
さて、ここでしっかりと銘記していただきたいのは、
精神とその産物、すなわち思念は、
地上に存在するあらゆるものを始動させ創造していく原動力だということです。
物的なものも、元はといえば精神的なものに発しております。
それはもう説明するまでもないでしょう。
聳え立つビルも、最初は思念として設計者の頭の中に存在を得ていたのです。
思念は、分類すればいろいろなタイプに分けることができるでしょう。
昼の食事は何にしようかといった他愛ないものも、やはり思念の一つでしょう。
が、価値あるものを生み出していく建設的な思念と、
反対に害を及ぼす破壊的な思念とがあります。
大切なのは後者の方です。

地上生活でなめさせられる辛酸の大半は、自分自身の間違った思考が原因です。
もちろん、生まれ落ちた境遇が一人ひとり異なることは、
私も百も承知の上でそう述べております。
両親から不幸と不遇を引き継いで生きる人は、
恵まれた条件のもとに生をうける人よりも生活が辛く、楽しみが少ないにきまっています。
しかし、そうした地位や生活条件の相違におかまいなく、思念の摂理は平等に働きます。
どちらが有利ともいえないのです。
それを分かり易く説明してみましょう。
生まれながらにして過酷な生活環境に育った人間は、
物の考え方に一つの型―レコード盤に刻まれた溝のようなものが出来あがっております。
他人から物的援助を受けるようなことはあっても、
そういう固定した物の考えを変えさせるような精神的援助は、まず期待できません。
気の毒ではあっても、その人は生涯その不利な条件を引きずって生きなければなりません。
それは、別の角度から見れば、
人生についてまったく無知―そういう生き方以外の人生については何も知らずに終ります。
過酷な生活環境を改善する余裕などあろうはずもなく、
ひねくれた感情の積み重ねがますます環境を悪化させていきます。
では物的に恵まれた環境に生をうけた人間はどうかといえば、
物的な悩みや苦しみがないということが、
やはり結果的には前者と同じ精神的退廃をもたらします。
同じわだちの上をだらしなく歩き続けるだけで、精神は沈滞の一途をたどります。
かくして、両者とも死後の境遇をみずからこしらえていくのです。
しかし、この両者はその影響の及ぶ対象が自分自身だからまだしも救われるのです。
これが他人へ迷惑が及ぶ思念の使い方をするタイプになると、
死後の報いはもっと深刻です。
たとえば悪知恵のよく働くタイプの人間がいます。
他人への迷惑などまるで考えずに、自分の利害を素早く計算して、事を推し進めます。
こうしたタイプの人は、破壊的思念の中でも、
特に影響力の強い思念を出していることになります。
思念の悪用の最たるものであり、こちらへ来てから支払わされる代償は、
前者のタイプに比べて、はるかに重くなります。
なぜならば、放射した貪欲な思念が強固な壁をこしらえており、
それをみずからの力で片づけなければならないからです。

いかなる種類のものであろうと、あなたが一度その心に宿して、
そして放出したものは、精神世界に関するかぎり、すでに一つの既成事実となっております。
つまりその考えに基づいて行動を起こす起こさないに関係なく、
精神的にはあなたの一部を築いているということです。
私が言っているのは、あなたの個性が反映している明確な考えのことです。
それは、いったん心に抱いたら、精神世界に関するかぎり実行したのと同じことであり、
良いにつけ悪いにつけ、その報いをこちらへ来てから受けることになります。
そう言うと、心に思ったことをそんなに一々良心に照らしてコントロールしていたら、
身がもたないよ、とおっしゃる方がいるかも知れません。
それは私も同感です。
が、百パーセントはできなくても、
私が述べたことを事実と受け留めてくだされは、
その後のあなたの精神活動に、これまでとは違った厳しい目を向けるようになることでしょう。
精神活動こそ大事なのです。
良心を欺いたことを自覚することは、
他人にそれを知られることよりも、さらに辛いものです。
静かに良心の声に耳を傾けてみられるがよろしい。


「ブルーアイランド」




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2009.04.29 己心の魔
釈尊は悪魔と戦い、打ち勝った。

それは己の心、己心の魔との格闘でもあった。

悪魔につけ入れられるのは、心が六大煩悩で満ち満ちているからである。

六大煩悩とは、貪欲、瞋恚、愚癡、慢、疑、悪見。

肉体に執着し欲望追求に生き、
動物的感情のままに怒り憎しみ嫉妬し、
因果の理法に暗く、
エゴを肥大化させ慢心し、
あの世を知らず神仏を疑い、
誤った思想信条に傾倒してはいないか?

仏教は、
「題目や念仏のみで救われる」とか「死ねば仏」などという安易な教えではない。
じっと座って無念無想で空無になる教えでもない。
また、呪術や霊能力信仰でもない。

これを取り違えた仏教教団が魔に入られている。
仏教系カルトはオウムだけではない。
S会、A宗、S苑などたくさん存在する。
伝統仏教教団にも暗い想念が渦巻いている。
昨今では、強盗・殺人・詐欺などの犯罪に手を染める僧侶も珍しくは無い。

まさに、獅子身中の虫とはこのことだ。

仏教徒ならば、心を統御せよ。

日々、己の心を点検反省し、八正道・六波羅蜜を行じ、智慧を開発し四無量心を発揮せよ。

愚僧も精進します。




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2009.04.29 仏陀の肉声
現代の仏陀の説法がフリーで聞ける技術環境が整いました。

新時代の法施であります。













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2009.04.29 法の車輪
仏陀によって、法の車輪は廻されます。

私たちは、この車輪によって存在し、この車輪に従って生きるのです。

仏陀の説く法は、人間の出現に先立ち、人間の消滅に後れてなおも在るもの。

法とは姿を変えた神そのものであります。




世尊は言われた。

「マイトレーヤよ、この法の車輪は深遠である。
何となれば、それは把握することによっては獲得され得ないからである。
この車輪は、第二のものがあり得ないことによって、理解することが困難である。
何となれば、それはよく考えてみると、熟考によって服従させることができないからである。
この車輪をよく知ることは困難である。
何となれば、それは知と賢明さの平等の中で理解されるからである。
この車輪は混乱を持たない。
何となれば、それは完全な解放を獲得しており、束縛を持たないからである。
この車輪は縛られていない。
何となれば、それは付属物から解放されているからである。
この車輪は一つの精髄である。
何となれば、雷電のような一つの知によって獲得されるからである。
この車輪は分割されない。
何となれば、それは過去の限界からは生じないからである。
この車輪には誤りが無い。
何となれば、それは誤りの全ての非難から解き放たれているからである。
この車輪は平然と落ち着いている。
何となれば、それは支えとして無限を持つからである。
この車輪はいたるところに赴いた。
何となれば、それは空に等しいからである。

本当に、マイトレーヤよ、この法の車輪は、生命の解放の車輪であり、
一般に自然の解放の車輪であり、各自に固有の自然の解放の車輪であり、
全ての条件の解放の車輪である。
この車輪には生まれるということがなく、束縛もなく、始まりもない。
これは留まるところのない車輪である。
これは法の規則を、躊躇もなく疑いもなく、発展させる車輪である。
これは空の車輪である。
しるしのない車輪、欲望のない車輪、処方に従って作られたのではない概念の車輪である。
これは識別の車輪である。
激情の無い車輪であり、制約の車輪であり、かの如来によって理解された車輪である。
これは法の諸要素を混ぜない車輪であり、真の限界を決して乱さない車輪であり、
欲望も無く不明瞭さも無い車輪である。
この車輪は、生存の複雑に絡み合った諸原因の中に入ることの、
二重の限界の見解を越えたものである。
この車輪は、終わりも無く中程も無いこの法の諸要素を決して乱さない。
この車輪は、一人のブッダの自発的な行為を妨げない。
この車輪は、動きだすこともなければ、戻ることもない。
この車輪は、知覚することが非常に困難なものである。
この車輪は、人が取ることもなく捨てることもない。
この車輪は、えも言われず美しい。
この車輪は、眼に見える自然と一致する。
この車輪は、一つの対象物の全ての法の平等の中に行き渡る。
この車輪は、衆生の訓練を目指しており、魔法の言葉によって向きを変えられない。
この車輪は、第二がなく、等しいものがなく、傷がなく、
規則の中に入っており、優れた感覚を備えている。
この車輪は、法の諸要素を充分に集めている。
この車輪は、測り知ることのできないものであり、
全ての尺度を越えていて、測れないものである。
この車輪は、あらゆる計算の外にあり、思想によって把握され得ない。
この車輪は、精神の道を越えてしまっていて、等しいものが無い。
等しいものの無いこの車輪は、完全に言語を絶した美しさを持つ。
この車輪は、全ての音や物音やまた言葉の道から分離されており、
際限がなく、比類がなく、空のようであり、分割できず、静止したものでない。
生存の復雑に絡み合った諸原因の中に入ることによって妨げられず、
平静であり、極端に平静である。
固有の性質を持ち、ごまかしが無く、かつてあったことがなく、全ての衆生の言葉を話す。
悪魔の懲罰であり、異教徒に対する勝利であり、
輪廻転生の世界の領域の中に入ることを越えて、ブッダの領域に入ることである。
尊敬するべき衆生によって完全に知られ、
独覚方によって理解され、菩薩方によって受け入れられている。
全てのブッダ方によって褒め讃えられ、
全ての如来方によって分割されることがない。
おお、マイトレーヤよ、これがこの法の車輪、
この如来によって廻された車輪の性質であり、
それを廻す行為に対して、彼は如来と呼ばれるのだ。」


「方広大荘厳経(ラリタ・ビスタラ)」




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2009.04.29 ネットの底力
驚きのアンケート結果です。






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2009.04.29 聖三角形
世界は今、再び、聖なるものを必要としています。

極端に世俗化した文化は、行き詰まりを迎えています。

戦前の宗教的伝統を全て否定してきた日本においてもこの傾向が顕著です。

これを本来のあり方に戻さなければなりません。




神話、魔術、秘儀。
三つを合わせると、私が聖三角形と呼ぶ、
宗教的文化の伝統的領域の三角の地を構成する。
こうした言葉を書きつけるが早いか、
何と堕落したものに現代西欧社会の精神生活はなり下ってしまったかと思う。
なるほど、ロマン派運動以来、神話、魔術、秘儀が文化の中心にある、
と主張した芸術家や思想家の頑固な周辺地帯はある。
が、一般人の理解では、この三つ組をどのように見なしているか。
神話?虚偽と同義語。
子供の童話に近い、一種の古い文学。
魔術?演芸の奇術になり下って、
手先で早わざをやったり、鏡でごまかしをしたりすること。
秘義(ミステリー)?なり下った果ては探偵小説の域に達し、
せいぜいが解決すべき謎のこと、悪くすると摘発すべき不正。
この三つの概念の、元来の威厳は、嬌小化の厚い壁をぜんぜん通らず、
一般人の心にきちんと評価されることがない。
その代わり、こうしたものについての一般人の評価が下った代わりに、
それが占めていた高い位置を、
私たちの文化においては、もっと「文明的な」代用品が占める。
神話の代わりに歴史。
魔術の代わりに技術(テクノロジー)。
秘儀の代わりに理性。
こうして、もう一つの、さかさま三角形ができる―俗三角形だ。
その方向は地上を向き、超越的経験から遠ざかっている。
このようにさかさま三角形によって図示すると、
マルクスの有名な揚言を思い出すかもしれない―、
「自分が出現したのは、ヘーゲルをさか立ちさせ、観念主義哲学の大ぶろしきに、
唯物主義的科学の鉄のてこを当てて逆にしてしまうためだ」と彼は言った。
これは、味気ない言い方だ。
にもかかわらず、私たちが考えている変容も同じくらい味気なく、きわ立っている―、
一つの現実原則が先代のものを役立たずとして罵る。
大きな文化的転換の道程の終わり近くには、
いつも、そのような、急な、目まいするような方向転換があって、
新しいものが古いものの舞台をうばい取る。
決定的な世代が二つ三つ交代するうちに、
価値体系の全面的な革命が、重大な量的装填に達した、
うっせきしたエネルギーのように社会に発射する。
私たちの場合、この大逆転は、
心と行動における文化の全体的な世俗化であった―、
西欧社会のもっとも特色ある歴史的寄与であると同時に、
もっとも力のある、向こう見ずな、独創的な現代プロジェクトであることは確かだ。


セオドア・ローザク「意識の進化と神秘主義」




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2009.04.28 精進あるのみ
仮面をかぶっている愚僧は、

リアルでは、

実績なく、

能力なく、

霊力なく、

自信なく、

勇気なく、

実力なき人間だ。

しかし、永遠の仏道修行の道に入ったのだ。

初学者としての自覚を忘れず、

精進だけは、怠らないようにしよう。

主を信じて、光と一体となるのだ。




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2009.04.28 病害
古人は花に魔法を学んだ、
人の運を天文学に、
全能の神を化学に。

名前よりも事物を好んだ、
古人はほんとうの人間だった。

結ばれた世界の一神論者だった。

どこと言わずその澄んだ視線の落ちるところ、
古人は結ばれた世界の足あとをとらえた。

われらの目は、
武装しているが、
星たちを知らない、
神秘の獣や鳥を知らない、
植物を知らない・・・


ラルフ・ワルド・エマーソン




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生前スピリチュアリズムの普及に努めたW・ステッド氏は、
死後、霊界からこのような通信を送ってきています。

霊界は全ての宗教の源泉であるのです。

コピペ
ウィリアム・トーマス・ステッド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ウィリアム・トーマス・ステッド(William Thomas Stead, 1849年7月5日 - 1912年4月15日)は、
イギリスのジャーナリスト。
海軍の改革や児童・社会福祉などの法整備を大衆に訴え、
英国の現代ジャーナリズムの基礎を作ったといわれる。
自動書記能力があった。

1892年から95年にかけて、
自らの自動書記を通じて、死去した友人ジュリア・エイムスからの通信を受け取り、
編集して「Letters from Julia」(邦題 ジュリアからの便り)を発表した。
これはスピリチュアリズムの本としてはもっとも売れたもののひとつである。

1909年、故ジュリアからの要望で、
霊界通信のための事務局「ジュリア顕幽連絡局」を設立し、
肉親と死別した人々のため無償で通信を試みる。

1912年、ステッドはタイタニック号沈没で死去。

死後、ステッドは複数の交霊会に現れ、さまざまな手段で通信を送ってきた。
また、苦しんでいる霊を救済する仕事もしていたらしい。

1916年、精神科医ウィックランド博士の交霊会にもステッドが現れ、
タイタニック号事件で水死した人の霊を連れて来て、
博士のカウンセリングを受けさせたことがある。

1921年、娘のエステルが霊媒パイバー夫人を通して受け取った、
故ステッドからの通信を編集して、 
Communication with the next world (邦題 来世との交信)を発表。

1922年、エステルが霊媒ウッドマンを通じて受け取った通信を編集して、
The Blue Island (邦題 ブルーアイランド)を発表。




スピリチュアリズムという用語は、残念ながらいろいろと誤解されており、
中にはただの占いか好事家の道楽くらいに考え、そういうものに関わるのは危険である―、
反キリスト的な悪魔の仕業に違いないと決めつけます。
しかし、そう考える人たちは不幸にしてスピリチュアリズムのニセモノばかりを見せられ、
ホンモノを知らずに間違った先入観から拒否反応を起こしているに過ぎません。
こうした態度は、ホンモノを知っている人にとっては残念でもあり、
不愉快でならないことでしょう。
が、これが現実であり、無視できない勢力をもっております。
今回の通信のしめくくりとして、その誤解を解き、
スピリチュアリズムの真髄を述べておきたいと思います。

スピリチュアリズムは反キリスト派による策謀ではありません。
スピリチュアリズムの教えの中にはキリストが説いた教えの全てが含まれております。
ご承知のように、キリストは愛と寛容と助け合いの精神を第一に説きました。
「黄金率」というのがそれです。
「何ごとも、人にせられんと思うことは、人にもそのごとくせよ。」
そのほか、いろいろに表現されておりますが、スピリチュアリズムもまったく同じです。
キリストの弟子の中に不実な男がいたから、
あるいはその後のキリスト教会の聖職者の中にも罪深い者が少なくないからといって、
それだけでキリスト教を全面的にダメだと決めつけてしまう人はいないでしょう。
キリストの教えが宗教倫理として最高のものであることは万人の認めるところです。
スピリチュアリズムの霊的思想も、キリストの教えと同じ基盤の上に立っているのです。
それもそのはずです、地球圏を支配しているのはキリストの霊であり、
それが摂理となって作用しているからです。

世界の宗教はその摂理を異なった角度から見て、それぞれの教理としているわけです。
ある宗教で奨励していることを別の宗教では禁じていたりするのは、
見る角度が異なるからです。
そのどちらを取るかは、各自の判断力ないしは理解力によって違ってくるわけです。
その段階においてはそれでいいのです。
真理の全てを網羅している宗教はありません。
どの宗教も一面しか説いておりません。
そうした中にあって、より高いものを説いている宗教と低いものを説いている宗教、
より多くの真理を摂り入れている宗教と少ない宗教とがあるわけです。
しかし、すべての道は究極的には一つの頂上につながっています。
狭くて窮屈な道もあれば、脇道もあります。
広くてゆったりとした道もあります。
そして天下の公道ともいうべき幹線道路(ハイウェイ)があります。
スピリチュアリズムは神のハイウェイなのです。


「ブルーアイランド」




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