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2009.04.02
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2009.04.02
アショーカ王の回心
古代インドにあって仏教を守護した大王として知られるアショーカ王。
仏典には、
「残忍アショーカ」から「法のアショーカ」へと変身を遂げる説話があります。
史実を反映している叙述もあり、その史料的価値は高いと言われています。
アショーカ王が王位に就いた時、大臣達は彼を軽んじていた。
王は大臣達に言った。
「汝等よ、花を付けた木々や実を付けた木々を伐採し、荊の木々を保護せよ。」
「王は一体どこに目を付けているのだ。
むしろ荊の木を伐採し、花を付けた木々や実を付けた木々を保護すべきであろうに。」
彼らは三度に亘って王の命令に背いた。
すると怒った王は剣を抜き、500人の大臣の首を刎ねた。
人々はこのような彼の残忍さを見て、「残忍王」「残忍アショーカ」という渾名を付けたのである。
ある時、筆頭大臣ラーダグプタが王に進言した。
「王よ、そのような非道なことを御自分でなさるのは相応しくございません。
王の代わりに囚人を殺す者どもを雇われますように。
その者どもが王に代わって死刑執行の仕事をするでしょう。」
やがて王は家臣達に「私の代わりに囚人達を殺す者を探してこい」と命じた。
さて、そう遠くない山の麓に村があったが、そこに織物師が住んでいて、
彼に息子が産まれ、ギリカと命名された。
少年は残忍だったので、彼には「残忍ギリカ」という名前が付けられた。
彼が悪事に夢中になっているところを王の家来が見つけると、彼らは彼に言った。
「お前はアショーカ王のために死刑執行の仕事をすることができるかね。」
「全てのこの世の人間を死刑にしてやるさ」と彼は言った。
こうして彼らは彼をアショーカ王に差し出した。
彼は王に「私のために家を建てて頂きたい」と言ったので、
王は入り口だけは魅力的で最高に美しい家を建てさせ、
それに「楽しき館」という名前が付けられると、彼は言った。
「王よ、ここに入った者は二度と出さないという我が願いを聞き入れよ。」
そこで王は「そうしよう」と言った。
さて、商主の息子サムドラは世尊の教えに従って出家した。
彼は地方を游行しつつ、パータリプトラに到着した。
彼は午前中に衣を身に着け、衣鉢を持つと、乞食しにパータリプトラに入った。
そして彼は何も知らずに「楽しき館」に入ってしまった。
そして入り口だけは楽しそうに見えるが、
内部は地獄の住処にも似た恐るべきものであるのを見ると、再び外へ出たくなった。
ギリカが彼を見つけて捕まえると、「お前にはここで死んでもらう!」と彼に言った。
こうして憂いに打ちひしがれ、涙で喉を詰まらせた比丘はギリカに言われた。
「一体どうしたのだ。幼子みたいに泣くとは?」
比丘は答えた。
「善友よ、決して我が身の破滅を憂うるにあらず。
我が身に生ぜし解脱の法に対する障礙を心底憂うるなり。
我は得難き人身と、楽を生ずる出家と、
釈迦族の獅子たる師をも得ながら、再びそれらを捨てねばならぬ。」
彼はギリカに言われた。
「私は王から特権を与えられている。じたばたするな。お前はもう逃げられぬ。」
すると比丘は悲愴な声で一ヶ月の猶予を懇願したが、七日間の猶予しか許されず、
彼は死の恐怖に心を痛め、「七日後には死ぬのだ」と心中穏やかではなかった。
さて七日目のこと、アショーカ王の後宮の女がある王子と恋をし、
彼を見つめて言葉を変わしているのを見つけると、見るが早いか、
王は激怒し、彼らを二人ともその牢獄に放り込んだ。
そこで二人は鉄の臼の中に入れられ、擂り粉木で潰されて骨だけが残った。
その後、比丘はその二人を見ると、震え上がって言った。
「ああ、大悲ある師にして偉大な牟尼はいみじくも言えり。
『肉体は泡沫の如く実体なく儚きものなり』と。
あの顔の美しさはいずこに行けるや。
身体の美しさはいずこに消えたるや。
ああ、厭わしきかな、愚者達が楽しむこの輪廻は!
牢獄に留まれる我は、出離の手だてを得たり。
それにより、今日、我は存在という大海の彼岸に渡らん。
一晩中、我は仏の教えに専心し、
一切の束縛を断ち切って、最高の阿羅漢性を獲得せり。」
さてその夜が明け、残忍ギリカがその比丘に、
「比丘よ、夜が明けて太陽が昇った。お前を処刑する時だ」と言うと、比丘は言った。
「寿命長き者よ、私の最後の夜が明けて太陽が昇った。
最高なる恩寵の時だ。
お前の好きなようにするがよい。」
残忍ギリカが「一体何のことだ。その言葉を説明しろ」と言うと、比丘は言った。
「五蓋に覆われ、煩悩という盗人に傅かれし、恐ろしき痴の夜が我が心からも消え去れり。
そして智の太陽が昇り、我が心の空にて輝けり。
その光もて我はこの三界を如実に見る。
師の教えに従う我に最高なる恩寵の時来たれり。
寿命長き者よ、汝の欲するままにこの身を処置せよ。」
その後、残忍で恐ろしい心をし、来世を顧みず、怒りに満ちたギリカは、
水が一杯に入り、人間の血・髄・小便・大便が混じった大きな鍋に彼を投げ入れた。
そしてたっぷりの燃料を使って火を付けた。
多くの燃料を投入しているのに、熱くならなかった。
そこで再び火を付けようとしたが、それでも火が付かないので、
その鉄鍋の中を調べてみると、その比丘が蓮華の上で結跏趺坐しているのが見えた。
彼はそれを見て王に知らせた。
王が駆けつけ、数千の人々が集まってきた時、
その比丘は彼らを教化すべき時が来たと考えた。
鉄鍋の中で身体が水に濡れた比丘は、その瞬間に神通力を起こし、
見つめる人々の直中で、水面の白鳥の如く天空に舞い上がれり。
そして彼は様々な神変を現し始めた。
半身からは水が出て、半身からは火が出たり。
彼が空中で水を出し光り輝く様は、光り輝く薬草と水の流れとを持つ山の如し。
空中に舞い上がれる彼を見て、王は合掌し、
驚きの余り口をぽかんと開け、彼を見つめて言えり。
「我は己が好奇心から是非とも聞きたきことあり。
美しき方よ、貴方の姿は人に似たれども、神通力は人を超越せり。
自在者よ、よって我は合点が行かぬ。
心浄き人よ、貴方は一体何者なるや。
貴方のその神通力について我が理解できるよう、今、その意味を我に説け。
貴方の善・徳・威力を知れば、我は力の限り汝の弟子の如く振る舞わん。」
そこで比丘は「彼が教えを摂受し、世尊の遺骨を広め、
大勢の人々の利益のために邁進するに違いない」と考えて、
自分の徳を明らかにしつつ、彼に言った。
「王よ、我は、大悲を有し、一切の漏という束縛を断ち切られたる、
論者達の中の最高者たる仏の子なり。
我は法に従い、一切の存在に執せず。
我は自己を調御せる方に調御され、寂静に至れる人達の最高者に寂静へと導かれたり。
解脱者によりて我は輪廻の大いなる恐怖と有の束縛より解脱せしめられたり。
そしてまた王よ、あなたは世尊に、
『私が般涅槃して百年後、都城パータリプトラにアショーカと呼ばれる王が現れる。
彼は世界の四分の一を支配する転輪王となり、
私の遺骨を広め、八万四千の塔を建立する法王となろう』と予言された。
なのに王はこんな地獄さながらの場所を作らせてはそこで何千もの人違を殺させている。
王よ、あなたは一切有情に安心をお与えになられるように。
そして世尊の望みを叶えられるように。」
そして比丘は言った。
「それゆえ、王よ、貴方は優しき有情達に安心を与えよ。
導師の望みを叶え、法を具させる塔を広めよかし。」
「十力者の子よ、この悪行を許せ。
そして今、我は貴方にかく宣言す。
我はかの聖仙たる仏に、聖者に知らしめた法に、そして最高の僧伽に帰依す。
さらにまた、今、我は仏を尊重し、仏に傾倒せる浄信ゆえに、かくの如き努力をす。
白鳥・太陽・法螺貝・月・鶴に似た勝者の塔で大地を荘厳せん。」
やがて、その比丘はその同じ神通力でそこを脱出した。
「ディヴィヤ・アヴァダーナ」
クリックして愚僧の活動に御協力ください。
仏典には、
「残忍アショーカ」から「法のアショーカ」へと変身を遂げる説話があります。
史実を反映している叙述もあり、その史料的価値は高いと言われています。
アショーカ王が王位に就いた時、大臣達は彼を軽んじていた。
王は大臣達に言った。
「汝等よ、花を付けた木々や実を付けた木々を伐採し、荊の木々を保護せよ。」
「王は一体どこに目を付けているのだ。
むしろ荊の木を伐採し、花を付けた木々や実を付けた木々を保護すべきであろうに。」
彼らは三度に亘って王の命令に背いた。
すると怒った王は剣を抜き、500人の大臣の首を刎ねた。
人々はこのような彼の残忍さを見て、「残忍王」「残忍アショーカ」という渾名を付けたのである。
ある時、筆頭大臣ラーダグプタが王に進言した。
「王よ、そのような非道なことを御自分でなさるのは相応しくございません。
王の代わりに囚人を殺す者どもを雇われますように。
その者どもが王に代わって死刑執行の仕事をするでしょう。」
やがて王は家臣達に「私の代わりに囚人達を殺す者を探してこい」と命じた。
さて、そう遠くない山の麓に村があったが、そこに織物師が住んでいて、
彼に息子が産まれ、ギリカと命名された。
少年は残忍だったので、彼には「残忍ギリカ」という名前が付けられた。
彼が悪事に夢中になっているところを王の家来が見つけると、彼らは彼に言った。
「お前はアショーカ王のために死刑執行の仕事をすることができるかね。」
「全てのこの世の人間を死刑にしてやるさ」と彼は言った。
こうして彼らは彼をアショーカ王に差し出した。
彼は王に「私のために家を建てて頂きたい」と言ったので、
王は入り口だけは魅力的で最高に美しい家を建てさせ、
それに「楽しき館」という名前が付けられると、彼は言った。
「王よ、ここに入った者は二度と出さないという我が願いを聞き入れよ。」
そこで王は「そうしよう」と言った。
さて、商主の息子サムドラは世尊の教えに従って出家した。
彼は地方を游行しつつ、パータリプトラに到着した。
彼は午前中に衣を身に着け、衣鉢を持つと、乞食しにパータリプトラに入った。
そして彼は何も知らずに「楽しき館」に入ってしまった。
そして入り口だけは楽しそうに見えるが、
内部は地獄の住処にも似た恐るべきものであるのを見ると、再び外へ出たくなった。
ギリカが彼を見つけて捕まえると、「お前にはここで死んでもらう!」と彼に言った。
こうして憂いに打ちひしがれ、涙で喉を詰まらせた比丘はギリカに言われた。
「一体どうしたのだ。幼子みたいに泣くとは?」
比丘は答えた。
「善友よ、決して我が身の破滅を憂うるにあらず。
我が身に生ぜし解脱の法に対する障礙を心底憂うるなり。
我は得難き人身と、楽を生ずる出家と、
釈迦族の獅子たる師をも得ながら、再びそれらを捨てねばならぬ。」
彼はギリカに言われた。
「私は王から特権を与えられている。じたばたするな。お前はもう逃げられぬ。」
すると比丘は悲愴な声で一ヶ月の猶予を懇願したが、七日間の猶予しか許されず、
彼は死の恐怖に心を痛め、「七日後には死ぬのだ」と心中穏やかではなかった。
さて七日目のこと、アショーカ王の後宮の女がある王子と恋をし、
彼を見つめて言葉を変わしているのを見つけると、見るが早いか、
王は激怒し、彼らを二人ともその牢獄に放り込んだ。
そこで二人は鉄の臼の中に入れられ、擂り粉木で潰されて骨だけが残った。
その後、比丘はその二人を見ると、震え上がって言った。
「ああ、大悲ある師にして偉大な牟尼はいみじくも言えり。
『肉体は泡沫の如く実体なく儚きものなり』と。
あの顔の美しさはいずこに行けるや。
身体の美しさはいずこに消えたるや。
ああ、厭わしきかな、愚者達が楽しむこの輪廻は!
牢獄に留まれる我は、出離の手だてを得たり。
それにより、今日、我は存在という大海の彼岸に渡らん。
一晩中、我は仏の教えに専心し、
一切の束縛を断ち切って、最高の阿羅漢性を獲得せり。」
さてその夜が明け、残忍ギリカがその比丘に、
「比丘よ、夜が明けて太陽が昇った。お前を処刑する時だ」と言うと、比丘は言った。
「寿命長き者よ、私の最後の夜が明けて太陽が昇った。
最高なる恩寵の時だ。
お前の好きなようにするがよい。」
残忍ギリカが「一体何のことだ。その言葉を説明しろ」と言うと、比丘は言った。
「五蓋に覆われ、煩悩という盗人に傅かれし、恐ろしき痴の夜が我が心からも消え去れり。
そして智の太陽が昇り、我が心の空にて輝けり。
その光もて我はこの三界を如実に見る。
師の教えに従う我に最高なる恩寵の時来たれり。
寿命長き者よ、汝の欲するままにこの身を処置せよ。」
その後、残忍で恐ろしい心をし、来世を顧みず、怒りに満ちたギリカは、
水が一杯に入り、人間の血・髄・小便・大便が混じった大きな鍋に彼を投げ入れた。
そしてたっぷりの燃料を使って火を付けた。
多くの燃料を投入しているのに、熱くならなかった。
そこで再び火を付けようとしたが、それでも火が付かないので、
その鉄鍋の中を調べてみると、その比丘が蓮華の上で結跏趺坐しているのが見えた。
彼はそれを見て王に知らせた。
王が駆けつけ、数千の人々が集まってきた時、
その比丘は彼らを教化すべき時が来たと考えた。
鉄鍋の中で身体が水に濡れた比丘は、その瞬間に神通力を起こし、
見つめる人々の直中で、水面の白鳥の如く天空に舞い上がれり。
そして彼は様々な神変を現し始めた。
半身からは水が出て、半身からは火が出たり。
彼が空中で水を出し光り輝く様は、光り輝く薬草と水の流れとを持つ山の如し。
空中に舞い上がれる彼を見て、王は合掌し、
驚きの余り口をぽかんと開け、彼を見つめて言えり。
「我は己が好奇心から是非とも聞きたきことあり。
美しき方よ、貴方の姿は人に似たれども、神通力は人を超越せり。
自在者よ、よって我は合点が行かぬ。
心浄き人よ、貴方は一体何者なるや。
貴方のその神通力について我が理解できるよう、今、その意味を我に説け。
貴方の善・徳・威力を知れば、我は力の限り汝の弟子の如く振る舞わん。」
そこで比丘は「彼が教えを摂受し、世尊の遺骨を広め、
大勢の人々の利益のために邁進するに違いない」と考えて、
自分の徳を明らかにしつつ、彼に言った。
「王よ、我は、大悲を有し、一切の漏という束縛を断ち切られたる、
論者達の中の最高者たる仏の子なり。
我は法に従い、一切の存在に執せず。
我は自己を調御せる方に調御され、寂静に至れる人達の最高者に寂静へと導かれたり。
解脱者によりて我は輪廻の大いなる恐怖と有の束縛より解脱せしめられたり。
そしてまた王よ、あなたは世尊に、
『私が般涅槃して百年後、都城パータリプトラにアショーカと呼ばれる王が現れる。
彼は世界の四分の一を支配する転輪王となり、
私の遺骨を広め、八万四千の塔を建立する法王となろう』と予言された。
なのに王はこんな地獄さながらの場所を作らせてはそこで何千もの人違を殺させている。
王よ、あなたは一切有情に安心をお与えになられるように。
そして世尊の望みを叶えられるように。」
そして比丘は言った。
「それゆえ、王よ、貴方は優しき有情達に安心を与えよ。
導師の望みを叶え、法を具させる塔を広めよかし。」
「十力者の子よ、この悪行を許せ。
そして今、我は貴方にかく宣言す。
我はかの聖仙たる仏に、聖者に知らしめた法に、そして最高の僧伽に帰依す。
さらにまた、今、我は仏を尊重し、仏に傾倒せる浄信ゆえに、かくの如き努力をす。
白鳥・太陽・法螺貝・月・鶴に似た勝者の塔で大地を荘厳せん。」
やがて、その比丘はその同じ神通力でそこを脱出した。
「ディヴィヤ・アヴァダーナ」



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2009.04.02
神のまばたき
この世での生活は、長い長い転生の過程のなかでは、ほんの一瞬です。
この世での生活では転生を信じていなかった西洋の科学者が、
死後、霊界から電子機器を通じて、輪廻転生の事実を伝えてきています。
ITC(電子機器による霊界通信)研究者はこう言います。
多くの宗教が転生について説いており、
これについて言及している書物も数多く存在します。
そして霊界の研究仲間たちも会話のなかで、
進化における一過程として転生に触れています。
しかしながら、彼らは、転生について今や、
20世紀におけるさらに幅広いとらえ方をしています。
つまり、多次元から成る宇宙という枠組みのなかで、転生を考えているのです。
高次の世界における「光の存在」であり、
霊界の研究所の指導者であるテクニシャンは、
「転生は『霊的法則』である」と述べています。
しかし彼は、ここ地球および高次の世界の存在たちはすべて、
この法則を避けるためにしばらくの間「迂回」したり、
ときには拒否することもできる、
ただ永久にこの法則から逃れるれることはかなわないと補足しています。
霊界の科学者たちは、多くの惑星と銀河を持つ多次元宇宙について語り、
霊体でいるときには、わたしたちは宇宙の旅行者で、
他の多くの惑星を訪れたり、またそこに暮らしたりすることさえもできると述べています。
霊の進化は広大な宇宙を必要とするのです。
この概念がどんなに果てしなく大きいものかを考えてみてください!
わたしたちの地球は、1OOO億もの星を持つ銀河系のなかの平均的な惑星で、
この銀河系はさらに1OOO億の他の銀河に囲まれているのです。
しばしばわたしたちは、実際には経験した覚えもないのに、
「生命は永遠である」などという霊的な概念をくり返し口にします。
けれども、多くの信心深い人々にとって永遠の命というものは、
極度に単純化された結論となってしまっているのです。
わたしたちのなかには、死の瞬間に天国へと流され、
そこで神の国に暮らすのだと考えている人たちもいれば、
そこでは永遠に竪琴を弾き続けるのだと考える人さえいます。
しかしここで常識を働かせてみれば、
みんながみんな竪琴を弾きたいと思っているわけではないし、
音楽に関心のない者にとっては、
そんな存在はとんでもなく退屈なものになるだろうことがわかるはずです。
わたしたちは死んでも生きている間となんら変わりはないのだと、
他界にいる研究仲間たちは言っています。
わたしたちは死の瞬間に奇跡的に変わるわけではないのです。
わたしたちはアストラル体になっても、自分の思考、態度、願望を持ち続けます。
常に神をたたえて神の国に暮らすことは、
率直に言えばほとんどの人たちにとって楽しいことではないでしょう。
実際、たいていの人たちは―その死後も―、
このような高尚な目標に対しての準備がまだできていません。
これはそのような可能性がないということではありません。
ただほとんどの人々は、その生命のすべてを神をあがめながら過ごすことを、
(とりあえずは)まったく望んでいないのです。
彼らが深く掘り下げたいと思っていることは、もっと別にあります。
そして多次元から成る宇宙のなかで、
いつか心から神に感謝して神の存在を享受できるほどに純粋になれるよう、
彼らは何回もの人生をかけてそのような探求心を満たし、飽き飽きするほど堪能するのです。
ここで問題となるのは、わたしたちが地球に暮らす間、
人生は果てしなく長いものに感じられるということです。
けれども、アストラル界には時間というものが存在しません。
そしてアストラル界に暮らす人々にとっては、
人間の一生とはかろうじて覚えているかどうかのつかの間の夢にすぎません。
そうです、あなたにとってこれだけ重要で、
あなたのエネルギーのすべてを費やしているこの人生は、
実は神のまばたきほどのものなのです。
ほとんどの教会の教義では、人生はひとつしかないと説かれています。
霊界の科学者は、これは真実であることを指摘していますが、ここには誤解があり、
この教えは地球でのひとつの人生だけを示すものと解釈されてしまっています。
ほんとうはそうではなく、霊の命は永遠で、
多くの次元におけるたくさんの惑星での数え切れない経験から成り、これらの経験を基に、
わたしたちは神のそばで生きるにふさわしい高次の存在へと進化していくのです。
霊が最後に天界の領城にたどり着いて、
そのエネルギーの源に戻るとき、その命は初めて成就されます。
一方で、それはさらに高次のレベルにおける始まりにしかすぎないかもしれないのです!
宇宙が果てしないものならば、おそらく魂も果てしないものなのでしょう。
釈迦は、輪、つまり「生命の輪」である多次元世界について説きました。
人は物理的世界からアストラル界へ渡り、
その後もぬぐい去れない願望を達成するために地球に戻る。
もし「この輪からはずれたい」のなら、無欲でいなければならない。
つまり、あなたが地球上で得られるものをこれ以上何も望まないならば、
もう地球に戻ることもないということです。
あなたの願望こそが、あなたを地球に呼び戻すものなのです。
ここで明白な疑問が出てきます。
「いったい、わたしはこれ以上何を望むのだろう?」
あなたは自分を地球に留まらせるものについて、気にせずにいられません。
転生においては自由意思というものが大きくからんできます。
霊界の指導者たちの多くは、転生はカルマ、
つまり「作用と反作用の法則」によって引き起こされると考えています。
もし他人を傷つければ、あなたは地球に戻り、
自分が他人にしたのと同じ苦しみを味わうことになります。
こういった状況に適切な言葉は「自業自得」です。
キリストが言ったことの多くはカルマの観点から解釈することができますが、
彼の言葉にも「善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」、
「不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう」というものがあります。
常に他人に親切であれという彼の教えは、カルマ的な意味から賢明なことであると言えます。
なぜなら、もしあなたが他人に対して良い行いしかしなければ、
自分にも良いことしか返ってはこないからです。
しかし、すべての転生がカルマに関連しているわけではありません。
霊界の指導者はこう述べています。
「転生のすべてが、過去世の償いを今世でするための過程といったわけではない。
あなたの周りの人々が過酷な運命にさらされたからといって、
彼らが過去の過ちの償いをしているのだとは必ずしも考えないでほしい。
決して裁かないこと!
もしかするとあなたはまちがっていて、
その誤った判断によって自分に重荷を課してしまうかもしれないのだ。
過去のカルマとは関係のない悲しみや病を抱えている人もいる。
彼らは自分自身の自由意思をもって、より早く自分の目的に到達するため、
または叡智と霊的成長を高めるために困難な道を自ら選んだのかもしれないのである。」
霊界の研究仲間たちが指摘するように、
転生とは霊的存在に対して強制されるものではありません。
これは、霊的存在が自分自身の知識や叡智を高めるために自ら進んで行うことなのです。
自分が抱く思考と行動が引き起こす結果から逃れる道はありません。
否定的な考えや行動からは、より良い世界に住むことを期待することはできません。
物理的な体が崩壊するとき、あなたの思考、感情、記憶を含むあなたのアストラル体は、
アストラル界に生きるために解き放たれます。
暗闇と苦痛に満ちた低次の世界に住むか、
美と愛にあふれた高次のアストラル界に住むか、
あるいはさらに上層の、
神に最も近い神聖な存在たちの世界に住むことになるかは、まったくあなたしだいです。
選ぶのはあなたです。
地球で過ごす一瞬一瞬が、ここで選択することすべてが、
あなたの死後の生活を決定するのです。
パット・クビス/マーク・メイシー「あの世の存在に活かされる生き方」
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この世での生活では転生を信じていなかった西洋の科学者が、
死後、霊界から電子機器を通じて、輪廻転生の事実を伝えてきています。
ITC(電子機器による霊界通信)研究者はこう言います。
多くの宗教が転生について説いており、
これについて言及している書物も数多く存在します。
そして霊界の研究仲間たちも会話のなかで、
進化における一過程として転生に触れています。
しかしながら、彼らは、転生について今や、
20世紀におけるさらに幅広いとらえ方をしています。
つまり、多次元から成る宇宙という枠組みのなかで、転生を考えているのです。
高次の世界における「光の存在」であり、
霊界の研究所の指導者であるテクニシャンは、
「転生は『霊的法則』である」と述べています。
しかし彼は、ここ地球および高次の世界の存在たちはすべて、
この法則を避けるためにしばらくの間「迂回」したり、
ときには拒否することもできる、
ただ永久にこの法則から逃れるれることはかなわないと補足しています。
霊界の科学者たちは、多くの惑星と銀河を持つ多次元宇宙について語り、
霊体でいるときには、わたしたちは宇宙の旅行者で、
他の多くの惑星を訪れたり、またそこに暮らしたりすることさえもできると述べています。
霊の進化は広大な宇宙を必要とするのです。
この概念がどんなに果てしなく大きいものかを考えてみてください!
わたしたちの地球は、1OOO億もの星を持つ銀河系のなかの平均的な惑星で、
この銀河系はさらに1OOO億の他の銀河に囲まれているのです。
しばしばわたしたちは、実際には経験した覚えもないのに、
「生命は永遠である」などという霊的な概念をくり返し口にします。
けれども、多くの信心深い人々にとって永遠の命というものは、
極度に単純化された結論となってしまっているのです。
わたしたちのなかには、死の瞬間に天国へと流され、
そこで神の国に暮らすのだと考えている人たちもいれば、
そこでは永遠に竪琴を弾き続けるのだと考える人さえいます。
しかしここで常識を働かせてみれば、
みんながみんな竪琴を弾きたいと思っているわけではないし、
音楽に関心のない者にとっては、
そんな存在はとんでもなく退屈なものになるだろうことがわかるはずです。
わたしたちは死んでも生きている間となんら変わりはないのだと、
他界にいる研究仲間たちは言っています。
わたしたちは死の瞬間に奇跡的に変わるわけではないのです。
わたしたちはアストラル体になっても、自分の思考、態度、願望を持ち続けます。
常に神をたたえて神の国に暮らすことは、
率直に言えばほとんどの人たちにとって楽しいことではないでしょう。
実際、たいていの人たちは―その死後も―、
このような高尚な目標に対しての準備がまだできていません。
これはそのような可能性がないということではありません。
ただほとんどの人々は、その生命のすべてを神をあがめながら過ごすことを、
(とりあえずは)まったく望んでいないのです。
彼らが深く掘り下げたいと思っていることは、もっと別にあります。
そして多次元から成る宇宙のなかで、
いつか心から神に感謝して神の存在を享受できるほどに純粋になれるよう、
彼らは何回もの人生をかけてそのような探求心を満たし、飽き飽きするほど堪能するのです。
ここで問題となるのは、わたしたちが地球に暮らす間、
人生は果てしなく長いものに感じられるということです。
けれども、アストラル界には時間というものが存在しません。
そしてアストラル界に暮らす人々にとっては、
人間の一生とはかろうじて覚えているかどうかのつかの間の夢にすぎません。
そうです、あなたにとってこれだけ重要で、
あなたのエネルギーのすべてを費やしているこの人生は、
実は神のまばたきほどのものなのです。
ほとんどの教会の教義では、人生はひとつしかないと説かれています。
霊界の科学者は、これは真実であることを指摘していますが、ここには誤解があり、
この教えは地球でのひとつの人生だけを示すものと解釈されてしまっています。
ほんとうはそうではなく、霊の命は永遠で、
多くの次元におけるたくさんの惑星での数え切れない経験から成り、これらの経験を基に、
わたしたちは神のそばで生きるにふさわしい高次の存在へと進化していくのです。
霊が最後に天界の領城にたどり着いて、
そのエネルギーの源に戻るとき、その命は初めて成就されます。
一方で、それはさらに高次のレベルにおける始まりにしかすぎないかもしれないのです!
宇宙が果てしないものならば、おそらく魂も果てしないものなのでしょう。
釈迦は、輪、つまり「生命の輪」である多次元世界について説きました。
人は物理的世界からアストラル界へ渡り、
その後もぬぐい去れない願望を達成するために地球に戻る。
もし「この輪からはずれたい」のなら、無欲でいなければならない。
つまり、あなたが地球上で得られるものをこれ以上何も望まないならば、
もう地球に戻ることもないということです。
あなたの願望こそが、あなたを地球に呼び戻すものなのです。
ここで明白な疑問が出てきます。
「いったい、わたしはこれ以上何を望むのだろう?」
あなたは自分を地球に留まらせるものについて、気にせずにいられません。
転生においては自由意思というものが大きくからんできます。
霊界の指導者たちの多くは、転生はカルマ、
つまり「作用と反作用の法則」によって引き起こされると考えています。
もし他人を傷つければ、あなたは地球に戻り、
自分が他人にしたのと同じ苦しみを味わうことになります。
こういった状況に適切な言葉は「自業自得」です。
キリストが言ったことの多くはカルマの観点から解釈することができますが、
彼の言葉にも「善いことを行えば、だれでも主から報いを受けるのです」、
「不義を行う者は、その不義の報いを受けるでしょう」というものがあります。
常に他人に親切であれという彼の教えは、カルマ的な意味から賢明なことであると言えます。
なぜなら、もしあなたが他人に対して良い行いしかしなければ、
自分にも良いことしか返ってはこないからです。
しかし、すべての転生がカルマに関連しているわけではありません。
霊界の指導者はこう述べています。
「転生のすべてが、過去世の償いを今世でするための過程といったわけではない。
あなたの周りの人々が過酷な運命にさらされたからといって、
彼らが過去の過ちの償いをしているのだとは必ずしも考えないでほしい。
決して裁かないこと!
もしかするとあなたはまちがっていて、
その誤った判断によって自分に重荷を課してしまうかもしれないのだ。
過去のカルマとは関係のない悲しみや病を抱えている人もいる。
彼らは自分自身の自由意思をもって、より早く自分の目的に到達するため、
または叡智と霊的成長を高めるために困難な道を自ら選んだのかもしれないのである。」
霊界の研究仲間たちが指摘するように、
転生とは霊的存在に対して強制されるものではありません。
これは、霊的存在が自分自身の知識や叡智を高めるために自ら進んで行うことなのです。
自分が抱く思考と行動が引き起こす結果から逃れる道はありません。
否定的な考えや行動からは、より良い世界に住むことを期待することはできません。
物理的な体が崩壊するとき、あなたの思考、感情、記憶を含むあなたのアストラル体は、
アストラル界に生きるために解き放たれます。
暗闇と苦痛に満ちた低次の世界に住むか、
美と愛にあふれた高次のアストラル界に住むか、
あるいはさらに上層の、
神に最も近い神聖な存在たちの世界に住むことになるかは、まったくあなたしだいです。
選ぶのはあなたです。
地球で過ごす一瞬一瞬が、ここで選択することすべてが、
あなたの死後の生活を決定するのです。
パット・クビス/マーク・メイシー「あの世の存在に活かされる生き方」



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