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科学によって裏付けられた宗教は、どのような意味を持ってくるのでしょうか?

心霊研究の大家、ジョージ・ミーク氏による素晴らしい考察です。




死後の生についての科学的研究によって、
さまざまの偉大な宗教的伝統の中心にある真理は正しい、ということが確認されました。
そういった伝統が「よりよい生のために」と教えている事柄に、
注意を払っても然るべきだと思います。

まず第一に、偉大な宗教はいずれも、黄金律(すぐれた根本原理)をもっています。
キリスト教では、「何事でも、他の人々からしてもらいたいとあなたが望むことを、
他の人びとに対して行いなさい」と言いますが、
他の宗教では、言い方は多少ちがっても、同じことを教えています。
ユダヤ教、仏教、道教、儒教、ジャイナ教、ゾロアスター教、イスラム教、ヒンズー教、
シーク教など、どの宗教ををとってみても、その道徳や自己の向上の道の中心には、
他者に接する態度について、キリスト教と同じ考え方がみられます。
他者への愛の心は、どの場合にも、幸福な生活の基礎になるものです。
この第一の点は、他者に対するときに私たちのとるべき態度を示す素朴な法則です。

第二は、私たちの創造主である神に対して、私たちのとるべき態度についての法則です。
神とは、一切である存在―言いかえれば、至るところに遍在し、
決して私たちを離れることのない存在―なのですから、
私たちは何も死を待たなくても、神の多くの住居について知ることができます。
つまり、私たちは、この地上で生きているあいだに、
同時に生きている多くの実在の次元を知ることができます。
あなたのアストラル体は、
あなたの肉体が眠っている間に旅をすることができるし、現にそうしているのです。
またある人びとは、瞑想の状態の中で、さまざまの世界や領域を訪ねていくことができます。
あなたは、あなたの肉体の死まで待つ必要はありません。
ただし、本当の悟りをひらいた人は、
最も低い世界から非常に高い世界まで、あらゆる存在の次元についてよく知っており、
そういう存在の諸段階が今ここに、私たちとともに現に存在していることを、よく知っています。
このような高い悟りの状態に至る人は、もちろん非常に少ないのです。
それはごく少数の賢者、視霊者、神秘家、予言者、聖者など、
肉体をもちながら宇宙的意識の高さにまで達した人たちに限られています。
彼らのいうところによれば、私たちの心や精神が自分中心の自我にとらわれず、
純粋に神に向けられれば、私たち―つまりあなたや私―でも、
そういう高い状態に至ることができるのです。
さらに彼らは、彼らの修行の経験にもとづいて、
神を求める人たちのために、いろいろの修行をつくり出してきました。
こういう霊的向上の方法は、準備のない初心者にも役立つとともに安全なものです。
そういう修行法は、日常生活でよい行いをすることを教える道徳的教えとはちがって、
人々が個人として智恵を深め、人格を向上させ、高い人生の価値を実現していく方法です。
こういう方法には、いろいろな修行のしかたがありますが、
その中の重要な部分として、必ず祈りや瞑想が含まれています。

この場合、なぜ霊能の開発を目的としないで、祈りや瞑想を重くみるのでしょうか。
たとえば、深いトランス状態に入ることのできる霊媒になるよりも、
人格の霊的向上を重くみるのはなぜなのでしょうか。
私は、多くの国々で、良き友人として長いあいだ私の研究を助けてくれた、
霊媒や霊能者の人たちに、大きな敬意と愛情をもっています。
しかしそれにもかかわらず、霊能の開発を目的とすることには、
限界があり、また欠点があるといわなければなりません。
霊能や超能力は、決して、
人間のたましいの向上に代わるような価値あるものではありません。
過去三千年の間、たましいの伝統を守り、説きつづけてきた人々は、
このことをはっきり認識しています。
彼らは、霊能にとらわれることの危険をよく知っています。
ですから彼らは、さまざまの超能力は、
神と結ばれた目ざめた意識をほんとうに開くためには妨げになるものであって、
それを追い求めてはいけない、と弟子たちをいましめています。
さまざまな超能力は、人の目をひくことが多く、また魅力のあるものですけれども、
しかし、ほんとうにたましいの満足を与えてくれるものではありません。
大事なことは、何よりもまず、神に対して自分をひらくということです。
これを誤りますと、超能力を追求することは、
しばしば、自我の欲を大きくさせ、力を追い求めることになってしまいます。

これに対して祈りと瞑想は、自我をすてる役に立ちます。
つまり、まわりのものを支配して一種の「名誉」を得ようとする、
小さくあわれな自分というものをなくしていくために効果があります。
このようにして自我のカラが消えていくにつれて、
神の光と愛がますますはっきりと輝くようになり、
個人的なものは、個人をこえたものになっていきます。
そこには、超越と無我の境地があり、
人類との、またあらゆる存在との調和にみちた無限の抱擁があります。
日常の経験とは全くちがったこのような「別世界」の体験は、
祈りと瞑想をつづけていくことによって、
一時的に経験される超越的な状態といったものではなくなり、
次第に、日常生活の中での自覚と結びついてきます。
そのとき、さまざまの存在の次元は、まさしく、
今ここ、に存在する唯一の「大いなる実在」のさまざまな相を明らかにするものとなります。

自分の現在の肉体を脱ざすてる時を待たずとも、
あなたは、アストラル界や、それよりも高い次元にある知恵を、
毎日の生活にとり入れることができるようになります。
たましいの向上によって達せられる共同体、
特にそのすぐれた実例をとってみますと、
そこには多くの聖者や清らかな心の人たちの集まりが見出されます。
これは決して偶然によるものではありません。
彼らが人びとの尊敬を受けてきた理由は、
次のようなところにあります…彼らのもつ慈しみの心、献身、人をはげます智恵のことば、
世間に対する奉仕、生死を越えた態度、彼らのもっているおだやかな心、
多くの人が、打ちのめされてしまうか、
心配でじっとしていられなくなるような状況におかれても、決して心の平和を失わない態度・・・。
彼らのもっている秘密は、何だったのでしょう。
彼らはそれぞれその人なりに、一定の歴史的伝統にもとづいたやり方で、
「自分を投げすてよ、そして神をあらしめよ、そのとき汝は受け入れられるであろう」、
という教えが真理であることを発見したのです。
ふつうみられる狭い自己中心的態度に代って、
無限なるものについての感受性があらわれ、
個人的なものから個人を超えたものに変わっているのです。

ここに描いた輝かしい虹は、
それぞれの人間の人生というものが、はるかなる未来に向って、
私たちの心を精神的にまた霊的に向上させていく旅である、ということを考えさせてくれます。
さらにまた、個人的な充足感、感動、幸福、愛、完成、
そして肉体の苦悩とその限界からの自由を、
未来に向かってひろげていく人生になるということを、私たちに知らせています。
今、あなたは、あなたが既に永遠の中に生きている、ということを知らなければなりません。
あなたは死にません。
あなたは永遠に生きています。
けれども、あなたの人生がもつ性質は、
この世であれあの世であれ、ひとえにあなた自身によってきまるのです。


「死後の世界と魂の成長」




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2009.04.18 驚愕の事実
この世に驚くべきことはたくさんある。

しかし、最も驚くべきことは、仏陀が再誕していること。

その仏陀が、わが国日本に生まれ、現在進行形で法を説いていること。

仏陀という魂は地球最高神であり、まさに天上天下唯我独尊だったこと。

しかも、その魂の本体は、地球人類創造にかかわった創造主であったこと。

その存在は、うるわしき光の国・地球という意味のエル・カンターレであったこと。

エル・カンターレの光が、4億年の地球人類の歴史を創り、これからも創っていくこと。




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2009.04.18 霊界見聞
インド仏典には、
あの世を遍歴して来た信者がこの世に戻ってきて、
その体験を語る、という説話が多く見られます。

仏教では霊界の存在は常識なのです。




同志マハーカーティヤーヤナは、遠くからシュローナ・コーティーカルナを見た。
そして見ると、シュローナ・コーティーカルナにこう言った。

「シュローナよ、こちらにおいで、お前はよく来た。
シュローナよ、お前はこの世とあの世とを見てきたのだな。」

彼は言った。
「大徳マハーカーティヤーヤナよ、見てまいりました。
大徳マハーカーティヤーヤナよ、
私は見事に説かれた法と律とに従って出家し、
具足戒を受けて比丘になりとうございます。
私はあなたのもとで梵行を修したいのです。」

聖者は彼に言った。
「シュローナよ、お前は先ず霊界で取り交わした約束を果たしなさい。
頼まれたとおりに伝言を伝えてくるのだぞ。」

彼は羊飼いのもとに近づいた。
「君、私は君の父さんに霊界で会ったが、
彼は『その業の果が熟することは望ましくない。その非行を止めよ』と言っていたよ。」

「ねえ、旦那、私の親父が死んでから、今日で十二年になるんですよ。
あの世から再び帰ってきた人を誰か見たことがありますか?」

「君、この私は帰ってきたのだ。」
彼は信じなかった。

「君、もし君が信じないのなら申し上げよう。
お前のお父さんは言っていたよ。
『屠殺台の下に、黄金の詰まった瓶が置いてある。
それを取り出して、自分は自分で思う存分楽しくやればよいが、
時には聖者マハーカーティヤーヤナに握り飯を差し上げもしなさい。
そして我々の名前で、その布施の果報を廻向してくれ。
そうすれば、きっとその悪業は少なくなり、完全に尽きて、消滅するだろう』とね。」

彼は考えた。
私はいまだかつてそんな事を聞いたことがない。
調べてみて、もしも本当ならば、すべては真実に違いない、と。

彼は行って掘ってみると、
すべてはまさしくそのとおりであることが分かったので、彼は信用した。


「ディビヤ・アヴァダーナ」




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