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2009.05.07 疑心を超えて
疑いの心は起きて当然。

どのような人にも必ず試練は訪れる。

地上には誘惑が無数にある。

この世界には目を背けたくなるような現実もある。

実存主義者達が見たように人生には離反あり苦悩あり病あり挫折あり死あり。

この世には競争や汚濁や不正や陰謀や詐欺や犯罪が満ちている。

思想信条が原因で起こる戦争・独裁・虐殺・テロ・クーデター。

宗教者は天国への鍵を握り地獄に落ちると脅して金儲け。

そんな浮世の様相を見れば誰しも生まれてきた運命を呪いたくなるのかもしれない。

しかしながらそれは事物の一面の姿なのだ。

実相は光明荘厳である。

驚異の大宇宙の法則を知れ。

夜空の星々や太陽を見よ。

生き物たちの喜びの声や自然の運行の歌を聞け。

そしてすべての崇高な価値の源泉たる神仏を信ぜよ。

だれもが想像を超えるほど見守られ許され生かされ愛されている。




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メディアによる暗黒思想汚染が進行しています。
これはもう犯罪です。






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2009.05.07 神話の時代
いくら科学が進歩しても、神話の持つ意味、その果たす役割は変わりません。

逆に、これを忘れてしまった現代は、危機的な状況にあると言えます。

この現代の閉塞感を解消するための叡智は、神話にこそあります。




どの国の神話も、われわれが生きているこの世と併存し、
ある意味でこの世を支えている、もうひとつの次元について語っているという点。
この、目には見えないが、
より強力な現実―ときに神々の世界とも呼ばれる現実―の存在を信じる思いが、
神話の根本的なテーマである。
これは「永遠の哲学」と呼ばれてきた。
というのは、科学的な思想に支配された現代社会が生まれるまでは、
こうした信念こそが、あらゆる社会の神話、儀式、組織の特徴であったし、
今でも、比較的伝統を重んじる社会にはこうした信念が影響しつづけているからである。
そんな「永遠の哲学」によれば、この世で起こること、
この下界でわれわれが見たり聞いたりすることには、
どれもひとつひとつ神の領域で対応しているものがあるという、
―豊かさにかけても、影響力にかけても永続性にかけても、下界の上を行く、神の領域で。
そして、下界の現実はどれも、天界にある原型の不完全で影の薄いコピーにすぎない。
死から逃れらない、はかない運命の人間は、
神聖な天界に加わることによって初めて、自分の持っている可能性を実現できる。
神話は、人間が直感的に感じている現実に明瞭な形を与えた。
人間は神話から、神々のすばらしい言動を学んだが、
それは興味本位からでも娯楽のためでもなく、
人間がこうした偉大な存在をまね、神性を体験できるようにするためだった。

われわれ現代人は、かつてないほど神話から離れてしまった。
だが、近代以前には、神話は不可欠な存在だった。
人が自分の人生を理解するのを助けたばかりか、
神話がなければ到底知ることのできなかった心の領域を明かしてもくれた。
心理学のような役割を果たしていたわけである。
フロイトとユングは、現代流の魂の探求を始めたとき、
本能的に古典的な神話を研究素材にして持論を説き、古い神話に新しい解釈を与えた。
しかし、この方法に斬新なところは何もない。
周囲の状況が変わったなら、それにあわせて自分の物語の語り口も変えなければ、
永遠の真理を引き出すことはできない。


カレン・アームストロング「神話がわたしたちに語ること」




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2009.05.07 供養の意義
仏教では、
仏塔(ストゥーパ)言われるお墓を建て、死者を供養します。

三蔵法師玄奘が、
供養の意義について語っています。




出家した僧たちは、
制度として死者を泣き悲しむというものはなく、
父母の死にあえば、心に思い浮かべては恩に酬いんことを思い、
葬儀を丁重にすることは、
まことに冥福の一助となるのである。

多くのストゥーパは、神異なことが多く、霊験がある。
むかし如来がはじめて仏果を證し、
菩提樹の下より起ち、鹿野園にやってきた。
おりしも二人の長者がおり、如来の威光にふれ、
その持っている旅行のたくわえのままに乳粥をささげた。
世尊は二人のために、
人間界と天上界との福を説き、
二人は第一番に、五戒・十善を聞くことができたのである。
法誨を聞きおわり、供養するところのものをいただきたいむねをお願いした。
如来は請われるままに、頭髪と爪とを授けた。
二人の長者は、本国に帰ろうとして、供養礼敬するしかたをおたずねした。
如来は、僧伽梨(袈裟)を四角にたたんで下にしき、
次に欝多羅僧(上着)、その次に僧祇支(肌着)とおき、
さらに鉢をふせ錫杖をたてた。
このような順序でストゥーパをつくった。
二人は命を承り、それぞれ自分の城に帰り、
聖旨のごとくしようとしてりっぱに建立を行った。
これがすなわち釈迦の教えにおける最初のストゥーパである。

「大唐西域記」




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