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引き続きまして、
神学者ジョン・ヒック氏による、仏教における再生の概念に関する論考です。

このような生命観が常識となる日は近いと思われます。




幅広いテーマの中で、私は主として仏教における再生信仰を、
西洋のどの哲学者にも負けないくらい真剣に扱った。
この扱いの中で、私は永遠の天国あるいは地獄という、
キリスト教の標準的な教義を批判した。
その理由は、死を前にして、ほとんどの場合、
私たちはまだ永遠の天国(あるいは煉獄を経て天国)に入る準備もなければ、
永遠の地獄あるいは消滅の定めを受けることにも値しないからだ。
私たちには道徳的、霊的な、さらなる成長あるいは発展―それは、
伝統的な煉獄の教義によっては認められていない―を必要としている。
そして、このような発展は、この生命において起こる。
とはいっても、生と死によって境界を設けられた生命の枠組みがあるため、
その発展の生起には程度があるが。
これらの境界という圧力は、同じ生命を無限に展望するのとは違って、
この世界における私たちの時間に、切迫した意味を与えてくれる。
なすべきことはなさねばならない。
このようにして、さらなる有限の生の中に持続した前進があると言えるのだ。
私の最終的な結論では、仏教における再生の概念には、
かなりの真実が含まれているということだ。
このことは、現在の意識的自我の間の区別によるところが大きい。
この自我は不死ではない。
これはより深い実在、根底にある心的構造、気質的あるいはカルマ的持続音に対して、 
一時的で変化しつづける表現形態にほかならない。
そしてこの持続音は、現在の自我の活動に影響を与え、かつ影響を受けるもので、
永遠の究極的実在との統一に向けた漸進的発展を反映し、
新しい意識を伴った人格において、何度も繰り返し表現されるのだ。
こうした再生は、この世界内のものではないかもしれない。
なぜなら、多くの宇宙内、あるいはその下位に属する宇宙内に、
多くの世界があるかもしれないからだ。
しかし、多くの生命は、目に見えない記憶の連続性―それは通常は意識されないが、
生命の系列のアイデンティティを構成している―によって結びつけられている。
私が『第五次元』の中で提起した方法を、ここで繰り返して言うならば、
私たちが断片的で非常に不完全な自我に固執するかぎり、
それ(自我)が死に近づいているということは最悪の知らせであり、
私たちはその知らせを脳裏から消し去るために腐心するだろう。
しかし、もしお互いが長い創造的プロセスにおける現在の瞬間として自分自身を見、
そのプロセスの価値を信じることができるならば、
恐れや怒りを持たずに、自らの死ぬべき運命を受け入れることができるし、
また自分の寿命を精一杯生きようとすることができるだろう。
というのも、私たちが行うすべてのことは、積極的にも消極的にも、
現在私たちの中で具現化している計画を継続する、将来の自我に寄与しているからだ。
私たちはリレーの走者のようなものだ。
たいまつは私たちに手渡され、ほんの短い間ではあるが、
全体の計画は私たちに依拠している。
したがって、生命は切迫した意味を持ってくる。
私たちは死後も続く世界に対してのみならず、
霊魂すなわちジーヴァ、
あるいはカルマの連鎖といった基本的な性格傾向―これは私たちが受け継ぎ、
現在も絶えず微妙な形で善なるものへと、あるいは悪なるものへと変化させつつある―を、
次々と具現化する私たち自身の将来の自我にも、独特な何かで寄与しているのである。
ちなみに言えば、私は、カルマの持続音の中に生命の全系列の記憶が存在しており、
この記憶の閃光がときどき現在の意識に漏れ出てくることは、
おそらくありうると思っている。
けれども催眠術にかかって前世の生命に復帰するという話や、
前世の生命の記憶に目覚めたという話には、それほど感銘を受けない。
しかし教会の信徒を含め、約七割の人々が、
ある種の再生を信じると告白しているという報告があるように、
より単純かつ通俗的な形での再生を信じることは、驚くほど現代の西洋社会に広がっている。
多くの場合、人々はおそらく仏教の複雑な観念とは異なり、
現在の自我がそのまま再び生きるという、より通俗的な発想をしているように思われる。
人々が伝統的なキリスト教の信仰に本当らしくない点を見出し、
すべての偉大な世界宗教に見出される基本的な宇宙的楽観論を共有し、
ある種の再生というものに最も本当らしい可能性を見出しているのではないか、
と私は想像している。


「ジョン・ヒック自伝」




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宗教多元主義の提唱者として知られる、
最も影響力のあるイギリスのキリスト教神学者、宗教哲学者のジョン・ヒック氏は、
驚くべきことに、どのような日本の仏教学者よりも、仏教の本質を捉えています。

多様な宗教の中に、絶対者の愛の現れを見る慧眼があればこそです。

氏の仏教的瞑想に関する論考です。




『仏教徒の瞑想の核心』という書物の中に詳細に記述されている瞑想方法は、
「サティパッターナ」、つまり「気づきの瞑想」として知られている。
その基本的な発想は何かに集中することで、
つまりそれ自体では意味を持たないような自らの呼吸に集中することで、
日常的に絶えず変化していく事柄に対する意識を空にし、そうすることによって、
通常では気づいていない偉大な実在へと意識を開いていく、というものである。
しかしながら、これは単に瞑想によって達成される特殊な瞬間なのではなく、
人生の多くの部分に浸透する心の状態なのだ。
その手順はとても単純である。
背中を伸ばして楽にすわり、日常の経験を超えた実在へと、
自らを開くように意識を集中させ、数回深呼吸をし、目を閉じ、
単に呼吸に対して―なるべくならば横隔膜で―吸ったり吐いたりすることに注意する。
心は何度も何度もその集中からさまよい出ていくが、
そうしたいという気持ちがあるかぎり続けて、呼吸に戻っていく。
ときには、しばらく後に、何の努力をしなくても、
自然と心が呼吸に集中したままでいられるような、第二段階に到達する。
そして無限に続けることができるかのように感じる。
私は一度、といっても、これまでたった一度だけの経験ではあるが、
意識の新しい形態、あるいは次元への驚くべき躍進と思えることを経験した。
私はその第二段階に達していたのだ。
そして目を開いたとき、世界は二つの点でまったく異なっていた。
通常、私はここにいて、周りの環境はそこにあり、私から離れているのであるが、
そのときはそのような区別がなかったのだ。
そして、もっと重要なことには、私がその部分となっている世界の総体は親しみ深く、
温和で、素晴らしく、恐れたり、悩んだりすることなど何もありえなかったのだ。
それは存在というものについての深い喜びの状態だった。
これはほんの短い時間、おそらく二分間も続かなかったであろう。
しかし私は、そのような心の状態の中で長い間生活し、
あるいは存在し続ける人にとっては、深い静穏が存在するということ、
そして仏教の教えの中心でもある利他的慈悲、つまり他者への共感と他者への共鳴、
自我中心的でない慈悲がまったく自然なものになる、ということを理解することができる。
ほんのわずかでもこのことを味わうことができたのは、大変意義深かった。
また、そのニルヴァーナの状態のほかに、
瞑想により、言葉では言い表わせないような高揚の時や、深い喜びの時もある。
瞑想によって理解できることの一つは、
私たちの精神生活がどれほど複雑で多次元的なものであるかということだ。


「ジョン・ヒック自伝」




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2009.05.10 魁!田母神塾
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